このところカテゴリー「読書」に属する拙稿が減り気味なのを気に懸けていた。とはいえ本を読まなくなったわけではなく、むしろ老眼に抗して読書に励んですらいるのだが、感想を申し述べるのが何やら億劫なのだ。それを書く暇があるなら別の本に手を伸ばしたくなる。いや、それではやはり怠慢に過ぎるので、せめて四月に頁を捲った書名だけでも備忘録風に列挙しておこう。紹介文もほんの少し。
ジョー・マーチャント
木村博江 訳
アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ
文藝春秋
2009
3月16日の深夜NHK・BSで観た「
世界最古のコンピューター~
宇宙を再現! 古代ギリシャの技術」なる秀逸なドキュメンタリー番組に啓発され読んだ。百年ほど前にエーゲ海から引き揚げられた錆だらけの金属片を科学者たちが永年かけて解析、ついに謎が解明されて古代ギリシアの「失われた叡智」──高度な天文学知見と洗練された機械技術──が蘇るという驚きの大発見。その一部始終が詳述される。凄い知的昂奮。いつもながら木村博江さんの達意の邦訳にも脱帽だ。
中谷宇吉郎
福岡伸一 編
科学以前の心
河出文庫
2013
葉山で観た柳瀬正夢の展覧会に触発され、彼と親交があった「雪の科学者」中谷宇吉郎への関心が再燃した。福岡ハカセが新たに編んだという中谷の科学随想アンソロジー、半分ほどのエッセーは初めて読む。不自由な戦時下で愛児たちにコナン・ドイルのSFを読み聞かせた経緯を記す「
イグアノドンの唄」がとりわけ面白い。平易な語り口と端麗で飄逸な日本語に打たれはするものの、その先を見通す洞察力において師匠の寺田寅彦に遠く及ばないというのが偽らざる感想だ。
古田 亮
俵屋宗達 琳派の祖の真実
平凡社新書
2010三年ぶりの再読。これまた上野で観た展覧会の副産物としての読書である。生歿年も生涯の事蹟も殆ど伝わらない謎の天才の仕事をどう捉えるか。《風神雷神図屏風》を最晩年の総決算とする山根有三教授の説に疑問が呈され、むしろ《舞楽図屏風》こそが宗達の行き着いた先であると示唆する。それなりに説得力はあるものの、宗達の画業の展開過程にはやはり腑に落ちない点が多すぎる。《風神雷神》の前で覚えた感動は一体どこに由来するだろうか。謎は深まるばかりである。
小川万海子
ウクライナの発見 ポーランド文学・美術の十九世紀
藤原書店
2011世界中が固唾を呑んでウクライナ情勢を見守る今、本書を棚から取り出して新たな問題意識から再読。かつて近世にはポーランド=リトアニア共和国がウクライナの大半を領有した歴史があり、18世紀後半にポーランドが分割され独立を喪失すると、同国のロマン派詩人・画家たちはこぞって「失われた祖国の発祥地」「乳と蜜の流れる理想郷」としてウクライナを理想化した。専ら近代ポーランドの芸術家の視点から「幻の豊穣の土地」ウクライナを浮き彫りにしたユニークな著作。
A・A・ミルン
阿川佐和子 訳
ウィニー・ザ・プー
新潮社
2014
ヒュー・ロフティング
福岡伸一 訳
ドリトル先生航海記
新潮社
2014
考える人 (雑誌)
特集 海外児童文学ふたたび
新潮社
2004
永年にわたり読み継がれていた邦訳の向こうを張って新たに訳すには勇気が要る。村上春樹が清水俊二に最大限の敬意を払ってチャンドラー改訳を世に問うた故事はよく知られていよう。石井桃子訳「熊プー」や井伏鱒二訳「ドリトル」に伍して新訳を送り出そうとする新潮社には相応の熟慮と覚悟があったに違いない。そのことは訳者の人選に明らか。石井桃子の家庭文庫に足繁く通った少女時代をもつ阿川女史、井伏訳「ドリトル」シリーズを愛読し自己形成したという福岡ハカセ──どちらも改訳者たる資格は充分とみた。そして結果もまた上乗である。その経緯を明かすご両人の往復書簡が掲載された『考える人』特集も併せて読むべし。
村上春樹
女のいない男たち
文藝春秋
2014
発売前日には早くも増刷本が店頭に積まれていたのだから、ハルキ人気やはり恐るべし。長篇小説では破綻や息切れの目につく村上春樹だが、九年ぶりだという短篇集(全六篇が緩やかなテーマで括られる)もまた出来不出来の差が否めず、冒頭の「ドライブ・マイ・カー」の緊張感ある完成度が保てなかったのが残念。
獅子文六
てんやわんや
ちくま文庫
2014
前にも一度あったことだが、ハルキのあとに何故か獅子文六を読んでしまうのは「お口直し」のようなものか。架蔵するはずの新潮文庫が手近に見当たらないので新刊棚から掬い上げて再読。面白くてほろ苦い。端倪すべからざる小説家だ。
アレグザンダー・マコール・スミス
パリジェン聖絵 訳
列車と愛の物語
近代文藝社
2014
エディンバラ発ロンドン行の急行列車に乗り合わせた旅客四人が徒然なるまま身の上話をする──このプロットは前に読んだことがある。そうだ、二年前たまたまスコットランド往還の折に車中で無料配布された雑誌スタイルの短篇集(
→東海岸旅物語)、あれと同じではないか! 作者も同じマコール・スミス。ははあそうか、あの短篇集『
イースト・コースト・ストーリーズ』を元に枝葉を拡げ長篇一冊分に仕立てたものに違いない。元の短篇集では五人だった乗客=語り手は四人に減らされ、各人の挿話は遙かに寛いだ口調で語られる。とはいえ、絵画鑑定見習いが贋作を見抜く「古典派絵画、列車附き」や、間違った駅で下車したことから恋人と巡り合う「逢びき」など、短篇集の挿話がそのまま生かされているので、二冊の小説は兄弟のように似通っている。このあたりの経緯に訳者「あとがき」が全く触れていないのはちょっと頂けないが、邦訳そのものは手慣れた筆致で読み易い。ただしロンドンの「コートルード美術館」、米国詩人「ケネス・コッホ」は感心しないぞ。