現今のレコード界はどこのメイジャー・レーベルも往年の企画力や矜持を失い、辛うじて存続しているだけの有様だ。そのかわり群小レーベルは以前にも増して意欲的なアルバムを続々と世に問うている。ただし、ひっそりと出て、じきに消え失せてしまうから、よくよく目を光らせていないと気づかずに終わる。
たまたま「谷中オペラ日記」というブログを眺めていて(
→ここ)、こんなアルバムの存在を教えられた。ブリュッセルのラ・モネー劇場が肝煎りになって出たものらしい。レーベルは幾多の隠れた名盤を手がけているベルギーのCypresだ。
"GREEN - Visages de Verlaine"
レナルド・アーン:
二人きり ~「灰色の歌」(1887~90)
妙なるとき ~「灰色の歌」
雅なる宴 (1893)
クロード・ドビュッシー:
忘れられし小唄 (1886~88)
■ そはやるせなき
■ わが心にも雨ぞ降る
■ 木々の影
■ 木馬
■ グリーン
■ 憂愁
ベルナール・フォクルール:
ほっそりした手が触れたピアノ
ガニュメデス
優しさから・・・
ジーグを踊ろう
ガブリエル・フォーレ:
ヴェネツィアの五つの歌 (1891)
■ マンドリン
■ 密やかに
■ グリーン
■ クリメーヌに
■ そはやるせなき・・・
ブノワ・メルニエ:
野の果てなき倦怠のなか ~「ヴェルレーヌによる二つの歌」(2010)
キュテラ ~「ヴェルレーヌによる二つの歌」
ウジェーヌ・ラクロワ:
マンドリン ~「ポール・ヴェルレーヌの五つの歌」(1898)
エルネスト・ショーソン:
しじま ~「四つの歌」(1885~87)
アンドレ・カプレ:
グリーン (1902)
ソプラノ/ゾフィー・カルトホイザー
ピアノ/セドリック・ティベルギアン 2011年12月5~7日、ポール=ロワイヤル・デ・シャン(パリ郊外)
Cypres CYP1664 (2012)
→アルバム・カヴァー →アルバム裏面本CDにはちょっとした謎かけがある。アルバム・カヴァーにはただ "GREEN" とのみ記され、演奏者名のほかは何も手がかりがない。裏面をひっくり返しても曲目リストがあるばかりで、肝腎の主役の名前は隠され、どこにも記されていない。「これで判る人には判るでしょう」と云わんばかり。
封を切り解説書を繙いてみて、初めて当アルバムの副題が明かされる。すなわち "Visages de Verlaine" ──ヴェルレーヌの(いくつもの)顔、と。これはポール・ヴェルレーヌの詩に作曲したメロディばかり丹念に拾い集めたアンソロジーなのである。表だってそう喧伝しないところがちょっとひねくれて面白いところだ。
ヴェルレーヌに因んだ歌曲を集めたアルバムは過去にいくつか例があるものの、今回のディスクはそれらとは様相を異にしている。なにしろ曲目のセレクションが凝りに凝っていて、有名無名を問わず入り乱れている。
ヴェルレーヌといえば誰しも思いつく二つの歌曲集──
ドビュッシーの「忘れられし小唄」と
フォーレの「五つのヴェネツィアの歌」──が丸ごと収録されるのは当然として、知る人ぞ知る
アーンによる珠玉のヴェルレーヌ歌曲をいくつか、そして彼らと同時代ながら滅多に歌われる機会のない
ショーソン、
カプレ、
ラクロワの秘曲、更には現代ベルギーの二人の作曲家──
フォクルールと
メルニエによる新作歌曲まで取り上げられる。こうして百年に及ぶヴェルレーヌと作曲家たちの魂の交感が一枚のディスクから浮かび上がる点にまず比類ない面白さがある。
もうひとつ気づくのは、収録曲目にはヴェルレーヌの同一詩に異なった作曲家が附曲した重複例がいくつも含まれている点である。
具体的に云うと、まずアルバム標題にもなった「
グリーン Green」にはドビュッシー、フォーレ、カプレが三者三様に曲をつけているし、「
マンドリン Mandoline」もフォーレとラクロワ、更に(曲名こそ「雅なる宴」と異なっているが)アーンまで歌曲にしている。かてて加えて、ヴェルレーヌの絶唱として名高い「
そはやるせなき夢心地 C'est l'extase langoureuse」をドビュッシーとフォーレとで聴き較べる贅沢な愉しみも忘れてはならないだろう。
このように網の目のように張り巡らされた歌詞と旋律、曲と曲、作曲家と作曲家の照応関係(correspondences)こそが本アルバムならではの聴きどころであり、これまで一度も験されたことのない魅惑的な試みなのだ。
欧州の昨今の声楽家事情に疎い小生はまるで知らなかったが、このソプラノ歌手
ゾフィー・カルトホイザー Sophie Karthäuser (ベルギー人なので正しい発音は未詳)はバロック音楽を主たるレペルトワールとし、モーツァルトのオペラでも目覚ましい活躍している人らしい。リモージュ王立音楽院とロンドンのギルドホール音楽学校に学び、今や欧州各地の歌劇場から引っ張り凧だという。ウィリアム・クリスティ、ルネ・ヤーコプス、大野和士などの指揮者との共演も数多い由。
その声は清楚そのもの、澄みきった泉水さながらに透明である。どこまでも真っ直ぐな唄いぶりには好感がもてるが、「忘れられし小唄」「ヴェネツィアの五つの歌」など古今の名演があまたある演目では流石に分が悪く、些か単調で情感に乏しい憾みがある。ディクシオンも少しばかり非フランス的だ(特に鼻母音)。だがアルバム全体の構成が秀逸なので、何度も繰り返し玩味したくなる。
このヴェルレーヌ・アルバムは彼女の発案になるものといい、まずドビュッシー「忘れられし小唄」を中心に据え、そこから徐々に広げていき、今の構成に行き着いたものらしい。どうしても同時代物が入れたくて、親交のあるベルギー作曲家二人に新作を書き下ろしてもらったというから、意気込みのほどが察せられよう。
これとほぼ同内容の演奏会をパリ(オペラ・バスティーユ)、ロンドン(ウィグモア・ホール)、ベルリン(フィルハーモニーザール)でも催した由。聴きたかったなあ。その折の共演者は本録音と同じ
セドリック・ティベルギアン Cédric Tiberghien だそうで、この人がまた恐ろしく巧緻な、閃きに満ちたピアノを弾く。このところ何度か来日しているらしい。全くもって小生は知らないことが多くて情けなくなる。