さあて気疲れする作業も片付いたし、今日はのんびり読書と音楽だと珈琲を呑んでいたら「検尿とワクチン注射があるので飼猫を獣医に連れて行くべし」との厳命を家人から申し渡された。そうであった、すっかり失念していた。嫌がる猫を籠に押し込んで近所の動物病院まで歩く。大した距離ではない筈だが、五・三キロある体重はずしり持ち重りして籠を持つ手が痛くなる。
検査結果は異状なしと出て一安心。尻にズブリと予防注射。帰宅して籠の扉を開けてやると、「ああ、嫌だ、やっと終わってせいせいした」と云わんばかりの表情で脱兎のごとく飛び出した。餌をやるとモリモリ食べた。
そんな次第で午後は心おきなく読書と音楽。もう誰も邪魔だてしないで欲しい。
"Britten: Les Illuminations, Serenade, Nocturne"
ブリテン:
レ・ジリュミナシオン (1939)
セレナード (1942~43)*
夜想曲 (1958)
テノール/マーティン・ヒル
ホルン/フランク・ロイド*
リチャード・ヒコックス指揮
シティ・オヴ・ロンドン・シンフォニア1988年5月9~11日、キルバーン、セント・オーガスティンズ・チャーチ
Virgin Classics VC 7 90792-2 (1989)
→アルバム・カヴァー情けないことにベンジャミン・ブリテンに関する小生の知識は高校生の頃から半世紀間さして変わり映えしない。晩年の諸作品を知ったのと、いくつかのオペラを実見した程度で、「鎮魂交響曲」「戦争レクイエム」「春の交響曲」など昔から苦手だった作品は今も縁遠いまま。なので生誕百年の昨年も殆ど話題にしなかった。
高校三年の1970年、大阪万博で来日したレイモンド・レパード&英国室内管弦楽団の演奏会のTV中継で「
イリュミナシオン」という連作歌曲を初めて聴き、いたく興味をかきたてられた(独唱/ロバート・ティア)。純然たる英国音楽なのに原語でランボー詩集を歌うミスマッチも気に入っていた。程なく出たネヴィル・マリナーが同曲を指揮するLPを手に入れたら、何故か女性歌手が歌っていて吃驚した(独唱/ヘザー・ハーパー)。その盤のB面に収められていたのが「
セレナード」。テノールとホルン独奏が絶妙に絡み合い、不思議な光芒を放つ音楽だ。こちらはTVで見知ったロバート・ティアが歌っていたっけ。
「
夜想曲」はといえば、上野の文化会館資料室でブリテン自身が指揮した「四つの海の間奏曲」を試聴したとき、ついでに裏面に入っていたこの曲も聴いてみたのだが、どうもピンと来ないままで(ピーター・ピアーズの聲も好きでなかった)それきり聴かず嫌いになってしまった。
CDの功徳のひとつはディスクの収録時間が数割増になったことだ。「イリュミナシオン」「セレナード」「夜想曲」の三曲が一枚に纏められ、続けざまに聴ける。才気煥発たる若書き「イリュミナシオン」(
二十六歳)、戦時下の作ながら不思議に穏やかな夢想に満たされた「セレナード」(
二十九~三十歳)、その延長線上で玄妙な味わいを更に深めた「夜想曲」(
四十五歳)。
小生の知る限り、この三曲を一枚に収める趣向はヒコックス&マーティン・ヒルによる当盤をもって嚆矢とする。同じ独唱者で三作品を聴き進めるうちに、ブリテンの連作歌曲がどう深化し、書法がいかに練達したかが自ずと明らかになる。それ以降、いくつものCDがその顰みに倣って三曲を同時収録しており、永く規範とされてきたブリテン&ピアーズ盤すら今ではその形で再発されている。
いやはや、なんということだろう、ブリテンの「夜想曲」の凄さを今になって悟った。シェリー、テニソン、コールリッジ、ミドルトン、ワーズワース、オーウェン、キーツ、そしてシェイクスピア。眠りと夢に因んだ英詩精華集の体裁のなかに、夜想の濃やかさ、密やかな少年愛、騒乱の悪夢、夜のしじまの戦場の空気までが鋭敏な洞察力をもって描き出される。その奥深さに心奪われる思いがする。
曲ごとにファゴット、ハープ、ホルン、ティンパニ、イングリッシュホルンなどがオブリガート風に男声独唱とさまざまに絡み合い、素晴らしく独創的な効果を生む。これは「イリュミナシオン」「セレナード」を経てブリテンが辿りついた円熟の境地と精緻なスタイルをまざまざと示す傑作なのだと、今頃やっと気づいた次第だ。
ふと思い至ったのだが、この独創的な歌曲集こそはショスタコーヴィチが第十四交響曲を書く際に念頭においた作品(霊感を導く先例)そのものなのではないか。独唱者を前面に立たせ、「死」に因む古今の詩歌を精選し、個人的な夢想をはばたかせ、室内オーケストラを変幻自在に操るやり方がそっくりなのだ。あの交響曲がベンジャミン・ブリテンに捧げられたことの意味をようやく悟った。
それを気づかせてくれたマーティン・ヒルの透明な聲と巧緻な歌唱、手兵の楽団をきびきび綿密に統御するヒコックスの冴えた指揮術に感謝するほかない。