百年の恋も一時に醒めるという修辞がある。小生はかつて小澤征爾に対して、まさにそうした思いを抱いたものだ。あれは1985年秋、世紀の大歌手
ジェシー・ノーマンが初来日を果たし、小澤が指揮する新日本フィルと共演した折のことだ。書庫の奥からプログラム冊子を引っ張り出して、当夜の曲目を書き写してみる。
ソプラノ/ジェシー・ノーマン
指揮/小澤征爾
新日本フィルハーモニー交響楽団
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ワーグナー:
「タンホイザー」より
■ 序曲
■ 殿堂のアリア「貴き殿堂よ、喜んで私はお前に挨拶する」
■ エリーザベトの祈り「万能の処女マリア様! わが願いを聞き給え」
「トリスタンとイゾルデ」より 前奏曲と愛の死
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リヒャルト・シュトラウス:
メタモルフォーゼン
四つの最後の歌会場は上野の東京文化会館。ただし同じ演目が11月2日と5日と二晩あって、後者は新日本フィルの定期演奏会だった由。チケットがもう手元になく、どちらの日に足を運んだのか定かでないうえ、前半に聴いたはずのワーグナーについては記憶が綺麗さっぱり消滅してしまった。そもそも当夜、プログラムどおりの曲目がこの順に奏されたかどうかも、三十年近く経った今となっては不確かである。
ただし、ひとつだけ確実に云えることがある。
彼女の歌った「
四つの最後の歌」が途轍もなく大きな音楽だったという明瞭な印象である。あの巨大な体躯(失礼!)から発せられる声量の尋常ならざる大きさは勿論だが、それにも増して彼女の歌唱が孕む広大無辺の拡がりが、およそ他の歌手との比較を絶して「どでかい」のだ。
ジェシー・ノーマンの声は五階建の文化会館の空間を隅々まで充たし、丸ごと包み込み、共振させずにおかぬ凄まじい強度を備えていた。
様々なLPで耳に馴染んでいた筈のシュトラウスが趣を一新し、かつて聴いたことのない宇宙的な拡がりと底知れぬ深さをもって迫ってくる。怒濤のように押し寄せる声の氾濫に、ただただ打ちのめされるばかりだった。当夜のプログラム冊子には三谷礼二さんが「神の歌、人間の歌」と題して、熱に浮かされたかのように常軌を逸した讃嘆の辞を書き綴っているのだが、それもまた宜なる哉と思えた。このような「大きな音楽」に接して誰が冷静でいられようか。
寄せては返す巨大な波のようなジェシー・ノーマンの歌唱に、小澤のタクトは一分の隙もなくピタリ合わせていた──こう書くとなんだか褒め言葉のようだが、実のところその正反対である。なるほど彼の的確な指示の下、新日本フィルの紡ぎ出す管弦楽は、彼女の独唱に大過なく寄り添い、引き立てながら併走していた。だが、それは卑屈なまでに単なる「伴奏」に過ぎなかった。シュトラウスの楽譜の表層を撫でるばかりで、背後に何ひとつ表現の実体を感じさせない、ひたすら耳に心地よいだけのムード・ミュージックの域に留まっていた。少しばかり高級なフランク・プゥルセルかパーシー・フェイスの類いといったら言い過ぎだろうか。
それほどまでに彼女の歌唱が凄まじかったともいえようが、それなら尚のこと彼は挑戦を真っ向から受け止め、五分と五分とで渡り合うべきだった。小器用な綺麗事で対決を回避するような指揮者は所詮、巨匠たる器ではなかったのだ──そう思い知らされると、高校生の頃からの「百年の恋」がたちどころに雲散霧消してしまった。爾来この人が振る演奏会からすっかり足が遠のいて久しい。
