カレーを賞味し、味噌を手に入れた小生は御茶ノ水にほんの少々寄り道して帰路に就いた一昨日。その際に手にした旧譜CDをこうして聴いている。慌ただしい師走だからこそ忙中閑あり。ひっそりひとり静かに過ごす時間は貴重このうえない。
"Casadesus Edition: Franck, Chausson"
フランク:
ヴァイオリン・ソナタ*
ショーソン:
ヴァイオリンとピアノと弦楽四重奏のための協奏曲**
フランク:
交響変奏曲***
ピアノ/ロベール・カサドシュ
ヴァイオリン/ジーノ・フランチェスカッティ* **
ギレ弦楽四重奏団(ダニエル・ギレ、バーナード・ロビンズ、エマニュエル・ヴァーディ、ベナール・ハイフェッツ)**
ユージン・オーマンディ指揮
フィラデルフィア管弦楽団***1947年5月7日*、1954年12月1日**、ニューヨーク、コロンビア三十丁目スタジオ
1958年11月15,16日、フィラデルフィア、ブロードウッド・ホテル***
Sony France 5033852 (2002)
→アルバム・カヴァー寒い冬の夜に聴くフランクには格別の味わいがある。ソナタを奏でるフランチェスカッティの地中海の陽光みたいに晴れやかな音色は、内省的で玄妙なフランクの楽想とはまるで水と油のようでいて、思いのほか違和感なく腑に落ちる。そこに演奏芸術の不思議さがあるともいえるが、冷静に堅実に下支えするカサドシュの伴奏の力があってのことだろう。
これまで何度か書いたことだが、ロベール・カサドシュは小生が生演奏で耳にした最初のピアニストである。高校一年だった小生には豚に真珠だったかもしれないが、それでも彼が独奏を弾き、イシュトヴァーン・ケルテスが伴奏した「皇帝」協奏曲は実に高貴な、些か「美しすぎる」と感じさせるほどの秀演だった──四十六年後の初老の男は遠い目でそう呟いてみる。真偽の程はもう誰も確かめられない。
今夜こうして聴いていて最も胸に沁みるのは交響変奏曲だ。ステレオ録音のせいもあるのだが、とにかく音楽の輪郭がくっきりしていて、オーマンディの指揮するフィラデルフィアのオーケストラの上手さも尋常でない。
そこから浮かび上がるのはフランクの純で生一本なロマンティシズム。カサドシュのピアノは淡々としていながら、澄み切った空のような気高い透明感を湛えている。こういうのをセラフィック(熾天使的)な美しさというのだろう。
寝る前にもう一枚。これは前々から架蔵するもの。
"Casadesus Edition: Liszt, Weber, Saint-Saëns, Fauré"
リスト: ピアノ協奏曲 第二番*
ウェーバー: コンツェルトシュテュック*
サン=サーンス: ピアノ協奏曲 第四番**
フォーレ: バラード**
ピアノ/ロベール・カサドシュ
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団*
レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック**1952年1月20日、クリーヴランド、セヴェランス・ホール*
1961年10月30日、ニューヨーク、マンハッタン・センター**
Sony France 5033972 (2002)
→アルバム・カヴァーどれも格調高い演奏。ただし共演指揮に難あり。セルはカサドシュが最も好んだ指揮者だが、ここでは後年の円熟したスタイルとは異なり、些か武張った生硬さが表に出てしまい、流麗なピアノを邪魔している。後半の二曲では珍しくバーンスタインと組んでいるが、指揮者の表現意欲が露骨に出過ぎて、およそ場違いな大仰で重々しい伴奏に終始している。折角のサン=サーンスも台無しだ。これがオーマンディだったら、それらしく巧みにこなすだろうに。駄目だなあレニー。