欧米児童文学の邦訳史を繙いてみると、太平洋戦争開戦を挟むキナ臭い時代に、少なからぬ名作良書が日本語に訳されている驚愕の事実に気づかされる。拙宅の乏しい書棚を見渡しても、
カレル・チャペク
永井直二 譯
チャペク童話集 河童の會議
冨山房(冨山房百科文庫)
1939年12月
ケネス・グレアム
中野好夫 譯
たのしい川邊
白林少年館
1940年11月
カレル・チャペック
中野好夫 譯
チヤペツク童話集 王女樣と小猫の話
第一書房
1940年12月
A・A・ミルン
石井桃子 譯
熊のプーさん
岩波書店
1940年12月
ヒュー・ロフティング
井伏鱒二 譯
ドリトル先生「アフリカ行き」
白林少年館
1941年1月
シャルル・ヴィルドラック
石川湧 譯
ライオンのめがね
中央公論社(ともだち文庫)
1941年4月
エリザベス・エンライト
小出正吾 譯
農園の夏
實業之日本社(アメリカ少年少女文學賞叢書)
1941年9月
ウヰリアム・サロイヤン
清水俊二 譯
わが名はアラム
六興出版部
1941年11月
イネズ・ホーガン
光吉夏彌 譯
フタゴの象の子
筑摩書房(世界傑作繪本)
1942年2月
クルト・ヴィーゼ
光吉夏彌 譯
支那の墨
筑摩書房(少國民名作選)
1942年3月
エリザベス・ルウイズ
小出正吾 譯
揚子江の傳(フー)さん
實業之日本社
1942年3月
A・A・ミルン
石井桃子 譯
プー横丁にたつた家
岩波書店
1942年6月
モード・ピーターシャム、ミシュカ・ピーターシャム
内山賢次 譯
地中の寶の話 金と石炭
フタバ書院成光館
1942年9月
アーサー・スコツト・ベリー
小出正吾 譯
カハウソ太郎
フタバ書院成光館
1942年12月ざっとこんな具合。こうして時系列で並べると、まるで真珠湾攻撃もミッドウェイ海戦も存在しなかったかのよう。鬼畜米英の掛け声なぞどこ吹く風の趣なのだ。
一見すると百花繚乱の活況を呈するが、実はこれも当時の言論統制の現れとするのが研究者たちの通説である。1938年10月、内務省が通達した「兒童讀物改善ニ關スル指示要綱」で、事前検閲を含む取締を実施し、児童書の質的向上の名のもと安易な通俗書を追放し、一時的だが良質な絵本や児童文学の隆盛を促したのである。弾圧政策の副産物とは皮肉な成り行きというほかない。
だがそれも戦火の拡大とともに沙汰やみとなり、1943年に入ると翻訳児童文学の刊行はめっきり減少し、やがて途絶えた。いよいよファナティックな鬼畜米英が声高に叫ばれる悪夢のような時代が到来したのである。
先日たまたま所用で南青山の古書日月堂を訪れた際、ちょうど入荷したばかりという一冊の稀少な翻訳児童書を目にした。
アンドレ・モロア
楠山正雄 譯
童話 デブと針金
第一書房
1941年4月 →表紙
この本は大昔に百円で入手しながら、一度読んだ後ついうっかり手放してしまい、爾来ずっと気に懸けて探し求めていたのである。今回のはかなり値が張ったが、当初の帯やパラフィン包装まで具備した完本だったこともあり、この際とばかり手に取った。その帯から惹句を引く。
兒童文學の世界に開拓された新領野!!アンドレモロアがその詩人的空想と小説家的才能を縱横に驅使したユニツクな童話出づ今ではすっかり過去の存在となってしまった感があるが、フランスの作家・評論家
