昨日ロンドンから一枚の新譜CDが届いた。新進ヴァイオリニスト
小町碧(こまちみどり)さん待望のデビュー・アルバムである。この2月に録音、4月3日リリースというから、まさに出来たてホヤホヤの新作だ。
"Colours of the Heart - Midori Komachi / Simon Callaghan"
ドビュッシー:
ヴァイオリン・ソナタ
ディーリアス:
ヴァイオリン・ソナタ 第三番
ラヴェル:
ヴァイオリン・ソナタ
グリーグ(エミール・ソレ編):
ヴァイオリンとピアノのための歌曲
■ 君を愛す
■ ソルヴェイグの歌
ヴァイオリン/小町 碧
ピアノ/サイモン・キャラハン2014年2月21、22日、サフォーク、ポットン・ホール
MusiKaleido
MKCD001 (2014)
→アルバム・カヴァー小町さんの演奏は昨年末に二度ほど聴いた(
→そのレヴュー)。ディーリアスと画家ゴーギャンの交友関係に焦点を合わせ、ディーリアスのヴァイオリン曲を中心に19世紀末パリのミリュー(芸術環境)を浮かび上がらせる意欲的な演奏会を2012年から続けている。その成果の一端を東京で耳にしたのである。とうとう日本人でディーリアスと真摯に取り組む音楽家が出現したのかと感慨を覚えるとともに、彼女の率直で、しかも陰影の深い演奏スタイルにも心惹かれたものだ。
その折に配布された資料から、彼女が単にヴァイオリニストとしてディーリアス解釈を深めるばかりでなく、パリ時代のディーリアスを取り巻く環境と芸術家間の交流を調べ上げ、ロンドンの王立音楽院に修士論文を提出したと知り、演奏実践と歴史研究をふたつながら推し進める態度にいたく敬服した次第だ。「ディーリアスと真摯に取り組む音楽家」とはそういう意味なのである。
東京での演奏会の際に、ディーリアスの第三ソナタを含むデビュー・アルバムが昨秋すでにシカゴで録音済と聞かされたが、どうやら録音上の不具合があったとかで、英国で再度セッションがもたれ、満を持して完成したのが当アルバムである。その到着を鶴首して待っていたという次第。
CDブックレットを開くと、冒頭に「ディーリアスとゴーギャン」と題して小町さんによる示唆的な緒言が掲げられている。心許ない拙訳だがその大意を記そう。
英国の作曲家フレデリック・ディーリアス(1862~1934)はポール・ゴーギャンの《ネヴァーモア》の最初の所蔵者だった。彼はこの絵を宝物として音楽室に飾り、その部屋で数多くの音楽を作曲した。ディーリアスとゴーギャンは1894年パリで出逢っている。二人の周囲には芸術家サークルが形づくられた。作曲家・画家・作家──そのなかにはグリーグ、ラヴェル、ムンク、ロダン、イプセン、ハムスンがいた。これを契機として、ディーリアスの和声は深く神秘的な色彩を深めていく。まさしくゴーギャンの《ネヴァーモア》のように。全く同時期にゴーギャンは、音楽さながらに感情のうねりを伝える色彩を模索している。すなわち、彼の言葉を借りるならば、「色彩とは、眼が音を聴き取る言語なのだ」。
彼ら芸術家の間で交わされた会話から、どのような音楽が生まれたのだろうか?
小町さんとディーリアスとの出逢いも、このゴーギャンの《
ネヴァーモア》経由だというから驚きだ。彼女は数年前たまたま訪れたテムズ河畔のコートールド・ギャラリーでこの絵(
→画像)の前に立ちつくした。昏い表情で裸身を横たえるタヒチ女性には、観る者を金縛りにして異界へと拉し去る魔力があるから、蓋し当然の反応だろう。そのときは気づかなかったが、やがてこれがディーリアス旧蔵品と知ったところから翻って彼女はディーリアスの音楽に開眼したのだという。
ディーリアスとの遭遇が、大学の音楽史の授業でも、教授から手渡された課題曲でもなく、美術館でゴーギャンの絵画を介してなされたという事実に、小町さんという音楽家のユニークなありようが垣間見える。彼女は音楽をただ楽譜を通して読み解くのではなく、それが生み出された時代や文化、芸術家同士の交流の所産として、より深く多角的に理解しようと欲する。彼女はディーリアス作品を同時代のフランス芸術(音楽のみならず美術、文学も)との関連や、相互影響のなかで再検討し、そこに新たな光を投げかけようとするのだ。
本CDはそうした果敢な姿勢の何よりの証である。早い話、ディーリアスのソナタをドビュッシー、ラヴェルのソナタと同じアルバムで組み合わせたヴァイオリニストがこれまで存在しただろうか。寡聞にして小生はそうした前例を知らない。この一事をもってしても、小町さんの取り組みの独自性が汲み取れよう。
こうして三つのソナタを続けて聴くと、それらの時代的な通有性は無論のこと、むしろそれ以上に個々の際立った特殊性を感じずにはいられない。とりわけディーリアスのソナタの玄妙で内省的な和声はまさしく比類ないものだ。
ディーリアスの第三ソナタの微妙に移ろいゆくハーモニーに、小町さんはゴーギャン絵画の強く響きあう色彩と似通った志向性を嗅ぎ取り、「
それぞれの和声は異なった音色を帯び、個別には互いに溶け合わないようにみえて、ひとたび感情の流れのなかで抒情的旋律に導かれるや、和声は淀みなく流れていく。ゴーギャンの《ネヴァーモア》と同様に、ディーリアスの音楽は果てしない想像力の空間を拓くのである」とライナーノーツで評している。
ディーリアスとフランスの芸術家たちとの関係についてはエリック・フェンビーの証言のほか、ライオネル・カーリーやクリストファー・パーマーらの先行研究がある。ドビュッシーとディーリアスは奇しくも同年の生まれであり、互いの音楽を確実に聴き知っていた(ただし、ドビュッシーはディーリアスの声楽曲について、揶揄するような手厳しい批評を書いている)。ラヴェルは若き日にディーリアスからの個人的な依頼でオペラ「赤毛のマルゴ」をピアノ譜に仕立てたことがある。ディーリアスの音楽室の楽譜棚にはドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の譜面があった事実も知られている。
小町さんはそれらのディーリアス文献を渉猟し、とりわけカーリーの所論をよく咀嚼したうえで、ドビュッシーやラヴェルの音楽との距離を慎重に見極め、考察の成果を演奏に反映させようと努めているようだ。どの曲もよく弾き込まれ、作曲家ごとの音色やスタイルの違いが明瞭に識別されている(ラヴェルのブルージーな響きの見事な表現!)。伴奏者
サイモン・キャラハンはディーリアスの二台ピアノ用編曲作品集を録音(
→そのレヴュー)するなど、その音楽に親炙したピアニストであり、ここでも周到な心遣いでヴァイオリニストを支えている。小町さんがこの共演者と巡り逢ったのは悦ばしい僥倖だった。
思慮深くも瑞々しい小町さんの演奏を繰り返し聴きながら、小生もまた小生なりにディーリアスという特異な存在
について、その音楽の出自と独自性をより深く見極めたいものだと思い巡らしている。
追記)
このCDは英amazon.co.ukで入手できる(
→ここ)。
わがアマゾンamazon.co.jpからもダウンロードが可能だが、彼女の労作であるライナーノーツが読める点で、やはりCDでの入手を強くお奨めしたい。