ひとつ前の記事で話者はいかにも訳知り風に語っているが、それにはネタ元というか種本というか、小生に「ペール・カストールのアルバム」の重要性を教えてくれた先行文献がある。そのひとつが瀬田貞二が今からきっかり四十年前に書いた「ペール・カストール」という文章である。もともと雑誌『月刊絵本』に連載された諸篇のひとつだが、やがて『十二人の絵本作家たち』(すばる書房、1976)に収録された。小生にとって今なお至高のバイブルであるこの本から引く。
ペール・カストールとは、メール・ロア(ガチョウおばさん)に対する「ビーバーおじさん」という位の、かるい親しい筆名にすぎなくて、本名をポール・フォーシェという教育者である。私の以前書いたものを引用すると、
「一九二七年、ロカルノで開かれた国際新教育連盟会議で、フォーシェは、チェコのすぐれた教育者フランツィセク・バクレにあってその説に共鳴し、バクレの片腕となってその学校の音楽団を組織、ヨーロッパ大巡業を果した。また同年、フラマリオン書店から今も評価される教育双書を刊行し、新教育運動フランス支局を設立した」
フォーシェの編集した教育双書の中には、児童文学論の古典となったポール・アザールの『本・子ども・大人』が加わっている。
フォーシェがバクレから学んだのは、自然の美しさとふしぎさを感じ、それを創造的な営みによって生かすことを教育の第一義とすることであったし、それを理論でなく、実践として行なうことであった。フォーシェは、バクレのもとにいた文筆にすぐれた夫人を得て、芸術が教育であり、教育が芸術であるような実践学校と幼稚園を経営するようになった。けれども彼がペール・カストールの名をもって世に知られるようになるのは、一九三二年から、その名の絵本双書を出しはじめてからのことである。
この知的なフランス人がソ連のペーパーバック絵本を見たときのおどろきと共感とは想像にかたくない。それは実質的であり、簡素であり、またその意味で美しくもあった。フォーシェは、子どもに直接する暖かみをそこに感じた。包装のいらない真実をその形に見た。そして絵本を教育の道具として、自由で最適と信じた。できるだけ小さいときから、見ることと読むことを教えたいとこの人は思っていたからである。
ペール・カストール画帖(この絵本双書ではアルバムという言葉を使う)をまもなく有名にしたのは、一九三五~三七年の一連の動物物語絵本が組みこまれてからであろう。日本訳のある『のうさぎのフルー』(三五年)、『かものプルッフ』(三五年)、『くまのブウル』(三六年)などで、出版後その八冊ほどをイギリスの詩人ローズ・ファイルマンが英訳したことから、まず英米でよく知られるようになったものである。いずれも主人公は野生の鳥獣で、すこしも擬人化することなく、その生態を自然に単純にとらえて、やさしいドキュメンタリー・タッチで生きいきとストーリーが運ばれている。虚飾のない自然観察のなかにわかりやすく生存のドラマがとりあげられ、私たちの同類のように身近に展開される。多色石版の挿絵は豊かなか環境を与えて、ときに装飾化や図解を辞さずに主人公の生活を追い、色彩の自由で骨太な描線と面をないまぜながら、生きた動きを形成している。画家の鮮かな色感とのびやかな形体感とが鼓動をうって、見るものにつたわるような直接的な生物画なのである。これらの絵本には、ペール・カストールのもくろんだとおりの、知識ある [ルビ=インフォメーショナル] 芸術があった。(日本ではこの種のものは冷遇される。教師と母親の立てるジャンルに分けられないためであろうか。日本訳の本が絶版になったとも聞くが、知識の本はやたらに求められるくせに、教科に合わせられないと、見向きもされなくなる!)
