芝居は座席に坐って見聞するものだ。机上でいくら綿密に台本を読んだからといって、演出家ならぬわが身にはどうにも舞台が彷彿としない。楽譜がそのままでは音楽たりえないのと同じ理屈だろう。
だから唐十郎もつかこうへいも井上ひさしも、生身の役者が板の上で演じることで初めて動き出す。刊行された彼らの戯曲集も手許に何冊かあるにはあるが、碌に頁を繰った験しがない。レーゼドラマはドラマぢゃないのである。
そういう次第だから、鍾愛の劇作家
ノエル・カワードの芝居についても、いろいろ舞台に接してきたわりに、戯曲そのものをきちんと読んだ験しがない。
たった一度、旅先の倫敦で必要に迫られて"Present Laughter"という芝居の台本を辞書と首っ引きで精読(数日後の観劇の予習である)した位で、それとても機関銃のように発せられる科白の応酬を愉しむには程遠い読書体験だった。小生にとって、カワード劇もまた生の舞台を目で見、耳に聴いて初めて面白さを味得できる世界なのだ。
そもそもカワード劇の邦訳を碌に架蔵しない。カワード好きを公言するわりになんとも情けない体たらくだが、日本語上演に接することさえできれば、敢えて訳文を読む必要に迫られないのである。
カワード愛好家なら先刻ご存じのように、彼の代表作は1970年代に纏まって日本語に訳され、二冊の戯曲集として公刊されている。
ノエル・カワード戯曲集
加藤恭平 訳
■ 焼棒杭に火がついて [=私生活]
■ 大英行進曲 [=カヴァルケード]
■ 陽気な幽霊
ジャパン・パブリッシャーズ
1976
ノエル・カワード戯曲集 Ⅱ
加藤恭平 訳
■ 渦巻き
■ 花粉熱
■ ほろ苦さ
■ 逢びき [=静物画]
ジャパン・パブリッシャーズ
1977この二冊の戯曲集さえあればカワードの出世作 "Vortex" "Hay Fever" から "Blithe Spirit" に至る戦前の代表的な芝居があらかた日本語で読めてしまう。なんとも重宝なアンソロジーなのはよく承知している。よく承知はしているのだが、実際にこれらを書架に並べるのは正直なところ容易ではない。
というのも、この二冊はどういう事情からか刊行後ほどなく絶版になり(版元倒産の故か)、この手の本としては珍しく古書価が高い。申し合わせたように売値は五千円から七千円、二冊セットでも一万円を下ることはまずないだろう。戦前の稀覯本ならいざ知らず、70年代後半ごく普通に出た戯曲集なのだから、この値付けは明らかに異常だ。そうなるともう小生は依怙地になった。ええい畜生め、カワード好きの足元を見やがって、こんな高値で誰が買うもんか。いつかきっと格安価格で二冊を揃えてみせるぞ、と心に誓ったのである。
だが事はそう簡単には運ばない。流通部数がよほど少なかったのだろうか、正・続篇どちらも滅多に目にする機会がないし、やっと巡り合っても高価すぎて食指が伸びかねた。2004年たまたま展覧会の仕事で芦屋に出向く途上、気紛れに途中下車して立ち寄った大阪駅前「阪急古書のまち」で、正篇のほうが三千円で出ているのを発見し、旅先の気安さも手伝って「ちょっと高いが、まあいいか」とばかりに即決した。この調子なら続篇もいずれ見つかるだろう。
ところがその続篇がなかなか探し出せない。いや、ネット検索で容易に何冊か在庫が見つかるのだが、どれも売り値が恐ろしく高い。せめて正篇と同額で・・・と希いつつ、空しく時が過ぎ去ってしまった。それがつい最近、ひょんな機会からまずまず妥当な価格で手に入った。二冊を揃えるのに十年もかかったのは気の長い話だと我ながら呆れるが、まあ蒐書とはそういう悠長な営みなのだ。古書店から届いた小包を解くとじんわり感慨がこみ上げた。これからはカワードの代表作をいつでも日本語で「読める」──そう思うとしみじみ嬉しさを禁じ得ない。
二冊の戯曲集に併せて七つの芝居が収められているのだが、小生はこれまで《カヴァルケード》と《ビター・スウィート》以外はすべて生の舞台で観た経験がある(《逢びき》は倫敦でミュージカル版を鑑賞)。
ちょっと調べてみたら、小生が加藤恭平の日本語訳による上演に接した機会はたった一度だけ──1993年に銀座セゾン劇場で観た《陽気な幽霊》──という意外な事実が判明した。《花粉熱》は鳴海四郎訳(1996年、博品館劇場)、《渦巻》は常田景子訳(1996年、ベニサン・ピット)、《私生活》は飯島早苗訳(2006年、青山円形劇場)と松岡和子訳(2008年、シアタークリエ)でそれぞれ接している。翻訳刊行から三十数年が経って、この加藤訳の賞味期限がそろそろ切れかけているということなのだろうか。そのあたりの感触も実際に読んで確かめてみたい。