アンドレ・モーロワ André Maurois (1885~1967)はかつて文壇の寵児として令名を馳せ、1930年代を中心にわが国でも訳書が陸続と出たことがあった。本書は彼が珍しく子供向けに書き下ろした諷刺的なファンタジーであり、フランス文学に通暁した第一書房がそこに目をつけたのも不思議ではない。
この書肆と児童文学とはおよそ似つかわしくないが、上述したような海外児童書翻訳の気運が一時的に盛り上がったのを機に、中野好夫訳によるチャペック童話集『王女樣と小猫の話』に次いで本書を上梓したのである。
モーロワの童話がいかなる内容かは、その帯(裏表紙面)に縷々説かれている。
詩人、小説家、随筆家として有名なアンドレ・モロアの童話『デブの國の人と針金の國の人』を譯出したものである。ある夏の日曜日の午後、パリ近郊の森林公園へ遊びに行つた二人の少年兄弟が、偶然にも不思議なエスカレエターに乘つて、地上よりも七千倍の速さで時間がたつてゆく地下の國に下りてゆく。彼等はそこで相戰ふ二つの國を見る。これらの國々で二人の少年が如何なる役割を演じるか。これはモロア特有の詩人的な空想のなかに明るい諷刺と諧謔を湛へた好箇の少年物語であると同時に、茲には前大戰後の歐洲時局への政治的な寓意が含まれてゐる。このたび三十数年ぶりに再読。それなりに愉しんだ。だが別世界ファンタジーとしては底が浅く、デブと痩せの兄弟が生き別れ、それぞれ肥満国、痩身国で活躍するという筋立ても思いつきの域を出ない。取り柄はモーロワの筆致が軽妙闊達、ときにピリリと諷刺が効いているところか。邦訳はその飄逸な調子を日本語に写し取ろうと健闘している。楠山正雄は仏蘭西語にも通じていたのだろうか。
因みにオリジナルの仏語版は "Patapoufs & Filifers" (Paul Hartmann, 1930) といい(
→表紙、
→扉絵)、ご覧のようにカラフルな挿絵入り。原題にあるパタプーフが「肥満国住民」、フィリフェールが「痩身国住民」を意味する。十年後には米国で "Fatapoufs & Thinifers" (Henry Holt & Co., 1940) も出ており(
→表紙カヴァー)、楠山は訳出にこの英訳も参照できたかもしれない。
ところで小生が本書をどうしても手にしたいと希ったのは、モーロワの文章はさておき、モノクロながら収録されている挿絵をじっくり玩味したかったからだ。
仏版・米版・邦訳版どれでもいいが、その表紙絵をご覧いただくと、挿絵画家の特色ある筆致の一端がみてとれよう。第一書房版のどこを探しても挿絵画家に関する記載は見当たらないが、一癖あるカリカチュリスティックなペン画は紛れもなく両大戦間の諷刺画家のスタイルを示し、古書日月堂店主が「これ、ヨゼフ・ラダに見えますけど」と漏らしたのも宜なるかな。もっともフランスの児童文学にチェコの挿絵画家が絵をつけるとは常識的に考えにくいだろう。
たいがいの見開きに配された数多くの挿絵を見ていくと、その作風は時としてラダよりはむしろドイツのヴァルター・トリーアに近く、弾むように流暢な描線を素早く駆使して物語を活写する。なかなかの力量の持ち主とみたが、その個性はラダやトリーアほどに際だっておらず、いわば折衷的なスタイルに留まっている。一体全体これは誰の手になるものなのか?