動物物語の作者はリダと書かれたが、フォーシェ夫人であり、画家ロジャンとは亡命ロシア人のフェオドール・ロジャンコフスキーだった。ロジャンコフスキーはさきの大戦中の士官として巻き込まれた内戦から逃れ、東欧諸国を遍歴した末にパリに居ついて、そこでアメリカの編集者エイヴリル女史に見出され、一九三一年に最初の絵本『ダニエル・ブーン』を出したところ、ペール・カストールの目にとまったので、この絵本発足当初のものは、彼の彩筆によるところが多く、どれも素朴な活気にみちてすぐれている。[後略]
ふう、ついつい引用が長文に及んでしまったが、瀬田貞二の熱を帯びた流麗な日本語を読んでいると、すぐにでもリダ&ロジャンの動物物語絵本シリーズを書架から取り出したくなる。勿論、レイアウト改変の甚だしい悪辣な現行版でなく、かつて福音館から石井桃子と大村百合子の共訳で出た由緒正しい元版で、である。
さすがに瀬田貞二はよく理解している。得られたごく限られた情報から、ここまで事の次第を弁えた文章を四十年も前に書き残したのは大したものだ。
たまたま前後の流れからここでの話題はロジャンコフスキーの絵本に集中しているが、慧眼な瀬田はもっと幅広く、ペール・カストールのシリーズ全体に公平な眼を向け、そこに関わった他の絵本作家たちの仕事をも視野に収めたうえで、この一文を草している。少しあとから続きを引こう。
ペール・カストール画帖シリーズは、発足以来三十余年で三百三十種、一億六千万部を発行したといわれ、種別も多岐にわたる。ときには詩、ときには散文で、自然界の知識、数をかぞえる本、わらべ唄、昔話、切抜きの本、色紙の本、ぬり絵の本、ある土地のある少年(地理)、ある時代のある少女(歴史)の話、漫画ふうの対話集、さらにはドーデ―のコントまでを、かなり組織的に続けていて、のちには外国の絵本をふくむ外国画帖、写真を使った写真画帖などの分野まで開拓している。画家は、ロジャンのほかに、工作の方にデザイン感覚のあるナタリー・パレンがあり、ときには独特の画風で名高いサミヴェルがまじり、のちにアンドレ・ペク、ロマン・シモン、ゲルダなどが活躍する。このゲルダなどは、フォーシェの学校で養成された卒業生の挿絵画家だそうだが、ペール・カストールはその理想に自給自足の果を得たものとみえる。
本の形も種々で、表紙は共 [とも] 紙でこそないが、やや厚手のもので、針金綴 [とじ]。小型の四角判から、中型の四角判・縦判・横判、大型の縦判・横判と、ときと主題によって変わっている。しかしどの絵本も、石版で色数を抑え、余白を大きくとり、緩急よろしく主題をおし出して、どこかに明るいユーモアと機知をいれ、全体にデザインをほどこすのを忘れない。その意味でじつにフランス的な感覚がみなぎっているのである。またそれとつながりのあることだが、フォーシェの意志によって、絵本でありながら、理知的で教育的(教科的でなく)なのである。自然の告知する知恵に理性を使って積極的に与 [あずか] ろうとするこの人の考えが、物語絵本のなかにも感じられ、総じてペール・カストール画帖は、コメニウスの面影を宿している。楽しみつつ学ぶ、習う画帖なのであって、そのやり方に明晰なフランス風がのぞいている。[後略]
実に簡にして要を得た素晴らしい解説である。ペール・カストール絵本の真髄をここまで的確に捉えてみせた文章に、今に至るまで出会ったことがない。
このあと瀬田は、シリーズ中で恐らく最も彼が愛してやまなかった一冊、極地探検家ポール=エミール・ヴィクトールがエスキモーの少年の一生を物語り描いた『雪の子アポーシアク(アプーツィアク) Apoutsiak』(1948)について縷々熱い賛辞を綴るのだが、その件りはぜひ原本で各自お読みいただきたい。
小生はこの文章を読んで程なく、神保町の東京泰文社でそのヴィクトールの絵本(後版)を見つけ、のちに手に入れた初版本(
→表紙)と共に今も愛惜している。