隠居生活の功徳は朝の時間をのんびり過ごせることだ。近くのコンビニまで朝刊を買いに出て、戻ると熱い珈琲をたっぷり淹れてしみじみ味わう。PCを立ち上げピーター・バラカンの番組を流して、聴いたことのない音楽との出逢いを愉しむ。この貴重なひとときは自分ひとりの歓びであり何物にも代えがたい。
今週「バラカン・モーニング」では「ソング・オヴ・ザ・ウィーク(今週の一曲)」として
モリー・ドレイク Molly Drake なる未知の女性歌手の "
I Remember" という歌を月曜から木曜まで毎日かけた。九時半前後だったと思う。
月曜日にバラカンさんは「
今週はちょっと変わったものを紹介します」と前置きして、「
ニック・ドレイクという若くして亡くなった英国のシンガー・ソングライターがいて、今ではそこそこ知られていますが、彼のお母さんもまた、自分の愉しみのため曲を創っていて、自宅で録音を残していた。それが最近になって自主制作に近い形でLPとCDが出たんです。とても素朴な歌なんだけれど、なぜか心に響く。そのなかから一曲を選びました」といった簡単な紹介のあと、この曲をかけた。
それは本当にシンプルな、平明ですぐ覚えられそうな旋律に易しい歌詞を乗せただけの小唄である。だが、何故だかひどく心に沁みてくる。どこか英国民謡のような純朴な味わいがあり、それでいて深い郷愁をそそる。バラカンさんの云うとおり「素朴だけれど心に響く」のだ。験しにお聴かせしようか(
→これ)。
We tramped the open moorland in the rainy April weather
And came upon the little inn that we had found together
The landlord gave us toast and tea and stopped to share a joke
And I remember firelight
I remember firelight
I remember firelight
And you remember smoke
...1950年代のある日、イングランド中部の田舎町タンワースのドレイク家の居間でなされた私的な演奏。傍らで即席の録音技師を務めたのは彼女の夫ロドニーだという。音質はお世辞にもよくないが、当時まだ高価だった機材を揃え、自宅録音を愉しんだ家族はそこそこ裕福な暮らしを営んでいたのだろう。
控え目で慎ましやかなピアノの調べ、ハスキーでいかにも頼りなげな歌声。自作の歌を慈しみながら口ずさむ風情がなんとも好もしい。誰かに聴かせようという意図からでなく、ひたすら自分自身(と家族たち)の愉しみのためだけに唄い奏される音楽。歌とは本来そういう性質のものかも知れないが、原石のように煌めく無垢の姿がマイクで捉えられ、ディスクに刻まれた例は、歴史を繙いても滅多になかったように思う。細野晴臣が自分のために録音した「ろっかばいまいべいびい」がちょっとこれに近い存在かも知れない。呟きや溜息や独り言のような歌。
一聴して大いに心を動かされた小生は、翌火曜日の「バラカン・モーニング」で再び同じこの曲を耳にして、もう居ても立ってもいられなくなり、amazon.co.jp で思わず当該アルバム "Molly Drake" の註文釦を押してしまった。どうやら同じ行動に駆られた御仁は他にもおられたようで、午後になったら同盤は「在庫なし」表示に切り替わっていた。
昨日(水曜)そのCDが届いてからは二度、三度と飽かず繰り返し聴いている。
"Molly Drake"
01. Happiness
02. Little Weaver Bird
03. Cuckoo Time
04. Love Isn’t a Right
05. Dream Your Dreams
06. How Wild the Wind Blows
07. What Can a Song Do to You?
08. I Remember
09. A Sound
10. Ballad
11. Woods in May
12. Night Is My Friend
13. Fine Summer Morning
14. Set Me Free
15. Breakfast at Bradenham Woods
16. Never Pine for the Old Love
17. Poor Mum
18. Do You Ever Remember?
19. The First Day
作詞・作曲、歌唱&ピアノ/モリー・ドレイク1950年代、ウォリックシャー州タンワース=イン=アーデン、ドレイク家
Squirrel Thing ST-4 (2013)
→アルバム・カヴァー全十九曲で三十七分。どれも短い、平均すると二分ほどの小品ばかりだし、なかには中途で途切れてしまう歌もあり、こうして遍く世界中で愛聴されるようになるとは、唄ったご当人も全く予期しなかったに違いない。
際だった主張や個性がある訳でもなく、どちらかといえば他愛のない、センチメンタルな詞曲ばかりなのだが、通して聴くと彼女らしい旋律線や和声の展開が備わっていて、しかも柔和な微笑ましさの背後に、名状しがたいメランコリーや悔恨の情がそっと忍び寄る。だから何度も繰り返し聴き惚れてしまう。
いかにも英国風の音楽であり、スコットランドやアイルランドの民謡との近親性は歴然としている。どことなく戦前のノエル・カワードやアイヴァー・ノヴェロの流行歌を思わせるところがあるが、類似はもっぱら旋律線にあり、歌詞はあくまでも素直で平明で、ウィッティな皮肉や諧謔はモリー・ドレイクの世界とは無縁だった。
昨年このディスクが出たとき、多くの人々が彼女とその息子であるニック・ドレイクと、両者が紡ぎ出した楽曲がどこか似通っていることに驚きを隠せなかったという。1974年、二十六歳で夭折した息子(精神を蝕まれて抗鬱剤の大量摂取で急死した)の音楽は母親譲りのものであり、彼のアルバムの製作者ジョー・ボイドの言葉を借りるならば、彼女こそは「
ニック・ドレイクの物語のミッシング・リンクにほかならず、ピアノ・コードにはニックの和声のルーツがある」。
「バラカン・モーニング」では彼女の「今週の一曲」 "I Remember" のあとに毎日必ずニックの楽曲を添えて聴かせてくれたので、事情に疎い小生のような者も両者の類縁性に否応なく気づき、「なるほどなあ」と頷かずにはいられない。この母にしてこの子あり、なのだなあという思いを深くした。
Molly Drake (née Lloyd) was born in Rangoon, Burma in 1916,
and passed away in Tanworth-in-Arden, Warwickshire in 1993.