二年前の2012年は
フレデリック・ディーリアスのアニヴァーサリー・イヤーだった。生誕百五十年の誕生月の1月を皮切りに、一年にわたって英国各地で数多くの演奏会が催された。この年のBBCプロムズはディーリアスの代表作がずらり並んで壮観だったのも記憶に新しい。その割りに新録音は数えるほどしかなく、とりわけ老舗レーベル(もはや「死に体」なのは周知のことだが)からは旧録の再発以外に何ひとつ出なかったのは惨憺たる有様というほかなかった。
しかしながら天を仰いで惨状を慨嘆したのは早とちりだったようだ。それから一年ほどが経過するうちに、あちこちの気骨あるインディペンデント・レーベルから、ディーリアンならば随喜の涙を流すようなアルバムが一枚、また一枚と送り出されている。先日ここで紹介した小町碧さんのデビュー・アルバムもそうした目覚ましい成果のひとつであろう(
→ディーリアス、ゴーギャン──出逢いが育んだ音楽)。といっても賑々しい宣伝が伴うでもなく、人知れずひっそりと姿を現すものだから、ついうっかり遣り過ごしてしまいそうだ。
今夜これから聴くのも英国でハレ管弦楽団の自主レーベルから昨秋ひっそりと(だと推察される)登場したものの、わが国では今日まで殆ど等閑視されたままだ。ディーリアスの最高傑作の新録音だというのに、なんと非道い仕打ちだろう。
"Hallé - Elder - Holst & Delius"
ホルスト:
イエス讃歌 The Hymn of Jesus*
ディーリアス:
海流/海の彷徨/藻塩草 Sea Drift**
シナラ Cynara***
バリトン/ロデリック・ウィリアムズ** ***
合唱/ハレ合唱団* **、ハレ青少年合唱団*
マーク・エルダー卿指揮
ハレ管弦楽団2012年3月15日、マンチェスター、ブリッジウォーター・ホール(実況)*
2011年3月17日、マンチェスター、ブリッジウォーター・ホール(実況)**
2012年2月4日、ソールフォード、BBCメディアシティ・スタジオ***
Hallé Concerts Society CD HLL 7535 (2013)
→アルバム・カヴァーエルダー卿とハレ管弦楽団(かつてバルビローリ卿の手兵だった)はこれまでにも「ブリッグ・フェア」や「春に郭公の初音を聴いて」ほかの小品など、ディーリアス作品を同レーベルから出してきたが、合唱入りの本格的な大作はこれが初めて。とはいえエルダー卿は2012年の倫敦プロムズでは初日にBBC交響楽団ほかを率いて「海流」を指揮して絶賛されたのも記憶に新しく(
→その1、
→その2)、いずれ必ずこの曲の正規録音がなされる筈と心待ちにしていた。
一聴して共感の漲る真率な指揮ぶりに心をうたれる。リハーサルも交えた実況録音なので瑕瑾もなくはないが、全体を貫く滔々たる流れと切々たる心情の吐露は隠れもない。ビーチャム卿このかた幾多の名盤が犇めく同曲の録音史にあっても独自の存在を主張しうる演奏ではなかろうか。
とりわけ素晴らしいのは独唱を受け持った
ロデリック・ウィリアムズの歌いっぷりだ。徒らに声を張り上げオペラティックに謳い上げるのではなく、ホイットマンの詩句の意味を噛みしめつつ、語りかけるように歌う。その知的で節度ある歌唱が同曲には相応しく、なにより好もしいのだ。
上に引いたプロムズでのブリン・ターフェルの歌唱も立派なものだが、朗々と謳い上げすぎてディーリアスの繊細な情感が消え失せてしまった。YouTubeコメントで誰かが評していたように、まるでヴォータンが歌っているような趣なのだ。それに較べてロデリックの歌唱は抑制と節度を心得ている。丁寧な語り口に好感がもてるし、なによりも英語のディクションが明瞭で、ホイットマン詞が隅々まではっきりと聴き取れるのが嬉しい。彼がバッハ・コレギウム・ジャパンの常連歌手としてバッハのカンタータや「メサイヤ」を歌っているのも宜なるかな。
その彼が「シナラ」では一転して頽廃的なダウスンの世紀末的な宿命の愛を歌う。これも実に心に染み入る絶唱なのである。端倪すべからざるロデリック!
エルダー卿とその手兵は申し分ない解釈を示している。ホルストの知られざる(というか小生には馴染のない)"The Hymn of Jesus" も、合唱団を含め完成度の極めて高い秀演である。「惑星」の最後の「海王星」でのコーラスがそのまま教会空間を充たすような神秘的な光芒に魅了された。
最後に話を再び「海流」に戻すならば、この演奏は同曲の数ある音盤のうちでも出色のものだろう。往時のビーチャム録音は別格としても、私見ではグローヴズ&J・ノーブル盤(EMI)、ヒコックス&シャーリー=クァーク盤(Decca)、ヒコックス&T・ハンプソン盤(BBC Music, 実況)にも優に比肩しうる稀代の名演なのではないか。ディーリアス愛好家ならば絶対に聴き逃すことのできない一枚。