先だって新宿で時間を潰した折に拾い上げたバルトーク三枚組CDをじっくり時間をかけ玩味した。ベルリンの放送局アーカイヴに遺されたフェレンツ・フリッチャイの貴重な放送録音の集成である。
"Ferenc Fricsay conducts Béla Bartók"
バルトーク:
ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン/ティボル・ヴァルガ
1951年9月13日、ベルリン、ティタニア=パラスト(実況)
▮ DG録音/1950年1月
二つの肖像
ヴァイオリン/ルドルフ・シュルツ
1951年9月11日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/1952年6月7日
カンタータ・プロファーナ
テノール/ヘルムート・クレプス
バリトン/ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
RIAS室内合唱団、ザンクト・ヘドヴィヒ大聖堂合唱団
1951年9月12日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/なし(RIAS録音を流用)
弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽
1952年10月14日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/1953年6月17~20日
舞踊組曲
1953年6月10日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/1953年6月9、12日
弦楽のための嬉遊曲
1952年2月11日、ベルリン、ティタニア=パラスト(実況)
▮ DG録音/1953年4月11、13日
ピアノと管弦楽のための狂詩曲
ピアノ/アンドル・フォルデシュ
1951年12月12日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/1960年10月15~19日(アンダ)
ピアノ協奏曲 第二番
ピアノ/ゲーザ・アンダ
1953年9月7日、ベルリン、イェズス=クリストゥス教会
▮ DG録音/1959年9月10、15、16日
ピアノ協奏曲 第三番
ピアノ/ラヨシュ・ケントネル(ルイス・ケントナー)
1950年1月16日、ベルリン、ティタニア=パラスト(実況)
▮ DG録音/1954年4月27~30日(アース)、1959年9月7~9日(アンダ)
フェレンツ・フリッチャイ指揮
ベルリンRIAS交響楽団Audite 21.407 (3CDs, 2011) →アルバム・カヴァー
バルトークの生前はもとより、歿後まだ日の浅い1950年代前半まで、彼の管弦楽曲といえば専らハンガリー出身の指揮者の独擅場だった感がある。
ブダペストでのバルトーク夫妻の告別演奏会を指揮した
ヤーノシュ・フェレンチクを筆頭に、国際的に活躍した
フェレンツ・レイネル(フリッツ・ライナー)、
イェネー・センカル(オイゲン・センカー)、
イェネー・ブラウ(ユージン・オーマンディ)、
ジェルジ・シェベシュティエーン(ジョルジュ・セバスティアン)、
アンタル・ドラーティ、
ラースロー・ショモギー、
ジェルジ・ショルティ・・・。彼らの献身的な貢献がなかったら、バルトークは現今のようなユニヴァーサルな存在にならなかっただろう。
とりわけ戦後間もなく共産政権を嫌って拠点をドイツに移し、目覚ましい指揮活動を繰り広げた
フェレンツ・フリッチャイの果たした役割は大きかった。
フリッチャイはブダペスト音楽院時代の師匠であるバルトークとコダーイの音楽の普及をライフワークとしていた。ベルリン移住後は手兵RIAS交響楽団を率いて、バルトーク作品を実演・放送・レコード録音で果敢に採り上げている。
1949年にドイツ・グラモフォンと専属契約を交わしたフリッチャイは、ティボル・ヴァルガを独奏者とするヴァイオリン協奏曲を皮切りに、「弦チェレ」、嬉遊曲、管弦楽のための協奏曲、オペラ《青髭公の城》など、主要なオーケストラ作品を矢継ぎ早に録音した。その早すぎる晩年に盟友ゲーザ・アンダと組んだピアノ協奏曲の全曲録音は、今なお規範的な名演と目されている。
近年 Auditeレーベルから出たこのフリッチャイのバルトーク集成は、曲目を一瞥しただけでは紛らわしいが、実はそれらグラモフォン録音とはまるで別物である。彼が常任を務めたRIAS交響楽団(のちベルリン放送交響楽団)は西ベルリンの米国管理地区の放送局RIAS(=Rundfunk im amerikanischen Sektor)の専属オーケストラであり、放送用の実況録音・スタジオ録音を恒常的に手掛けており、このCD三枚組は放送局アーカイヴに現存するフリッチャイのバルトーク全録音を漏れなく集大成したものだ。
かつてグラモフォンから出たことのある「カンタータ・プロファーナ」を除いて、すべてが初出音源であり、曲目こそ正規盤と重複して新味はないものの、フリッチャイの「もうひとつの」バルトーク選集としてその歴史的価値は計り知れない。
(まだ聴きかけ)