なんともすっきりしない気分なので、ロベール・カサドシュをもう少々。LP時代の昔から永く拙宅にあって愛聴したアルバムを久しぶりに取り出してみた。ただしCD再編集盤なので曲目が少し異なるのだが。
"Robert & Gaby Casadesus: Two pianos & piano for four hands"
ドビュッシー: 小組曲(連弾)*
フォーレ: 組曲「ドリー」(連弾)**
カサドシュ: 三つの地中海風舞曲(二台ピアノ)***
ドビュッシー: 白と黒で(二台ピアノ)****
サティ: 梨の形をした三つの小品(連弾)*****
ピアノ連弾&二台ピアノ/ロベール&ギャビー・カサドシュ1959年6月25、26日、パリ* ** *****
1950年1月30日、ニューヨーク、コロンビア三十丁目スタジオ***
1963年6月5日、パリ、サル・アポロ****
Sony-Masterworks Portrait MPK 52527 (1992)
→アルバム・カヴァー今ちょっと調べたら昨年もこのディスクを聴いていた。その折の拙レヴューを再録しよう。まるで同じ感慨を抱いたからだ。
「小組曲」が始まった途端おゝと溜息。愛聴したLPの冒頭曲だったからだ。初めて実演を聴いたピアニストだったわりに、ロベール・カサドシュのディスクには縁が薄く、架蔵したLPは妻ギャビーとの二重奏アルバム(→これ)位。本CDのフォーレもサティも同じアルバム収録曲だったから懐かしさも一入。ただし昔はLPカヴァーの夫妻の笑顔に騙されていた気がする。改めて聴くと演奏は柔和な笑みとは程遠く、辛口で明晰、クールな客観主義に貫かれている。もっと情感を・・・と無いものねだりしたくなるが、これが彼らの芸風なのだ。LPにあったシャブリエが本CDでは割愛されたのはちょっと残念だが、代わりにカサドシュの珍しい自作自演曲とドビュッシーの二台ピアノ用「白と黒で」(目覚ましい名演!)が聴けるのだから難有い。自作曲は響きを透明にした光彩陸離たるミヨーといった趣の音楽である。
この感想文に附け加えることは何もない。宝石のように煌めく玲瓏たる演奏である。放たれる光芒はあくまでも冷やか、カサドシュ夫妻の澄みきったタッチは氷の楼閣さながらだ。
もうひとつ、LP時代に中古盤(日コロムビア)で手に入れ、すっかり気に入ってしまったのがロベール・カサドシュのバッハ・アルバムである。今は殆ど顧みられることのない盤だが、十数年前に一度だけCDで覆刻された。
"Casadesus Edition: Bach"
バッハ:
トッカータ ホ短調 BWV914*
イタリア協奏曲*
パルティ―タ 第二番 ハ短調*
フランス組曲 第六番 ホ長調**
ヴァイオリン・ソナタ 第二番 イ長調***
ピアノ/ロベール・カサドシュ
ヴァイオリン/ジーノ・フランチェスカッティ***1958年5月9日、パリ*
1951年3月21日、ニューヨーク、コロンビア三十丁目スタジオ**
1947年5月7日、ニューヨーク、リーダークランツ・ホール***
Sony France 5033832 (2001)
→アルバム・カヴァー冒頭三曲がそのLP盤に含まれていたもの。曲順は確か「A面/イタリア協奏曲→トッカータ→B面/パルティ―タ」だったと思う。いや間違いなくそうだ、この「イタリア協奏曲」が始まった途端「おゝ!」と身を乗り出して聴き惚れたものだ。
あれは1980年前後だったか。
グレン・グールドの奇矯なバッハに些か食傷気味だった小生は、この蒸留水のように透き通った、企みや邪念を感じさせない演奏に接して、胸のすくような爽快感を覚えた。すっきり形の整った、タッチの粒立ちの美しい透明なバッハ。ちょうどその頃
マルタ・アルヘリッチのバッハ・アルバムが出て、そこで彼女が弾くパルティータ第二番がこのカサドシュの衣鉢を継ぐものだと感じたりもした(実際は恩師
フリードリヒ・グルダの流儀に倣ったらしい)。
カサドシュと同世代のバッハ弾きには
エトヴィン・フィッシャー、
ヴァルター・ギーゼキングがおり、仏蘭西人では
マルセル・メイエールと
イヴォンヌ・ルフェビュールの名が思い浮かぶのだが、そのなかにあって荘重な重苦しさと無縁なカサドシュの演奏スタイルは断然新しく、時代に一歩先んじていたように思う。
音楽家一族に生まれたロベール・カサドシュは、仏蘭西における古楽復興の先駆者
アンリ・カサドシュ(ヴィオラ奏者)と
マリユス・カサドシュ(ヴァイオリン奏者)を叔父にもち、若い頃マリユスとデュオを組んでいたというから、20世紀初頭のバロック復興の機運を肌で感じていたことだろう。彼がクープラン、ラモー、バッハ、スカルラッティを好んで演奏会で取り上げたのも、そうした時代精神の現れだった。
CD時代に入って、忘却の淵に沈みかけたカサドシュのバッハの魅力を久しぶりに思い起こさせてくれたのは、Sonnenfleckさんのブログ「庭は夏の日ざかり」のこの記事である(
→無題のドキュメント:バッハ)。そこから少し引かせていただく。
友人宅で聴かせてもらって、電撃的に痺れた一枚。
どこを探し回っても全然見つからず、その友人に頼み込んで譲ってもらおうとまで考えていたのだが、期待しないで入った雨の日曜のお茶の水のディスクユニオンで、ついに見つけた。
[...] この50年前のバッハには強い衝撃を受ける。
晴れ渡った真っ白な砂浜のようでいて、そのくせ歌う貝殻や装飾的海草もなく、音波だけが規則正しく押し寄せてくるようで。これほど精緻に作り込まれた人工物があっていいのだろうか?
グールドのバッハは不自然の姿に擬態した自然なのだろうと思うが、カサドシュのバッハは自然の姿に擬態した不自然ではないのか? 騙されていいのだろうか? トッカータの後半、あるいはパルティータ第2番のサラバンド→ロンド→カプリッチョにおける、いささかのささくれもないツルリとした音の流れ。成程ねえ! グールドのバッハを「
不自然の姿に擬態した自然」、カサドシュのバッハを「
自然の姿に擬態した不自然」だと喝破するのは、蓋し卓見というべきか。してみると、カサドシュの詐術に小生はまんまと騙されたということになろう。
これを読んで、もう居ても立ってもいられなくなったものだが、肝腎の音盤が今や手許にない(かつて愛聴したLPは遠方のトランクルームのなかだ)。爾来、機会ある毎にカサドシュのバッハ・アルバムを躍起になって探してみたものの、どうにも見つけられぬまま数年が空しく過ぎた。
ところが数週間前にふと立ち寄った御茶ノ水の中古店で(奇しくもSonnenfleckさんが発掘したのと同じ場所だ!)、この再発CDにひょっこり出くわしたという次第。嬉しいなあ、どうやら音楽の神様が加勢してくれたらしい。