邦訳では完全に無視されてしまった挿絵画家の名前は、英訳版の表紙にはっきり明記されている(
→再度、表紙カヴァー)。
ジャン・ブリュレール Jean Bruller というフランス人だ。この人のことは堀内誠一さんが福音館の雑誌『子どもの館』の表紙絵で採り上げたことがあり、ドイツの古典絵本『マックスとモーリッツ』の翻案絵本『
ピフとパフ Pif et Paf』(Fernand Nathan, 1927
→これ)がかなり好意的に紹介されていた。堀内さんの慧眼に敬服するばかりだ。
このジャン・ブリュレールは1902年パリに生まれ、1920年代に諷刺漫画家としてめきめき頭角を現した。戯画を集めた数冊の自作アルバムを出したのち、上述のピフとパフを主人公とする絵本シリーズが人気を集め、書肆アルトマンの依頼で1929年から30年にかけてキプリングやモーロワの著書に挿絵を提供した。『デブと針金』はその一冊だったのである。その後30年代にもラシーヌの戯曲『訴訟狂』に挿絵を寄せるなどしたが、1939年の第二次大戦勃発はブリュレールの人生を一変させた。画筆をきっぱり捨て対独レジスタンスに身を投じた彼は、もう二度と人前に姿を現さなかった。少なくとも挿絵画家ブリュレールとしては・・・。
1942年2月、ドイツ占領下のパリで極秘裏に印刷された地下出版物「
深夜叢書 Les Éditions de Minuit」の第一冊がひっそりと世に出た。
刊行部数は三百五十部。大っぴらに流通できないので、レジスタンスの仲間の手から手へと渡され、熱心に読まれた。戦時下の資材難ゆえザラ紙を用いた粗末な表紙(
→これ)には、ただ "LE SILENCE DE LA MER" とのみ標題が記され、上部に小さく著者名 "VERCORS" とある。『
海の沈黙』そして「
ヴェルコール」。
小説の粗筋は至ってシンプルだ。1941年冬、フランスの寒村で老人とその姪が静かに暮らす一軒家に進駐ドイツ軍の将校が間借りする。仏語を流暢に操り、フランス文化への尊敬を口にする将校に対し、二人の住人はひたすら沈黙を守り通す。いかに軍人が慇懃な態度で親愛の情を示そうと、非道な侵略の一翼を担う者に心を許すことはできない。会話は成立しないのだ。フランス人家族は「海のように深い」沈黙をもって、無言のうちに抵抗の意志を表明する・・・。
『海の沈黙』はロンドンにあった亡命政権のド・ゴール将軍の許にも届き、彼のじきじきの指示で大部数の増刷がなされ広く流布したという。その一冊をレジスタンスの渦中で手にした青年ジャン=ピエール・グランバックは深く心を動かされ、その映画化を密かに誓う。のちのジャン=ピエール・メルヴィルである。
この静かなる抵抗の意志、レジスタンス精神の真髄を表明した小説『海の沈黙』の作者ヴェルコールこそ、かつての挿絵画家ジャン・ブリュレールその人だった。
『海の沈黙』は極東のこの島国でも次作と併せて戦後やっと翻訳が出た。1951年のことである(ヴェルコール『
海の沈默・星への步み』河野與一・加藤周一譯、岩波現代叢書
→表紙)。心ならずも戦場へ駆り出され、空襲に家を焼かれながら抵抗の術をもたなかった人々、当時まだ占領軍の支配下で独立を奪われていた人々にとって、毅然たるフランス人たちの不服従がどれほどか眩しく感じられたことだろう。内心忸怩たる思いに駆られもしたのではないか。
同書の読者の第一世代は今やもう八十歳代以上だろうが、その一人だった叔父から強く薦められて小生もまたこの本を手にした。1960年代末のことだ。
思いがけず『デブと針金』に再会して、レジスタンス作家ヴェルコールの前身たる挿絵画家ジャン・ブリュレールの仕事の一端に心して触れる機会を得た。
子供向けに書かれているものの、『デブと針金』でモーロワは現実の政治体制を痛烈に皮肉っている。飽食の快楽主義者「パタプーフ」とはすなわち仏蘭西人、勤勉で糞真面目な「フィリフェール」が独逸人の戯画化であることは明らかで、その両国が些細な理由から全面戦争に走るさまは第一次大戦を彷彿とさせる。そしてその構図はそっくりそのまま来るべき第二次大戦を予言さえしているのだ。
1941年これを邦訳した楠山正雄も、刊行した第一書房も、その諷刺の矛先をよく心得ていたはずだ。帯の文言の一節「
茲 [ここ] には前大戰後の歐洲時局への政治的な寓意が含まれてゐる」はその証左だろう。戦争の愚かしさを暗に訴えた本書が当時の軍事国家の検閲をよくぞすり抜けたものだとつくづく思う。
モーロワが真摯なメッセージを籠めた「反戦寓話」に挿絵を描きながら、果たしてブリュレール=ヴェルコールの胸中にはいかなる感慨が去来したのだろうか。