近所の生花店の店頭が赤とピンクのカーネーションの切り花で溢れている。昼食で立ち寄った中華料理屋でもそこここに老母を囲む昼食会で賑わっている。ああそうか、今日は特別な日曜日なのだと否応なしに気づかされた次第。気持ちよく晴れて、日向を歩くと汗ばむ陽気である。
ところで昨日はといえば、今日に劣らぬ好天に恵まれ、見上げる空は抜けるような青空だった。なので、この日を措いて他にあるまいと衆議一決、前々から家人がぜひ行きたいと希望していた
江戸東京たてもの園に出向くことにした。千葉に住んでいると西東京がやけに遠く、都下小金井に立地するこの施設などは地球の裏側の遠隔地さながら。決断するのにも相応の覚悟が必要なのだ。
JRで西船橋まで出て、そこから地下鉄東西線で高田馬場へ。更に西武新宿線に乗り継いで花小金井まで。乗り換えが思いのほかスムースだったので目的駅までは一時間余で着いた。駅の麺麭屋で昼食用のサンドウィッチを購入、武蔵小金井行きの路線バスに六、七分ほど揺られ「江戸東京たてもの園前」で下車。
だがここからが一苦労である。停留所名に「たてもの園前」とあるものの、そこはちっとも「前」ぢゃない。たてもの園は都立小金井公園の広大な敷地にすっぽり包含されて立地しており、林立する桜の古木の間を抜けて公園内を延々と歩かされる。幸いにも爽やかな日和なので少しも苦にはならないが。
やっと正門前に着くともう昼飯時。傍らの売店で淹れたて珈琲を買って、先程のサンドウィッチで軽く戸外ランチ。どこかから誰かの奏でる生ギターのフォーキーな音が聴こえて、ああここは中央線文化圏なのだなあと実感する。
小腹を満たしたらいよいよ入園だ。一般料金四百円を支払って敷地に入ると、そこは時空を超えた別天地である。明治村のような国宝・重文級の名建築ではないものの、江戸時代の農家から昭和十年代のモダン住宅まで、珠玉のような住居・店舗が文字どおり軒を連ねている。そのいくつかを紹介しようか。
吉野家 (
→外観 →囲炉裏)
「吉野家」といっても丼飯屋ではない。江戸時代の後期、武蔵野の一郭(現在の三鷹市野崎)に建てられた百姓家である。とはいえ相当に格式の高い農家とみえて、立派な式台(武家屋敷風の玄関)まで設えられているのは、鷹狩の大名が立ち寄ることがあったためという。三鷹とはそういう場所だったのだ。
もちろん屋根は藁葺、ダイドコロ(土間)から見上げると柱も梁も小屋組も丸見えだ。感動したのは囲炉裏で実際に火を焚いていたことだ。ヴォランティアが毎日ここで薪を燃やしているそうで、炉端に坐ると軽く燻されてなんだか気持ちが安らぐ。農家育ちの家人などは懐かしさで立ち去り難そう。藁葺農家は他に二軒あったが、それぞれに個性的な建物だった。
前川國男邸 (
→外観 →内部)
前川といえば東京文化会館や都美術館、西洋美術館の増築部分の設計者として名高い建築家。ル・コルビュジエ門下のモダン建築の大家が1942年に建てた自邸(品川区大崎)。戦時下とあって制約の大きい設計というが、狭い敷地面積にも拘わらず、吹き抜け空間を最大限に生かした快適な建物。流石である。
1973年に建て替えのため解体されたが、部材がすべて軽井沢の別荘に保存されていた(よほど愛着があったのだろう)ため、完全な復元が可能になった由。二階の居住空間まで見学できるのが難有い。狭いが住み心地よさそう。
デ・ラランデ邸 (
→外観)
家人のお目当てが百姓家にあるとすれば、小生が「たてもの園」で最も楽しみにしていたのはこのデ・ラランデ邸。マンサード屋根が特徴的な古い洋館である。この建物には思い出がある。まだ信濃町にあった現役時代、一度だけ訪れたことがあるからだ。「建築探偵」藤森照信さんの本で知ったのだから、1980年代後半だったろうか。当時は三島食品工業という会社があり、自家製の蜂蜜を販売していた。なんでも創業者の三島海雲(すでに故人)はカルピスの発明者だそうで、養蜂にも力を注いだという話で、館の周囲には蜂の巣箱が並べてあり、建物を見学がてら瓶入り蜂蜜を土産に買って帰った。相当に傷んだ洋館だが雅趣があって、半円形に張り出したサンルームが素敵だった(
