或る省の或る局に ・・・・・・ 併し何局とはつきり言はない方がいいだらう。おしなべて官房とか聯隊とか事務局とか、一口にいへば、あらゆるお役人階級ほど怒りつぽいものはないからである。今日では總じて自分一個が侮辱されても、なんぞやその社會全体が侮辱されでもしたやうに思ひこむ癖がある。つい最近にも、どこの市だったか、しかとは憶えてゐないが、さる警察署長から請願書が提出されて、その中には、國家の威令が危殆に瀕してゐることや、神聖な彼の肩書が無闇に濫用されてゐるといふことが明記されてゐたさうである。しかも、その證據だと言つて、件んの請願書には一篇の小説めいた甚く尨大な述作が添へてあつて、その十頁ごとに警察署長が登場するばかりか、ところに依つては、へべれけに泥醉した姿を現はしてゐるとのことである。そんな次第で、いろんな面白からぬことを避けるためには、便宜上この問題の局を、ただ《或る局》と言ふだけにとどめておくに爾くはないだらう。さて、そのある局に、《一人の官吏》がつとめてゐた ── 官吏、と言つたところで、大して立派な役柄の者ではなかつた。背丈がちんちくりんで、顔には薄痘痕があり、髪の毛は赤ちやけ、それに目がしよぼしよぼしてゐて、額がすこし禿げあがり頬の兩側には小皺が寄つて、どうもその顔いろは、所謂痔もちらしい・・・・・・ しかし、それはどうも仕方がない! 罪は彼得堡の氣候にあるのだから。官等に至つては (それといふのも、我が國では何はさて、官等を第一に御披露しなければならないからであるが)、いはゆる萬年九等官といふ奴で、これは知つての通り嚙みつくことの出來ない者をやりこめるといふ誠に結構な習慣を持つ凡百の文士連から存分に愚弄されたり、ひやかされたりしてきた官等である。この官吏の姓はバシマチキンと言つた。この名前そのものから、それが短靴 [バシマク] に由來するものであることは明らかだが、しかし何時 [いつ]、如何なる時代に、どんな風にして、その姓が短靴といふ言葉から出たものか──それは皆目わからない。父も祖父も、剩へ義兄弟まで、つまりバシマチキン一族のものといへば皆が皆ひとり殘らず長靴を用ゐてをり、底革は年にほんの三度ぐらゐしか張り替へなかつた。彼の名はアカーキイ・アカーキエヸッチと言つた。[...]云わずと知れたゴーゴリ作『
外套』劈頭の部分である。たぶん誰もがこれで出逢った岩波文庫の現行版とほぼ同じ文面だが、舊漢字・舊假名遣ひというだけでなく、修辞があちこち微妙に異なる。出典は
版画荘から昭和十一年に出た単行本。箱から取り出すと表紙に赤でゴーゴリの肖像が目にも鮮やか。
本書にはこの表紙絵を含め、
ワルワーラ・ブブノワの挿絵が随所に入っていて、それらも味わい深い情趣を醸すのだが、
平井肇が手がけた訳文がこれまた燻し銀の仄かな光を放つ。この『外套』の訳文が(少々手を加えた形で)岩波文庫に入ったのは二年後の昭和十三年のことだ。
この
平井肇という翻訳家はさながらニコライ・ゴーゴリの専属邦訳者といった趣があり、戦前ナウカ社から出た「ゴオゴリ全集」で訳者に名を連ねたのを皮切りに、『
肖像画・馬車』『
狂人日記』(ともに1937)、『
外套・鼻』(1938)、そしてゴーゴリ畢生の(ただし未完の)大作『
死せる魂』(1938~39)と、岩波文庫版のゴーゴリ翻訳のあらかたを一手に引き受けている。
その達意の訳しっぷりは上の『外套』冒頭の名調子からも察せられよう。だらだら息の長いゴーゴリ一流のノンシャランな文体(だと想像するのだが)を、講談師の語り口さながら生きた日本語に移し変えている。名人上手とはこのことだろう。
つい最近、しばらく品切書目だったゴーゴリの短篇集『
ディカーニカ近郷夜話』前・後篇が岩波文庫から「リクエスト復刊」された。やはり平井肇の訳。この本は前だか後だかの一冊を戦前の旧版で持ってはいるものの未読のままなので、折角だからこの際と二冊とも手にして読みだしたら、いやはや面白いのなんの。