それから幾星霜、昨夏ふとした契機から久方ぶりに小澤征爾の生演奏を聴いた。しかも胡散臭さを感じて敬遠してきた斎藤門下同窓管弦楽団(かかる臨時編成の団体は日本のオーケストラ発展に寄与しないだろうから)との共演である。演目が鍾愛のオペラであるラヴェル《子供と魔法》だったのと、畏友である平林直哉氏がチケットを手配して下さったからだ。これを逃すともう二度と小澤を聴く機会が巡って来ないだろうという微かな予感もあった(
→その折の関連記事)。
目の醒めるような素晴らしい音楽だった。そこには精緻で無垢な、混じり気のないラヴェルが息づいていて、積年の屈託が俄かに晴れる思いがした。小澤征爾はやはり只者ではない。長野県まで遥々出向いた甲斐があったというものである。
残念ながら小澤のディスクでは碌なラヴェル演奏が聴けないのは理不尽なことだ。肝腎の「管弦楽曲(ほぼ)全集」からして不本意な出来に終始している。なので今日はこれを聴こう。
"Fauré: Pelléas et Mélisande, Dolly"
フォーレ:
組曲「ペレアスとメリザンド」
メリザンドの歌(シャルル・ケックラン編)*
夢のあとに(アルカジー・ドゥベンスキー編)**
パヴァーヌ***
エレジー****
組曲「ドリー」(アンリ・ラボー編)
ソプラノ/ロレイン・ハント*
チェロ/ジュールズ・エスキン** ****
タングルウッド祝祭合唱団(ジョン・オリヴァー指揮)***
小澤征爾指揮
ボストン交響楽団1986年11月、ボストン、シンフォニー・ホール
→アルバム・カヴァーDeutsche Grammophon 423 089-2 (1987)
これは非の打ちどころのない至純のフォーレである。組曲「
ペレアスとメリザンド」はもう半世紀近く小生の鍾愛の曲なのだが、この小澤&ボストンほど冒しがたい気品を醸し、それでいて逃れ得ぬ宿命の悲哀を滲ませた演奏を寡聞にして知らない。パレー&デトロイト、ツィピーヌ&オペラ=コミック、ミュンシュ&フィラデルフィア、ボード&パリ、マリナー&アカデミー、デュトワ&モントリオール・・・と並居る歴代の名演を直ちに顔色なからしむる空前絶後の達成なのだ。
しかも滅多に聴けないソプラノ独唱入りの「
メリザンドの歌」(元々の劇付随音楽に含まれ、組曲の選には漏れた佳曲)まで含めて奏される(先例はミシェル・プラッソン盤のみ)という行き届いた心遣いも床しい。その独唱に(まだ殆ど無名だった)
ロレイン・ハントを起用した慧眼ぶりにも頭が下がる。
かてて加えて本アルバムではチェロ独奏の管弦楽版「
エレジー」「
夢のあとに」を両ながら聴ける愉しみがある。ソロイストは永年ボストン響の第一奏者を務めた
ジュールズ・エスキン。シュタルケル、ピアチゴルスキー、L・ローズに学んだ逸材だそうで、渋い音色と含羞ある歌心が小澤の音楽性との親和性を示す。
本アルバムには更に、これまたフォーレならではの美しさに充ちた「
パヴァーヌ」が高雅な合唱入り(歌詞はロベール・ド・モンテスキュー作だそうな)で聴けるという愉しみが加わる。起用されたタングルウッドの合唱団が無神経で精妙さを欠き、夢見心地に水を差すのが玉に瑕。これだけは残念だった。
最後の「
ドリー」は云う迄もなく元はピアノ連弾用の組曲だが、アンリ・ラボーの編曲が常套的で原曲の瀟洒な味わいを損ねており、誰の指揮で聴いても興醒めなのだが、小澤はここでも才知を尽くしてフォーレ色を最大限に引き出している。これ以上に魅惑的な演奏はちょっと出現しないだろう。
という訳で、大向こうを唸らせる大作の凄演ではないものの、それだけに目を瞠るほど入念細心に、高度なバランスのもと精妙な抒情を紡ぎ出す小澤征爾ならではの繊細な美質が最大限に発揮された稀代の名盤が残されたことを、しばしば才能を持て余し気味だった指揮者のために壽ぎたい気持ちで一杯になる。あのジェシー・ノーマンとの惨憺たる共演からきっかり一年後の成果である。