うすら寒さを音楽で紛らわしている最中に菅原文太の訃報が伝わってきた。八十一歳というから仕方ないとはいえ、それでも無念な気持で一杯だ。どちらかというと健さんのときよりも悲しみが募るのは、まあ当方の思い入れの深さの違いなのだから致し方あるまい。
生身の文太さんを観たのは1975年1月19日、新宿の東京厚生年金会館大ホールであったコンサート「歌う銀幕スター夢の狂宴」のときだけだろう。舞台袖で小道具の出し入れを手伝っていた小生は、彼が「吹き溜まりの詩
(うた)」や「命半分ある限り」で渋い喉を聞かせるところや、《緋牡丹博徒 お竜参上》の雪の今戸橋の名場面の再現を演じるところを、溜息まじりに脇から瞥見したのである。
TBSアナウンサー林美雄が発案・プロデュースしたこの一大イヴェントでは、並み居る映画スターたちの間で菅原文太は間違いなく一方の旗頭だった(もう一方の雄は渡哲也だ)。《仁義なき戦い》シリーズの大ヒットを受け、文太人気は絶頂を極めており、遠目に見てもその痩身の佇まいから発散されるオーラは凄まじく、ちょっと近寄りがたく思えたほどだ。
コンサート終了後、新宿の居酒屋「どん太郎」でささやかな打ち上げ会が催されたが、文太さんはそこにも同席した由。柳澤健の評伝『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』からその件りを引く(連載第十二回)。証言者は我々の仲間うちでただひとり打ち上げに参加した野沢直子さん。
菅原文太さんと長谷川ゴジ(=和彦)さんが朝までいらっしゃって、私も結局朝までいたんですけど。その時、文太さんがゴジさんに向かって「一緒に映画を撮ろうよ」と盛んに話しかけていた。
文太さんは「銀幕」の時に初めてゴジさんに会って、ゴジさんの強烈なキャラクターに魅了されたんだと思います。
七九年にゴジさんが作った《太陽を盗んだ男》を観た時には「ああ、あの時ふたりが話していたことが実現したんだな」って思って感激しました。
骨の髄まで映画人だった文太さんのご冥福を心からお祈りする。貴方ほど立ち姿の格好いい男優を、あとにも先にも日本映画で観たことがありません。