験しに前篇所収「
五月の夜(または水死女)」から冒頭を少し長めに引く。因みに本書の著作権は原作・邦訳ともに消滅し、パブリック・ドメインに入っている。
高らかな歌聲が×××村の往還を川水のやうに流れてゐる。それは晝間の仕事と心遣ひに疲れた若者や娘たちが、朗らかな夕べの光りを浴びながら、がやがやと寄りつどつて、あの、いつも哀愁をおびた歌調 [しらべ] にめいめいの歡びを唄ひだす時刻であつた。もの思はしげな夕闇は萬象を朦朧たる遠景に融かしこんで、夢見るやうに蒼空を抱擁してゐる。もう黄昏 [たそがれ] なのに歌聲はなほ鎭まらうともしない。村長の息子のレヴコーといふ若い哥薩克は、バンドゥーラを抱へたまま、こつそり、唄ひ仲間から抜けだした。彼の頭には仔羊皮 [アストラハン] の帽子が載つてゐた。彼は片手で絃 [いと] を掻き鳴らしながら、それにあはせて足拍子をとつて往還を進んでゆく。やがて、低い櫻の木立にかこまれた一軒の茅舎 [わらや] の戸口にそつと立ちどまつた。それはいつたい誰の家だらう? 誰の戸口だらう? ちよつと息を殺してから、彼は絃 [いと] の音に合はせて唄ひだした。
お陽 [ひ] さま落ちて、ばんげになつた、
さあ出ておいで、戀人さん!
「いや、あの眼もとの涼しいおれの別嬪は、ぐつすり寢こんでゐると見える。」哥薩克は歌をやめると、窓際へ近づいて呟やいた。「ハーリャ、お前ねむつてるのかい、それともおれの傍へ出てくるのが嫌なのかい? おほかたお前は、誰ぞに見つかりはしないかと思ふんだらう、でなきやあ、その白い可愛らしい顔を冷たい夜風にあてるのが嫌なんだらう、きつと。それなら心配おしでないよ、誰もゐやしないし、今夜は暖[あつた]かだよ。もしか誰ぞが来ても、おれがお前を長上衣[スヰートカ]にくるんで、おれの帶をまいて、兩腕で隠してやるよ。── さうすれあ、誰にも見つかりつこなしさ。もしまた冷たい夜風が吹きつけても、おれがしつかりとお前を胸へ抱きしめて、接吻でぬくめて、白い可愛らしいお前の足にはおれの帽子をかぶせてやるよ。おれの心臓よ、小魚よ、頸飾よ! ちよつとでも顔を出しておくれ。せめてその白い小さい手だけでも、窓からさし出しておくれ・・・・・・。ううん、お前は寢ちやあゐないんだ、この意地つぱり娘め!」 彼は、ちよつとの間でも卑下したことを恥ぢるやうな調子で、聲を高めた。「お前はこのおれをからかふのが面白いんだな。ぢやあ、あばよだ!」
彼はくるりと背をむけて、帽子を片さがりに引きおろすと、靜かにバンドゥーラの絃を掻きならしながら、つんとして窓をはなれた。その時、戸口の木の把手 [とつて] がことりと廽つた。ギイつといふ音といつしよに戸があいた。そして、花羞かしい十七娘が微光につつまれて、木の把手をもつたまま、おづおづと後ろを振りかへり振りかへり閾を跨いだ。なかば朧ろな宵闇のなかに、澄みきつた二つの眼が星のやうに媚をたたへて輝やき、赤い珊瑚の頸飾がキラキラと光る。鋭い若者の眼は、面はゆげに少女の頬にのぼつた紅潮 [いろざし] を見のがさなかつた。
「まあ、氣みぢかな方つたら!」 さう、娘はなかば口の中で怨ずるやうに、男に言つた。「もう腹を立ててるんだわ! なんだつてこんな時分にいらつしたの? ときどき、人が多勢で往來 [おもて] をあちこちしてるぢやありませんか・・・・・・。あたし、からだぢゆうがぶるぶる顫へて・・・・・・。」
「なあに、顫へるこたあないさ、おれの美しい戀人さん! もつとぴつたりおれにより添ふんだよ!」さう言ひながら若者は、長い革紐で頸に懸けてゐたバンドゥーラを撥ねのけて、女を抱きよせながら、その家の戸口にならんで腰をおろした。「おれは一時間だつてお前を見ないでゐるのが辛いのさ。」
