時おり小雨のパラつく七月七日。七夕が晴天に恵まれることはごく稀だ。夜半近くなって雲間から八日月が姿を覗かせたが、星空は望むべくもない。
家人も猫も寝静まったしじま、チェロの調べを。ボヘミアとモラヴィアの旋律をひっそりと秘めやかに。
"Pohádka - Märchen - Fairy Tales"
スク:
バラードとセレナード 作品3
ドヴォジャーク:
森の静けさ 作品68-5
ロンド 作品94
わが母の教え給いし唄 ~ジプシー歌曲集 作品55 (レフ・リムスキー編)
ヤナーチェク:
お伽噺 (全三曲)
プレスト
マーラー:
私はこの世からいなくなった ~リュッケルト歌曲集 (ゲリンガス編)
朝の野原を歩くと ~さすらう若人の歌 (ゲリンガス編)
子供の死の歌 (全五曲/ヴィクトル・デレヴィアンコ編)
チェロ/ダヴィド・ゲリンガス
ピアノ/イアン・ファウンテン2012年5月11~13日、ベルリン、ジーメンスヴィラ
C2/Es-Dur ES 2045 (2013)
→アルバム・カヴァーチェロ曲によるチェコ音楽アンソロジー。ドヴォジャークとその女婿ヨセフ・スク、そしてヤナーチェクとくれば、そのあと普通ならマルチヌーあたりで締め括るのが音楽史の常套だろうが、そうせずに敢えてグスタフ・マーラーで締め括るところが本アルバムの妙諦であり新機軸である。
云う迄もなくマーラーはボヘミア出身(生地はカリシチェ Kaliště)であり、幼少期をこの地で過ごした。だから彼をチェコ音楽の系譜に組み入れるのは間違いでない──どころかむしろ、そう考えないと彼の鄙びた土臭い民謡への偏愛は説明できなかろう。ただし、マーラーにはチェロのためのオリジナル作品は皆無だから、よく知られた歌曲をチェロ用に編曲したヴァージョンを組み込んで、チェコ音楽における "Pohádka"──幼心の系譜を辿ろうとした。そういう意欲的なアルバムなのだ。
こうして「無言歌」として奏されるマーラーのなんと感動的なことか。切々と心に染み入る旋律の力はドヴォジャークに勝るとも劣らない。長大で押し付けがましい交響曲を好まぬ小生にとっては、これは得がたいマーラー体験となった。
とはいえ当アルバム最大の聴きものはヤナーチェクの組曲「
お伽噺 Pohádka」だろう。ミラン・クンデラ原作による映画《存在の耐えられない軽さ》の印象的な挿入曲として人口に膾炙したためか、(少なくも小生は)なんとなく飄然と軽やかな音楽と思い込まされてきた節があるが、今ここで聴かれる真摯に深く沈潜するような解釈に、この音楽が孕む底知れぬ深淵を垣間見た思いがした。元はこの組曲の一部だったかもしれない小品「プレスト」も併録されるのが嬉しい。
リトアニア生まれの
ダヴィド・ゲリンガス David Geringas はロストロポーヴィチの高弟で1970年のチャイコフスキー・コンクール優勝者(岩崎洸が三位になった年だ)。バッハから現代まで広大なレパートリーを擁し、とりわけ同時代のロシア・バルト諸国の音楽の紹介者として故アレクサンドル・イワーシキンと双璧の存在と目されてきた。申し分のないテクニックの持ち主ながらこれ見よがしに誇示するところがなく、芸風はむしろ地味で内省的。ひたすら虚心に音楽を内側から仄かに輝かせる。燻し銀のチェリストと呼ぶべき真の名匠なのだと思う。一度この人の至芸を間近に堪能したいものだ。