昨日は次第に散らかって足の踏み場もなくなりつつあった書庫の片づけをした。不要不急の書目・資料を別の場所に移す作業である。埼玉から甥っ子が手伝いに来てくれたので、作業はかなり捗ったとはいうものの、まだまだ途半ば。書庫を書斎として使えるようにするのが当面の目標なのだが。
さて、その過程で珍しい雑誌がひょっこり出てきた。「水曜会」なる戦前の演劇研究団体が出していた『演劇運動
葡萄畑』という小ぶりな薄冊雑誌の昭和三年十二月号(通巻第十五輯)。「水曜会」も「葡萄畑」も寡聞にして詳らかでないが、発行人は水品春樹とあるから、おおかた築地小劇場で小山内薫の周辺にいた若い新劇人たちが集った同人なのであろう。因みにその小山内は本号が出て間もない1928年12月末に急逝してしまう。
つらつら考えるに、これはかなり前に御茶ノ水の古書会館の即売会で発掘しながら、そのまま書物の山に埋没してしまったものだろう。
ただし、こんな未知の小雑誌に食指を伸ばした理由はよくわかっている。この号の冒頭に思いがけず興味深い翻訳論考が掲載されているからだ。
筆者は
ルイス・ロゾウィック Louis Lozowick (1892~1973)。アメリカの画家・版画家で、1920年代前半ヨーロッパに学び、最新動向であるデ・ステイルや構成主義の感化を受けて、アール・デコと前衛を折衷した作風で大都会の情景を石版画に描いた人として、アメリカ版画史の本に必ず名前の載る人である。
気鋭のアメリカ画家のエッセイが戦前の日本人に読まれたという意外性もさることながら、論考の題材が実に興味深いものだ。なにしろ
アレクサンドラ・エクステル Александра Экстер/ Alexandra Exter (1882~1949)が制作した操り人形を紹介する内容なのだから。滅多に目にする機会のない雑誌なので、その文章をここに引かせていただく。邦訳者は大岡欽治という人。
アレクサンドラ・エクステルのマリオネツト ルイズ・ロゾウイツク
近代ロシアの繪畫、又は新ロシア舞臺デザインの歴史に、アレクサンドラ・エクステルに依つてなされた重要なる貢献を考へずに完成されたものはない。他の多くの藝術家の如く、彼女は繪畫の新傾向の初歩の智識を得るために、そして彼女の藝術的個性の發展のためにパリに行つた。彼女は、ピカソ、マチス、ブラツク、レゲエル及び其他の反逆者等に依つて初められた革命傾向に親しみ、千九百九年──千九百十四年の歴史的期間に、彼等に依つて戰はされた美學上の論爭に參加した。後、彼女はロシアに、此の戰ひを運び、其處で近代藝術の主導的開拓者の一人となつた。
彼女が、タイロフと協同で、彼のカメルヌイ劇場に入つたのは、開拓者と經驗者としての、此の才能であつた。そして此の劇場の初期の歴史には、彼女の名は離すべからざる關係がある。Thamira of the Cithern (1916), Salome (1917), Romeo and Juliet (1920)
彼女のセツチングは、ステエジからリアリスチイク、イリジユウシヨン [ママ] を消すものであつて、其の代りに三次元的創造的造型装置を紹介した最初の内のものである。ステエジの建築と色彩のある彼女の經驗は、此の劇場歴史の内で最も記憶すべきものゝ内の、タイロフの初期演出を作つた機能の一つであるのは疑ふべきもない。
アレクサンドラ・エクステルの名声は当時の日本にも届いていた。革命前後のモスクワでメイエルホリドと並んで最も先鋭的な演劇活動を繰り広げていたアレクサンドル・タイーロフ Александр Таиров が主宰するカーメルヌィ劇場(モスクワ室内劇場)の評判は夙に知られており、その舞台を実見した者は少なかったものの、欧米の諸書でその革新性は喧伝されていた。そのタイーロフの劇団で数多くの尖端的な舞台美術を手がけていたのがエクステル女史だったのである(彼女による衣裳デザイン例: →《タミュリス・キファロドス》1916、 →《サロメ》1917、→《ロミオとジュリエット》1921、 →その舞台写真)。
当時わが国でソ連芸術の最新動向に最も通じていたロシア文学者の昇曙夢(のぼりしょむ)が著した『新ロシヤ舞臺美術大觀』(新潮社、1927)では、カーメルヌィ劇場でのエクステルの舞台美術を写真入りで詳しく紹介していたから、昭和初期の新劇関係者の間では彼女の名がそれなりに知られていた筈である。だからこそ、このロゾウィックの論考が『葡萄畑』同人の目に留まったのだろう。
