七年前の2007年3月のこと、石井桃子さんの百歳の誕生日を壽ぐべく、その稀有な人生に思いを馳せつつ、若き日の彼女の周辺について知り得る限りを連載の形で書き綴ったことがある。架蔵する書物をあれこれ渉猟し、図書館で当時の文献にも当たって正確を期しながら、心を籠めて書いたつもりだ。幸いにも何人もの読者の方から好意的なコメントを頂戴したほか、旧友に逢ったとき面と向かって「あれは読み応えがあった」と褒められたりもした。
→「白林少年館」の勇気ある試み→犬養家のメアリー・ポピンズ→石井桃子さんは100歳になられた→突然のおくりもの→石井さんはその本をむさぼり読んだ→ただ一度、二度はない…→「熊プー」につき動かされて→四谷の高台にたった家→東京市四谷區南町八八→潰えた砦、見果てぬ夢→食い止められぬ暴走→歴史の流れに抗う人々→勝ち目のない闘いだとしても→暗い日々の始まり→今生の別れ→世間とはこういうものよ、道ちゃん→私は窒息寸前だった…→美しいものは失われていない→一粒の麦もし死なずばそのとき痛感したのは、永年の偉業の故に遍く知られる人物なのに、その青春期から三十代にあたる1930~40年代の活動が全くというほど調査研究されておらず、当時の彼女の動静に関する諸書の記述が極めて曖昧なばかりか、掲げられた年譜にも誤りや不可解な欠落が多く、往時を知る何人か(当然ご本人も含む)の証言を除くと、信頼に足る先行文献がまるきり存在しないことだった。
これにはちょっと驚き呆れるほかなかった。まだご存命だから、とか、半ば神格化された存在だから、とか、ご当人が過去の詮索を望んでいない、とか、理由はいくらも考えつくが、この国の児童文学史の専門家(仮にそういう者たちが存在するとして)の怠慢と不甲斐なさに怒りすら覚えたものだ。
石井桃子の編集者としてのキャリアは昭和初年の文藝春秋社に始まるのは周知の事実だが、その委細に関しては不明瞭な点が多く、とりわけ彼女が同社で先輩編集者の小里文子
(おりふみこ)と意気投合、無二の親友として生活を共にし、病魔に蝕まれ死にゆく彼女のために「熊のプーさん」を翻訳した事実は、石井自身が何度か言及しているにも係わらずタブーさながら等閑視されてきた。この小里文子とはいかなる人物なのか、石井と彼女とはどのように知り合い、どんな関係にあったのか。事は彼女たちの私生活に属すると同時に、戦前の海外児童文学翻訳史を劃する「熊のプーさん」邦訳のジェネシス(起源)とも決定的に係わる。
上の連載から半年後、石井の書いた自伝的フィクションを参照しつつ、事の次第を究明すべく図書館で当時の雑誌を通覧しながら開始した第二の連載は、しかしながら、残された資料の余りの乏しさから中断を余儀なくされた。おのれの非力さを恥じるばかりだが、それでも読んで下さった方はおられたらしく、ウィキペディアの「石井桃子」の項目の末尾に参考文献として掲げられたりもした。
→「幻の朱い実」をどう読むか→「幻の朱い実」をどう読むか(2)→「幻の朱い実」をどう読むか(3)→「幻の朱い実」をどう読むか(4)→「幻の朱い実」をどう読むか(5)→「幻の朱い実」をどう読むか(6)→「幻の朱い実」をどう読むか(7)かかる昔語りをしたのには理由がある。 このように小生が永く関心を寄せ、自分なりに探索もした石井桃子という人物について、先般その全生涯を扱った待望の評伝が出た。無論これは史上初の果敢な企てであるが、精確性と密度において空前にして恐らく絶後、掛け値なしに決定版と呼ばれるに相応しい内容である。
尾崎真理子
ひみつの王国
評伝 石井桃子
新潮社
2014
読売新聞文化部の記者を長く務め、今は論説委員だという著者について知るところは尠いが、この人は2004年に雑誌『考える人』で「石井桃子の百年 子どもの幸福の翻訳者」という手堅いエッセイを寄せていたし、何よりも本書の枢要部分をなす数章(第三~六章)が昨年から今年にかけて月刊誌『新潮』に先行掲載されたから、彼女がライフワークとして書き進めてきた石井桃子の伝記がどれほど丁寧な取材と周到な調査に基づくものかは、本書を手に取る前からあらかた見当がついていた。先に「待望の評伝」と紹介したのは単なる美辞麗句ではないのだ。
小生よりも七歳ほど下の尾崎さんもまた、幼少期から「いしいももこ」の名に親しんだ読者だった。その訳業である絵本『おやすみなさいのほん』と『100まんびきのねこ』と出逢わなかったら自分は本好きの人間にならず、新聞記者にもならなかっただろう、と彼女は「序章」で述懐する。それはまあ世代的に当然といえば当然だろうが、普段は大江健三郎や中上健次の新作を論じるのが生業の文芸記者が「石井桃子に会って話を聴きたい」と希ったのは1994年の春のこと、出たばかりの半自伝的な長篇小説『幻の朱い実』を読み終えたのを契機とする。
