バレエ・リュスに関してはあらかた承知していると自惚れていたけれど、その最初のパリ公演の幕開け演目《
アルミードの館 Le Pavillon d'Armide》の粗筋すら満足に諳んじていない自分を発見し、つくづく恥じ入った次第である。かくなるうえは初歩から勉強をやり直すに如くはなかろう。今夜はまずそのバレエ音楽の全曲を聴き通すところから始めたい。
作曲を手がけたのはリムスキー=コルサコフの高弟にして、ディアギレフからバレエ団の座付作曲家・指揮者として手腕を高く買われていた
ニコライ・チェレプニン Николай Николаевич Черепнин (1873~1945)である。今ではバレエ・リュス研究書でしか言及されることもなく、半ば忘れられた存在となったが、昭和初年に来日してわが楽壇に大きな反響を齎すことになる作曲家アレクサンドル・チェレプニンの実父、といえば少しは身近に感じられようか。
少し前までチェレプニンの《アルミードの館》に接するチャンスは皆無に等しかった。このバレエそのものが欧米では疾うに廃れ、どこのバレエ団のレパートリーにも受け継がれなかったし、ロシア本国では亡命者の巣窟たるバレエ・リュスは反ソ的な存在と看做されがちだったから、その中枢に位置して早くに国外に出たチェレプニンの作品もまた傍流扱いされたのだろう。
そういう次第で、代表作と目される《アルミードの館》も、全体を約半分に抜粋した組曲版がソ連時代にLPで出たものの(ヴィクトル・フェドートフ指揮、1984年)、バレエ全曲盤の登場はソ連邦の崩壊まで待たねばならなかった。このディスクが1995年に登場したとき思わず狂喜乱舞した者は小生ひとりではあるまい。
"Nikolay Tcherepnin: Le Pavillon d'Armide"
ニコライ・チェレプニン:
アルミードの館 Павильон Армиды
■ 序奏と第一場
■ クーラント、時の踊り
■ 動き出したゴブラン織
■ アルミードの嘆き
■ グラン・パ・ダクシオン(アダジオ)
■ 高貴な大円舞曲
■ ヴァリアシオン
■ エチオピアの小姓たちの踊り
■ 廷臣たちの踊り
■ バッカスと信女たち
■ 魔法使たちの登場と影の踊り
■ 道化師たちの踊り
■ スカーフの踊り
■ パ・ド・ドゥー
■ 終幕の大円舞曲
石信之 Henry Shek/Shi Xinzhi 指揮
モスクワ交響楽団 Московский симфонический оркестр1994年11月、モスフィリム・スタジオ
Marco Polo 8.223779 (1995)
→アルバム・カヴァーただ漫然と音楽を流し聴きしてもストーリーが理解できないので、開催中の「魅惑のコスチューム: バレエ・リュス展」カタログから《アルミードの館》の粗筋を記したくだりを引かせていただく。
このバレエはルイ十四世の時代の設定である。若い子爵ルネ・ド・ボージャンシは嵐に遭遇し、年老いた魔法使いフィエボワ侯爵の居城に避難する。ルネは城の翼部にある「アルミードの館」で、壁にかけられたゴブラン織りのタペストリーから眠りをかけられ、そこで一夜を過ごす。彼が眠りにつくと、タペストリーに描かれた魔法使いのアルミードとその側近たちが蘇り、踊りはじめる。タペストリーの宮廷の絵から抜け出た一人、イドラオ王(フィエボワ侯爵にそっくりであった)に仕向けられ、ルネはアルミードに恋をする。彼女は彼の思いに応えて自分のスカーフを与える。目覚めると、ルネは自分がアルミードのスカーフを手にしており、タペストリーに織り込まれていた彼女のスカーフが無くなっているのを発見する。夢想が現実であったことに驚いたルネは侯爵の足元に倒れこむ。部屋に飾った絵のなかの人物がこちらの世界に現れ出るという古来さまざまに語り継がれた説話(ウディ・アレンの《カイロの紫のバラ》はその末裔だろう)のフランス宮廷版といえようか。夢から醒めると手許に形見の品が残されていた、という結末はバレエ・リュスの演目《薔薇の精》にそっくり──と思ったら、それもそのはず《アルミードの館》は同じテオフィル・ゴーティエの短篇小説に基づくそうな。
粗筋だけ辿るといかにも底の浅い夢物語であるが、これがアレクサンドル・ベヌアの擬バロックふう装置(
→これ、
→これ)や衣裳(
→これ、
→これ)とともに演じられると、それなりの夢幻的なリアリティをもって観客に訴えかけたのだろう。1909年のパリ初演に先立つ1907年のペテルブルグ初演で踊ったアンナ・パヴロワとニジンスキーの着色写真(
→これ)は確かに観る者を夢心地に誘う。
ざっと粗筋を辿りながら音楽を聴くことは大切だ。とりわけ第三曲「動き出したゴブラン織」の場面は、夢うつつのなか驚くべき光景が展開されるさまがドラマティックに活写されているのが感得される。終盤近くの「パ・ド・ドゥー」は無論ルネとアルミードによって踊られるに違いなく、甘美な感情の高まりのなかに色濃く悲哀感が漂うのは程なく訪れる二人の別離を暗示しているのだろう。
リムスキー=コルサコフの愛弟子だというわりに、チェレプニンがこの《アルミードの館》で披瀝しているのは恩師の影響ではなく、チャイコフスキーのバレエ音楽(とりわけ《眠りの森の美女》)からの強い感化である。
両者の類似は夢幻的でロマンティックな曲想ばかりか、絢爛たるオーケストレーションの細部にも及んでおり、もし何も知らされなかったら、一瞬チャイコフスキーの未知のバレエ音楽か何かと思うだろう。ただし、音楽の充実度は遙かに低く、ドラマティックな首尾一貫性も脆弱なので、せいぜいがチャイコフスキーの門弟か亜流の作、もしくはパスティーシュのように響く。この虚仮脅かしの音楽がほどなく劇場からも演奏会場からも消滅してしまったのも歴史の定めだろう。
本アルバムの指揮者は
石信之(シー・シンジー/香港名ヘンリー・シェク)という。天津出身で香港で育ったというが、寡聞にして全く存在を知らなかった。共演する
モスクワ交響楽団はソ連崩壊前後に雨後の筍のように誕生した怪しげな新生楽団のひとつで、創設指揮者はアントニオ・デ・アルメイダ。「マルコ・ポーロ」レーベルに数多くの(驚くほど多種多様な)録音を残している。
ヘンリー・シェクはサンフランシスコ音楽院で学んだあとイーゴリ・マルケヴィチやフランコ・フェッラーラに師事、カラヤン・コンクールとブザンソン指揮者コンクールで上位入賞した由。ドイツとイタリアの歌劇場で修業を積んだというが、その彼が混乱期のモスクワでバレエ・リュスの秘曲を録音することになったのはどんな巡り合わせからか。いかにも人選が場違いな、恐らくはお仕着せの企画だったろうが、その成果は思いのほか上乗であり、チェレプニンならではの豪奢で豊麗なオーケストレーションを過不足なく音にしている。