エクステルはかくして、繪畫と劇場に於て、豊富なる經驗を用意して(千九百二十七年)マリオネツトの仕事に入つてきた。彼女の新しき經驗は、實に、兩者を包含してゐた。そして其れよりもつと廣い領域を覆けんとする意志であつた。即ち、繪畫に於て彼女は二次元に關係し、劇場に於て三次元を持つてデザインし、マリオネツトでは、彼女はモオシヨンの要素を加へた。彼女のマリオネツトは、であるから、或る點に於ては動く彫塑、又は、恐らくもつと正確に言へば、運動の彫塑繪畫とも考へられる。全體の意志は表現の出來るそして美を滿足させることの出來る物を作ることであり、そして強調すべき事は物語の筋の本當らしさとか、行動の心理とか、性格のリアリズムとかよりは、各々のマリオネツトの目に見える繪畫的容貌に置かれる。彼女のマリオネツトは、實在から離れた、完全に純粹ではない。彼等は其れを暗示する、全く巧みにも。然し、同時に彼等は疑ひもなく、藝術家の目的を離れる程に俗化されてゐる。
彼女のプロツトは非常に簡單である。中心として、Punch と Judy のテエマの周囲に、例へば、對照として近代的背景を加へた、コメデイヤ、デル、アルテの方法に從つて、カアニバル式演技に、四十の奇妙なマリオネツトが加はる。Punch と Judy が永遠の喧嘩の一つをやつてゐる。怒りの發作で、彼は彼女をヴヱニスの運河に投げこむ。Columbine と Punch が一目惚れするのを見よ。婦人に對する騎士道的決鬪。Punch は彼女の愛を得る。として、又、風のためにニユウ・ヨオクに運ばれる。其處で Columbine の瞳は周囲の富で大きくなつて、Punchは 寶石に對する彼女の懇願を滿足させるために盗賊となる。逮捕が逃走に續く。色々の間に、活潑なカアニバルの群衆、集合、分離、身振がある。各々のマリオネツトの性格は、或る根本的特色を減ずる人間に依つて描かれるより、もつと暗示的である。或るものは、強調され、他のものは稀薄にされた簡畧な恰好で表示されてゐる。度々、奇麗なレエス、又はビイズの紐の一片が女性の柔軟さと魅力を暗示するだらうし、紙、銅、又は木片は男性の果斷を表す。ステエジの色彩計畫の選擇に非常な成功をするエクステルは、もつと落着いた基調を此處で用ひた。即ち、白、黒、しばしばではないか明るい色で明快にされた薄空、マリオネツトの四肢は總ての方向に容易に動けるやうに關節で撃かつてゐる。人形が動いて位置を變へると、彼等は色々の色彩あり圖形、四角、三角及び其他の幾何學的、又はリズミツク演技に於て走り、平行し、相交り、横切る、幾何學的に近い型を表す。プロツトに於ける混亂の排棄、多くのリアリズムの排除(聲は使はない)は、見る物と、事が行はれてゐる方法とに、總ての注目を集中させる。
ロゾウィックの原文が難解で回りくどいのか、訳文が錯綜して意味がとり辛いところがあるが、要するにエクステルが拵えたマリオネットによる人形芝居は伝統的な道化芝居「パンチとジュディ」の現代版、もしくはパロディといった趣だったらしく、四十体も舞台に登場したという人形は、多彩だが落ち着いた色調のシンプルな姿態を有し、舞台上では幾何学的な、あるいはリズミカルな動作を繰り広げたということのようだ。台詞は用いられなかった由。
エクステルがこれらのマリオネットを制作したのは1926年のことといわれ、翌27年にはベルリンのシュトゥルム画廊で展示された由。ロゾウィックの書きっぷりはいかにも実際の舞台を観たように詳細だが、本当にそうなのか、果たしてそれがいつ、どこのことだったのかは判然としない。
エクステルは1924年にプロタザーノフ監督のSF映画《アエリータ》の装置・衣裳(
→これ)を手がけたあとフランスへ亡命し、その後はパリを拠点に活動した。ただし出国後の仕事はそれまでの世界的名声に比して捗々しいものとはいえず、演劇や映画での仕事もごく僅かしかない。ロゾウィックが紹介するマリオネット劇は、1930年代に手がけた数冊の「ペール・カストール」絵本(
→『川のパノラマ』)と共に、彼女のパリ時代を伝える数少ない成果のひとつとして注目に値する。
ロゾウィックはこのあと長い伝統をもつ人形芝居の歴史を略述し、18世紀中頃からリアリズム的傾向が深まり、それへの反撥から20世紀に「機械的抽象」を志向する前衛マリオネットが生まれた経緯をざっと記したのち、エクステルの人形芝居における独自の方向性を次のように総括する。