「あたしが今どんなことを思つてるか、知つてて?」 娘は物思はしげに男をじつと視つめながら遮ぎつた。「なんだかあたし、このさきふたりはこれまでのやうにちよいちよい逢はれなくなりさうな氣がしてしやうがないの。こちらの人たちはみんな意地惡ねえ。女の子たちはあんな妬ましさうな目つきで眺めるし、若い衆たちは若い衆たちで・・・・・・。そればかりか、この頃では、お母 [つか] さんまであたしにきつう眼を見張るやうになつたんだもの。ほんとのことを言へば、あたし異郷 [たび] にゐた時の方がよつぽど樂しかつたと思ふわ。」
この最後の言葉をいひきつた時、娘の顔には一種哀愁の影が浮かんだ。なんという小粋な名調子だろう。黄昏時の薄明りのなか、コサックの若者が恋人の家の窓下でセレナーデよろしく弦楽器を掻き鳴らす。やがて戸口から姿を現した娘と若者とのいなせな会話が実にいい。
「
まあ、氣みぢかな方つたら!」「
おれは一時間だつてお前を見ないでゐるのが辛いのさ。」
「
あたし、からだぢゆうがぶるぶる顫へて・・・・・・」「
なあに、顫へるこたあないさ、おれの美しい戀人さん!」
ちょっと古めかしい口調なのがむしろ床しい。現代のロシア文学者ではとてもこうは訳せまい。当世の日本語とかけ離れているからって、どこが悪いというのだ? なにしろ今を遡ること百八十余年、1831年に上梓された小説集なのだ。
これはゴーゴリが自らの郷里ウクライナの美しい自然を背景に、陽気で朴訥な民衆風俗を活写した瑞々しい短篇集である。訳者の「解題」の一節を借りるならば、
[...] 盡きることなき作者の空想は、讀者を驅つて、特殊な民族的幻想の世界へ、小露西亞の國民的傳説の世界へ、迷信とお伽の國へつれてゆく。だが、そこにあるのは、單なる張子や切抜や書割から出來た造り物の舞臺ではなく、生きた小露西亞の自然であり、香 [かぐ] はしいウクライナの空氣である。また、そこへ登場するのは、素地 [きじ] のままの小露西亞の住民であり、惡魔や魔法使や妖女の形に變貌したウクライナの百姓である。そこでは空想と現實とが渾然と融合し、巧みな虛構が素朴な眞實と變幻自在に絡みあつてゐる。
なるほどねえ、露西亜人がウクライナを魂の故郷として憧れ慕う心理には永い歴史があるのだなあと昨今の辛いニュース報道を聴きつつ想う。因みに老婆心ながら、文中の「小露西亜」とはウクライナの別称である。
さて小生が『ディカーニカ近郷夜話』のうちでこの「
五月の夜 Майская ночь」を真っ先に繙いたのは、先日も話題にしたリムスキー=コルサコフの同名オペラの原作であるためだ。歌劇そのものには馴染がなく、その序曲だけ昔から親しんでいて、どんなオペラなのか興味が湧いた──というか、知らずにいる怠慢を我ながら不甲斐なく思ったからである。こんなにも夢幻的な野趣に満ちた愛おしい物語とは知らなんだ。これは歌劇全曲を聴かずにはいられないて。
ゴーゴリのこの短篇集には、同じリムスキー=コルサコフのオペラの原作になった「
降誕祭の前夜 Ночь перед Рождеством」も含まれている(歌劇も同じ題だが邦題《クリスマス・イヴ》が一般的)。この短篇はそれ以前にチャイコフスキーもオペラ化している(《鍛冶屋のワクーラ Кузнец Вакула》1876)。さらに短篇「
ソロチンツイの定期市 Сорочинская ярмарка」も、ムソルグスキーが晩年にオペラ化を試みている(歿後、補筆のうえ上演。現行版「禿山の一夜」はこの未完オペラから派生した楽曲)。
こうした顛末だけからも19世紀後半におけるゴーゴリ人気の程が知れようが、同じ短篇集(収録作は八篇)から著名なロシア・オペラが四作も輩出したのだから、露西亜音楽愛好家の端くれとしてどうしても繙かずにいられなかったのだ。
それにしても、これほどゴーゴリの翻訳に打ち込み、達意自在の名訳を数多く残し、八十年近くも読み継がれている逸材というのに、小生はこの平井肇という人について何ひとつ知らない。中村白葉や米川正夫のように自叙伝を著すでもなく、昇曙夢のように評伝が出る訳でもなく、ウィキペディアの記述から辛うじて生歿年(1896~1946)と、生涯の事蹟(僅か一行!)を教えられた次第。
