春分の日を過ぎて今日はようやく完璧に春めいた朝。窓から射し込む陽光が眩いほどだし、海から吹くのは心地よい微風、空は雲一つない快晴だ。バラカン氏の「ウィークエンドサンシャイン」を聴きつつ熱い珈琲を啜る。これ幸いなるかな。
先日来、拙宅にも何冊かある柳瀬正夢の装幀・挿絵本を繙いては感慨に耽っている。村山知義の場合とは異なり、柳瀬本を熱心に蒐書しようという意図はなかった筈なのだが、永年の間にいつしか澱のように手元に溜まってきたものだ。
長谷川如是閑
犬・猫・人間
改造社
1924若き柳瀬正夢を世に送り出したジャーナリスト長谷川如是閑の数ある著作の一冊。だいぶ傷んではいるが一応カヴァーが残っている。どこにもそう明記されないが、カヴァー・表紙・扉に描かれたスフィンクスの絵は柳瀬によるものだろう。標題に惹かれて神保町の即売会で手にしたもの。「ピヨトルの猫と私の猫」「猛犬ジヤツクの話」「初めて逢つた漱石」など読み応えある小文を集めた飄然たる随筆集。
ワシリ・エロシェンコ
エロシェンコ創作集 人類の爲めに
東京刊行社
1924小生のエロシェンコ好きを知った叔父から頂戴したもの。柳瀬の装幀とは知っていたが、展覧会場で再会し、改めて書棚から引っ張り出してみたところ、これが実に秀逸な出来映えなのである。表一はすっきり構成主義風(
→これ)だが、表四には癖のある表現主義風の戯画で怪物・骸骨・スフィンクス・ソ連の労農マーク(!)まで描かれている。久しぶりに手に取って、表紙を捲ると・・・思わず息を呑んだ。
黑田礼二訳
表現派戯曲集
叢文閣
1924黒田礼二とはクロポトキンとレーニンを合成した(!)筆名で、本名を
岡上守道(おかうえもりみち)という。大阪朝日新聞の特派員としてベルリンに派遣され、密かにモスクワ入りを果たした社会主義者である。中條百合子のモスクワ日記にも登場する人物だが、後年は転向してヒットラー礼賛本まで著した。本書はトラー、カイザーらの表現主義演劇の台本アンソロジー。勉強のため手にした本だが、これが柳瀬の装幀だと、恥ずかしながら先日の柳瀬正夢展で初めて知った。どこにもそう明記されないが、なるほど初期の彼のサイン代わりの「夢」マーク(
→これ)が扉頁にあるではないか! いやはや知らぬは恥、宝の持ち腐れとはこのことだ。
鈴木文助 編
夏川八郎 [ママ] 画
小學科學繪本 第十一巻
米
東京社
1937月刊絵雑誌『コドモノクニ』の版元である東京社が鳴り物入りで刊行した全十二巻からなる本格的な知識絵本シリーズだが、実際には1930年代前半に米国で出たピーターシャム夫妻の絵本シリーズから粗筋と構成とを剽窃し、挿絵の大部分を換骨奪胎して仕立てた盗作であり、道義的にみるなら許しがたい企画だろう。ただし、作画には柳瀬正夢のほか、
村山知義、
木村俊徳、
横山薫次、
山下謙一、
栗田次郎といった『コドモノクニ』常連画家たちが総動員され、彼らのグラフィックなセンスが横溢するため、戦前の絵本史上に特筆すべき成果とも目される。彼らの才能は明らかに原作者よりも上だったのだ。この『米』についても同様で、密かに範と仰ぐ原作絵本 "Rice"(1936)が存在する。ただし、姉妹篇『金』『鉄鋼』『汽車』などが概ね元版からの「パクリ」であるのに比して、この『米』は題材が題材なだけに日本独自の視点や新情報が多く盛り込まれ、柳瀬の挿絵も大半はピーターシャム版とは異なる場面を描く。本シリーズ中で最も独自色の濃い絵本といえそうだ。しかも柳瀬の作画には当時の彼が親炙した1930年代初頭のロシア絵本から学んだとおぼしい自在で闊達な省略法や俯瞰的な視点が駆使され、瑞々しい農村風景がのびやかに描き出される(国際子ども図書館HPで全頁が閲覧できる。
→ここ)。絵本作家としての柳瀬の優れた才能が最もよく発揮された一冊。
暉峻義等
開拓科学生活圖説
第一册 白系露人の営農と生活
第二册 日満露三民族の生活比較
第三册 満人の営農と生活
勞働科學硏究所/大阪屋號書店 →「第一册」の表紙
1942戦前から永く労働者の生活を調査し、「労働科学」の提唱者として知られる暉峻義等(てるおかぎとう)は戦時下にも旺盛な活躍を続け、満洲で開拓に従事する人々の暮らしを詳しく調査した。あくまでも翼賛的な研究である事実は否定しようもないが、緻密な記述と潤沢な記録写真を掲載した本シリーズは資料的な価値が高い。とりわけ柳瀬も足を運んだ白系ロシア人の開拓村ロマノフカに関する記述(第一冊)は値千金だろう。柳瀬は表紙(と扉)に挿画を寄せただけだが、内容的に当時の彼の関心事と密接に連なる著作。ただし小生にとっては猫に小判か。
中谷宇吉郎
寒い國
少國民のために
岩波書店
1943岩波書店が初めて少年向けの出版を企て、「正しい科學的知識を與へることを目的として編輯」したシリーズの一冊。戦時体制下の出版動向に一矢を報いるべく刊行された良心的な叢書である。この本については以前ここで紹介したことがある(
→寒い日に読む「寒い国」)。「寒い國」すなわち樺太や満洲の気候風土を紹介する、という当時の国策に沿った切り口で、中谷が提唱する「低温科学」の世界へと平易に誘う好著である。その第二部「寒い國の衣食住」に本書のため柳瀬が描き下ろした満洲スケッチが数多く収載されているのだ。柳瀬ファン必携の書物。