八十七歳の媼にこれほどの大作を書く力が残されていたことへの驚きとともに、「ならばどうしてこのような本格小説が今まで書かれなかったのか? 文芸担当の記者になったばかりの私は、以来二十年、石井桃子という人への消すことのできない執心にとらえられ続けてきた」。読了とともに「私はどこかで、石井桃子の評伝を構想し始めたのかもしれなかった」とまで彼女は記している。
1994年5月10日、初めて荻窪の自宅を訪れた尾崎さんに対し、石井桃子は思いがけず率直に語っている。尾崎さんが大胆にも「大津蕗子は、本当は小里文子さん・・・。[中略] この人のためなら何でもやってやろう、と。そういう女友だち、いますね。たまたま私にもいるんですけど、そういうのはある意味で恋愛以上の感情かな、と」と水を向けると、石井はすんなりこう応じた。
ほほほ、そうねえ、何ていうんでしょうねえ、男と女の愛情ってものと別に、女同士で対人間的に深く付き合う生活ができるんじゃないかと思うんですね。いわゆるレズビアンとか何かとは違って、相手の心の中に踏み込んでね、生活していけるんじゃないかと思いますけど。
いきなり六十年前の小里との交友の核心に迫るような、女同士の暮らしの微妙な機微を浮き彫りにした鮮やかな答えである。千六百枚の長篇を上梓したという安堵感からか、あるいは質問者が同じ女性だからという気安さも手伝ってか、初対面の相手を前にした応答とは思えぬほどの打ち解け具合なのだ。
この一時間半ほどの初会見の成果は二週間後の読売新聞紙上に手短に纏められたが、その後も尾崎さんは断続的に荻窪詣でを続け、石井の信頼を勝ち得ていった。そして2002年夏には軽井沢の山荘に避暑中の石井を訪ね、延べ五日間にわたり年代を追って詳細なインタヴューを敢行した。評伝を書こうという尾崎さんの意図はすでに隠れもなかった筈だが、九十五歳の頭脳はいまだ明晰であり、思い出せる限りをかなり率直に物語ったという。
ただし、「同時に、それ以上踏み込むのを許さぬ聖域も、広く残されたままであるのを感じた」と、尾崎さんは正直に認めているのだが。
こうして1907年に埼玉縣浦和町で生まれ育った幼年時代から、縣立浦和高等女學校を経て日本女子大學校英文學部で培われた「女学生気質」、ほんの偶然で開始された文藝春秋社でのアルバイト、そして本採用後の雑誌記者時代へと、かけがえのない証言が石井自身の口から語られる。因みに小里文子は石井と同じ日本女子大で二年上の先輩であり、1927年から文藝春秋社で『小學生全集』の編集に携わり、その後は社長である菊池寛の秘書役を務めていた。
遠い過去をまざまざと甦らせる石井桃子の能力がいかに並外れているかは、七十代で著した幼年時代の回想記『幼ものがたり』(1981)を読めば一目瞭然だ。そこでは遙か彼方の光景がまるで手に取るように、その場に漂う光彩やあえかな匂いまでも、あたかも昨日の出来事のように鮮明に浮かび上がる。したがって尾崎さんの評伝でも第一章「浦和の小宇宙」は大筋で『幼ものがたり』の記述を踏襲しつつ、そこに石井から新たに得た証言や、別のエッセイでの回想も参照し、いわば補註として組み入れるように進行する。
あの中に書いた記憶というのは、いつも繰り返し自分で思い出していたことではなくて、だんだんにきょうだいが欠けていって、最後の一人が亡くなった時に、ぱーっと自分のところに幼少期が還ってきた、そうした場面でした。スナップショットのように、いろんなシーンが、パッ、パッと自然発生的に、私の頭の中に現れてきた。[中略] それを次々に書き起こしていったんです。
ところがこの魔法のような「いきいきと思い出す力」も、想起される対象が小学生時代(縣立女子師範附属小學校)に入ると途端に神通力を失って、朧げな輪郭を伴うばかりの漠とした記憶になってしまう。女学校を経て日本女子大へと進学してからのキャンパス・ライフに関しても、自己形成を彷彿とさせる目ぼしいエピソードや心躍る出来事は何ひとつ記されず、読み進めていても拍子抜けする。評伝作者としては少なからず苦戦を余儀なくされたところだろう。