→往時1 →往時2)。
この建物は1910年頃に独逸人建築家ゲオルク・デ・ラランデが自邸として建てたもの、と長く信じられてきた(藤森本にもそうある)が、その後の研究で元は北尾次郎という気象学者が住んだ平屋の洋館であり、のち(デ・ラランデにより?)三階建に増改築されたらしいとわかった。実はデ・ラランデは単なる借家人だった可能性すらあり、「デ・ラランデ邸」なる呼称を好まぬ研究者もいるとか。
とまれ都心にありながら震災も戦火も免れた稀有な洋館「北尾=デ・ラランデ=三島邸」は1999年に解体され、江戸東京たてもの園に復元が決まった。ただし都の財政難で再建が遅れ、ようやく2012年春から公開の運びとなった由。
期待が大きすぎたのだろうか、四半世紀ぶり位に再会したデ・ラランデ邸はなんだか綺麗すぎて別物のよう。明治末から大正初頭、すなわちデ・ラランデが住んでいた時期の状態(写真が残る)で復元したというから、前庭にアプローチが附くなど、小生の記憶のなかの古びた館とは印象がひどく異なる。最大のショックは正面に突き出たあの懐かしいサンルームが撤去されてしまったこと。当初は無かったのだと言われればそれまでだが、往時を知る者には些か興醒めである。しかも建物には喫茶店の「武蔵野茶房」が入居していて(
→店内)、一階部分とヴェランダは大賑わい。おちおち内装を見学していられない。やはりこれは空いた平日にでも再訪せねばなるまいて。そのときは蜂蜜入りカルピスを飲みたい。
さてこんなふうに一軒ずつ紹介していたらキリがない。なにしろ移築復元建物は三十棟もあるのだから。二時間ほど園内を漫ろ歩いた末、最後に訪れたのは「東ゾーン」の「下町中通り」と称する一郭。いかにも戦前の東京らしい鄙びた小商店や旅館、それに古式床しい銭湯が軒を連ねている。
丸二商店(荒物屋)(
→外観)
まさに絵に描いたような「看板建築」である。しかも手のこんだ堂々たる佇まいだ。この建物にも馴染がある。千代田区神田神保町3-10 というから、専修大交叉点から水道橋駅方向へ少し歩き、ホテルグランドパレス方面に斜めに分岐する五叉路の少し手前にひっそり佇んでいた(
→当時の写真)。小生が神保町で禄を食んでいたのは1970年代後半から80年代中頃にかけてだが、当時はまだ戦前の銅板葺きの看板建築がほうぼうに残っていて、この物件(小出版社だった)だけ異彩を放っていた訳ではないが、ファサード装飾が凝っていて目立つ建物だったので記憶に残っている。あれから幾星霜、神保町の街並も大きく変わったし、血気盛んな貧書生も老いさらばえてしまった。嗚呼! 去年の雪よ今いずこ。
子宝湯(銭湯)(
→正面外観 →下町中通りからの眺望)
最後は旅の疲れ(?)を癒やそうと風呂屋に立ち寄る。足立区千住元町で1988年まで現役だったという。城郭か仏閣のような堂々たるファサードだが、東京にはこの手の立派な構えの銭湯が沢山あったから驚くにはあたるまい。左右どちらの入口から入っても構わないらしいが、矢張り気が引けたので「男湯」の暖簾を潜って脱衣所に入ると若い頃にタイムスリップ。上京して暫くはアパート暮らしだったから、阿佐ヶ谷でも西荻でも銭湯に通った。浴室正面の壁の「絵に描いたような」富士山と三保松原(
→内観)も既視感たっぷりだ。浴槽に湯が張られてないのが残念。帰りは隣に建つ居酒屋「
鍵屋」(
→店内)でちょっと一杯(のつもり)。
帰路は往路を逆向きに辿る。ただし終始うとうとしていて、持参した新書版は一向に捗らない。帰宅は六時頃。まだ空が明るいのは初夏の季節の賜物だ。終日てくてく歩き通しで草臥れたが、遥々地球裏まで旅した甲斐があった。また行こう。