名人上手に対してこれほどの非礼はあるまいと、ネット上で情報を探ったら、おお、あった、つい最近こんな興味深い論考が出ているのを教えられた。
金井美智子
ロシア文学者・平井肇の満洲時代
『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』第25号
成文社
2013年12月いやはや、これは大変な労作である。標題のとおり彼の「満洲時代」すなわち後半生に焦点を合わせた論考だが、ぞの全生涯が手際よく概観され、このロシア文学者のユニークな人生を垣間見る思いがする。
件のウィキペディアの一行記述とは、「
東京帝国大学で八杉貞利にロシア語を学ぶ。主としてゴーゴリの翻訳者として知られる。」というのだが、そもそも前半部分が全くの誤りであり、平井は早稲田大学で片上伸に学んだのだという。しかも創設間もない露文科の第一期生なのである。
成績は優秀だったが三年後には退学し、知人で後年プロレタリア文学作家となる貴司山治の誘いで1924年に大阪へ転居、雑誌『婦人之世紀』記者になった。同誌ではプーシキン、トゥルゲーネフ、クープリン、ドストエフスキーの翻訳を手がけたというが、やがて腎臓を患って職を辞し、妻子とともに郷里の岐阜や東京(大田区や都下吉祥寺)などを転々とした。
面白いのは平井は当初「
ゴーゴリ作品を翻訳したことがなく、その文体をむしろ苦手としていた」が、貴司山治から「
いまだ専門的な翻訳者のいない、ゴーゴリ作品を翻訳することをすすめ」られ、「
生活のためにゴーゴリ作品の翻訳をはじめることになった」のだという。金井さんの記述は平井の実娘から提供された情報と、僅かに残る彼自身の回想に依拠しており、大いに信頼するに足る。苦手なゴーゴリを「生活のため」しぶしぶ選択したという経緯が面白い。
出版のあてもなく進められた平井のゴーゴリ翻訳がとうとう陽の目を見たのは1934年、ナウカ社が創業四年目に満を持して刊行した『
ゴオゴリ全集』(全六巻)によってである(以下の記事に詳しい。
→ここ)。昇曙夢、熊沢復六、中山省三郎、能勢陽三ら(この能勢は当時のロシア絵本の紹介に功績のある人でもある)に伍して、彼が翻訳者の一人として名を連ねたのである。しかも平井の担当は第一巻『ディカニカ近郷夜話』(第一回配本)と第二巻『ミルゴロド』(第三回配本)の二冊だったから重要だ。前者は三年後の1937年に岩波文庫に入り、後者には名高い怪奇譚「ヴィヰ」が含まれる。
それまで訳書のない平井が抜擢されるに至った経緯は詳らかでなく、金井さんは「
平井のゴーゴリ作品の翻訳が、ナウカ社社主の大竹博吉に認められ」とのみ記すが、その背後には、例えば貴司山治のような人物からの強力な推挽があったかもしれない。どうやら貴司は平井の後見人をもって任じ、ゴーゴリの訳文に朱筆を入れる立場にあったらしく、翌1935年の貴司の日記に「
平井肇君『死せる魂』の譯稿五十枚ばかり持參。自分がその日本文振りをなほして差上げる。この人も相當自分に手を煩はせたけれど、十年目にやつと一人前の飜譯家になつたやうだ」(2月15日)とある(出典は
→ここ)。
金井さんの論考はそのあと1939年に岩波文庫から『死せる魂』が上梓されるのと時を同じくして平井がハルビンに渡り、南満洲鉄道株式会社(満鉄)嘱託としてロシア語季刊誌『東方評論 Восточное обозрение』の編集者として野崎韶夫の下で働く時代を詳述するのだが、ここからはゴーゴリ翻訳とは別の話なので、興味のある向きは論考そのものをぜひ参照されたい。
この金井論文が載った研究誌『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』は一般書店の棚では見かけず、amazon.co.jp でも取り扱いがないため入手が厄介だが、小生は「東方書店」HPから註文した(
→ここ)。ゴーゴリ翻訳史を振り返るうえで必読の研究だろう。