続く第二章「文藝春秋社と『幻の朱い実』」こそは、小生がずっと気に懸けてきた石井桃子の前半生の謎が解かれるという意味で、本書の核心部分をなすものだ。石井の記憶はしかし、この文藝春秋時代(アルバイト期=1927~30年、社員在籍期=1931~33年)に関しても曖昧模糊としていて、彼女が編集に携わった雑誌の現物を尾崎さんが差し出しても、「あらあー、こんなんだったかしら?」と目を丸くする始末で、「九十代の石井にとって、七十年も前の仕事の詳細は、とうに実感を手放したもののようだった」。
ただし、この時期に関しては石井が編集者として係わった雑誌の誌面そのものが往時を雄弁に物語る。小生も冒頭で掲げた二番目の連載で少しばかり調査したから分かるのだが、当時の『文藝春秋』には巻末に「社中綴り方」「社中日記」なる小コラムがあり、そこで同社の編集者たちが署名入りで気楽に軽口を叩き合っていた。そこには石井自身の執筆した小文も登場し、同僚たちの口さがない噂話なども読み併せると、石井とその同僚たち(数人の女性編集者のなかに小里もいた)の動向が期せずして彷彿と浮かび上がる。これらの逸材「一人一人の能力を見抜いて」自社に抜擢し、「ご自分と立場の違う方々もどんどん受け入れる懐の深い方」と石井が感謝の念をこめて回想する菊池寛という人物の鷹揚な大人(たいじん)ぶりが、こうした梁山泊さながらの賑わいを現出させたのだ。
尾崎さんは小生の調査など及びもつかぬ綿密さでそれらの記事を入念に読み解き、更に『婦人サロン』誌に掲載された無署名の山本有三インタヴュー記事がどうやら石井の執筆らしいことを突き止めたほか、同誌に「春の外出着」ファッションのモデルに扮した洋装姿の石井嬢の写真まで発見している(この写真の存在には小生も気づいていた)。こうしたスリリングな博捜の結果、「本人もすっかり記憶の果てに追いやったままだった、芳紀二十四歳のモダンガール石井桃子の青春の日々が、そこから生き生きと蘇ってくる」。
こうして文藝春秋社で新時代の申し子としての第一歩を踏み出した石井と昵懇の仲になった同僚こそが二年先輩の小里文子だった。ただし小里は結核の進行により編集の場から身を引き、文筆家を夢見つつ荻窪の山小屋風の一軒家で独り暮らしを楽しんでいた。そこに石井が足繁く通っては腹蔵なく語り合うという成り行きは、小説『幻の朱い実』に活写されたとおりとみてよい。
2002年のインタヴューで石井は「私たちは、どちらも自分一人で生きていこうとしていたのはたしかだったけど、[中略] 肩ひじ張って生きていくっていうんじゃなくて、女は女で、自然に女であるという、その感覚が一緒で、それで気が合っちゃったんじゃないかしらね」と率直に語っている。この小説には蕗子から届いたという旧仮名遣いの手紙が夥しく引用されているが、生々しい息遣いを感じさせる文面は作中ひときわリアルな光彩を放っており、それらは実際に小里から石井に宛てた手紙から忠実に引用されたものだろうと尾崎さんは推測する(小説完成後それらの手紙は石井の手により焼却された由)。
とはいえ『幻の朱い実』は、石井の化身である主人公の明子がのちに結婚するなど、設定が大きく事実と食い違っており、二人の交友時期も実際と異なるなど、さまざまに意図的な潤色が施されている。物語の背後に石井と小里との交友関係を読み取ろうとする伝記作者はくれぐれも用心してかからねばならない。実像は注意深く隠蔽され、幾重にもカムフラージュされている。尾崎さんの云う「それ以上踏み込むのを許さぬ聖域」とはまさにこの部分であろう。
そこで尾崎さんはまず、横光利一、菊池寛、池谷信三郎の創作にそれぞれモデルとして登場する小里文子の似姿を丁寧に読み解き、小里の郷里の長野県松本市に残る資料や遺族への取材から彼女の生い立ちを明らかにし、学生時代の同人誌に彼女が寄せた随想を発掘することで、文学を目指しながら志半ばで斃れた女性の姿を浮かび上がらせる。かてて加えて、学生時代に小里の親友だった水澤耶奈という女性が遺した日記や回想が紹介され、小里の面影を鮮明に思い描くうえで不可欠の役割を果たす。この水澤は石井とも親友同士であり、晩年の彼女からの強い慫慂により石井は『幻の朱い実』執筆を決意したのだという。
こうして埋もれた文献を渉猟し未知の回想を発掘することで、歴史の闇に半ば没した昭和初年の女性像が生々しい実在感をもって甦る。そのリアリティは石井が曖昧にしか描かなかった蕗子のポルトレを遙かに凌駕しよう。推理小説さながらの感興を伴う第二章のスリリングな展開は間違いなく本書の白眉であろう。尾崎さんの筆には真実探究への並々ならぬ執念とともに、同じ女性で文筆に携わった先達でもある小里への熱い共感と愛惜の念が迸っているようだ。
(長くなったので稿を改めます)