エクステルはそのやうな流れには行かなかつた。彼女は、極端なリアリズムと、極端な抽象の間の中央を守つた。人間の興味は現在だが、マリオネツトは各自の形に役割されるやうに要求する、明らかな區別のある各自の内部の價値を所有する實體として認められてゐる。クレイグは雄辯に、マリオネツトの優れたことを書いた。そしてタイロフは豪氣にも俳優の擁護をした。俳優とマリオネツトはお互ひに明確なる一致を持ち、何にか和解出來ない對立は、從つてないと假定して(メイエルホリドとピスカトオルは兩者を、同一舞臺で使用した。)或る人は、それにも掛らず、兎に角或る點に於て、後者は或る利益を持つと許すだらう。時々、劇場監督の最も注意深きプランの顚覆されるのは、生理上の偶然や生理上の故障に從はないメカニズムである。然し、其の創造者の制限には從ふものである機會の機能は最小限度で縮少される。そして其の働きは前に精密に算へることが出來る。かく、エクステルの數ダアスのマリオネツトの内、概念の統一は極く詳細に説明される。例へば、表面の織物の效果(滑らか、粗雜、莚、光澤のあるもの、粒状)そして異つた化學的性質の物質(銅、木片、セルロイド、油布、絹、紙)視覺を通じて觸覺に訴へるやうに作る感覺を刺戟するための結合、そしてそれに依つて美的經驗を擴大にし、豊富にする。物質の具體的性質に於ける、此の興味は思慮ある精密と同樣に、そしてエクステルのマリオネツトの幾何學的形體は、吾々の時代の誤りなき代表的なものとして、其の時代々々の代表的なものであつた總ての最上のマリオネツトの如く、其等を認める、ドイツの學者、フロオゲルは彼のマリオネツトの概史の、「人類歴史に對する貢献」と言ふ題で、疑ひもなく正しかつた。(大岡欽治譯)いやはや書き写していて頭が割れそうに厄介な悪文である。
わざわざクレイグの超人形論やタイーロフの俳優術を引き合いにペダンティックな調子で論じるロゾウィックの文章はどうにも訳者の手に余ったようで、この最後の箇所はもうお手上げの体たらく、まるで意味が辿れないのであるが、要するにエクステルが創ったマリオネット芝居は、触覚に強く訴えかける人形の物質性や、単純化された幾何学的な形態において傑出しており、当代随一のマリオネットと呼ぶに相応しい・・・とまあ、恐らくそういう結論なのであろう。ふう。
昭和初年に必死でこの文章と格闘した日本の芝居好きは、ここから何か具体的なマリオネット像を汲み取れただろうか? それは絶望的に困難だったことだろう。なにしろ誌面には作品写真ひとつ掲げられていないのである。
さて、かくも小生がアレクサンドラ・エクステルのマリオネット芝居に拘泥するのには理由がある。その人形の三体を間近に実見したことがあるからなのだ。
きっかけは1999年デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館で催された展覧会 "Puppen Körper Automaten (人形・身体・機械)"。無論これを観るのは叶わなかったが、たまたま懇意にしていたドイツのキュレーター女史から浩瀚なカタログを進呈されたのだ。「
バレエやダンスに興味がある貴方にはきっと面白い内容」と。難有く拝受したが独逸語テクストに歯が立たない。仕方なくパラパラ頁を捲っていたら、エクステル作のマリオネット人形十二体の図版と出喰わしたのだ(
→ポリシネル、
→赤衣の貴婦人、
→騎銃兵)。
うわあ、どれもこれも素敵ぢゃないか、いつの日か現物を拝見したいものだ。
その機会は思いがけず巡ってきた。2002年秋、キャンベラのオーストラリア国立美術館で開催されるジャクソン・ポロック展に、奉職していた美術館の収蔵作品を貸し出すことになり、クーリエ(作品の付き添い役)として初訪豪した。シドニーまでは空路、そこから先はトラックの助手席に同乗して荒涼たる陸路を何時間もひた走った(「
カンガルーに注意」の道路標識に何度も遭遇した)。
やっとキャンベラの国立美術館に到着、作品を収めた頑丈な木箱を展示室に運び入れるが、すぐに展示とはならない。新しい環境に馴染ませるため、二十四時間そのまま安置しなければならない──それが国際的なルールなのだ。
応接役の学芸員女史が「
時間があるので、当館の作品で観たいものがあれば案内するわ」と親切に言葉をかけてくれた。それならばまず「マレーヴィチを」。ここには彼の稀少な抽象絵画の一枚が所蔵されている(
→《スプレマチズム(建築中の家屋)》1915~16)。展示替期間とあって、壁に立てかけた状態ではあったが、間近にしげしげ実見できたのは大いなる眼福というべきだろう。
「
あとは何かある?」と女史。「
ただし、バレエ・リュスの衣裳だけは厳重に仕舞い込まれていて、お見せできないので悪しからず」と、これまた当方の関心に先回りするように予め釘を刺されていたのだが。
「それならば・・・」と咄嗟に小生の頭をよぎったのは、アレクサンドラ・エクステルが手がけたマリオネット人形である。上述したデュッセルドルフでの展覧会カタログで、ここキャンベラの美術館がそのうちの三体を秘蔵しているのを確かめておいたからだ(
→火星人、
→サンドウィッチ・マン、
→呼び売り屋)。
おずおずとエクステルの名を申告すると、学芸員女史は「
ああ、あれね」と呟き、少し誇らしげな表情で頷くと、収蔵庫へ小生を招じ入れ、片隅の棚に置かれたボール箱を慎重に引き寄せて蓋をそっと開いた。
(まだ書きかけ)