美術館を辞してもう十年以上になるが、さすがに展覧会からすっかり足が遠のいた。もともと美術というジャンルは音楽や映画ほど好きになれない──そう云うと身も蓋もないが、どうにも近頃の展覧会には食指が伸びないのである。もはや職業的な必要に迫られないのと、なかなか満足のいく成果に出逢えないのと、齢のせいでフットワークが衰えたのと、理由を挙げればそんなところだろうか。だが油断は禁物、怠慢は罪、恐ろしく充実した展覧会が葉山で催されているらしい。しかも会期はあと一週間を残すのみ。ようやく春の訪れが兆した暖かい一日を費やして遙々出向いてきた。無理に誘わなかったので、今日に限り家人は留守番。
そういうわけで電車とバスを乗り継いで二時間半、きっかり正午に神奈川県立近代美術館 葉山に到着。まずは海を臨む高台の喫煙所で一服する。惜しくも富士山は雲に隠れているが申し分ない晴天だ。心身ともに覚醒したところで切符売場へ。今回は出品者ではなく一来館者としての入場なので気が楽である。
[主催者の口上]
柳瀬正夢(やなせまさむ 1900-1945)は、15歳で再興第2回院展に入選するなど、早くからその才能を開花させました。本展では、45年という生涯の中で絵画のみならず漫画、装丁、舞台美術、写真、俳句など、幅広い活動を展開した柳瀬の全貌を、代表作の絵画作品や関連資料約650点で振り返ります。
第1章 1900―1923
少年時代を松山(愛媛県)、門司(福岡県)で過ごした柳瀬は、1914年に最初の上京を果たします。未来派美術協会やマヴォといったグループに参加し、最先端の芸術思潮を次々と吸収しながら、その多彩な才能を開花させていきました。
第2章 1923―1932
1923年9月1日の関東大震災は、柳瀬の画業に決定的な影響を与えます。柳瀬は次第に絵画から離れ、時局を巧みに諷刺した漫画やポスターなど、グラフィックの世界に活躍の場を移しました。
第3章 1932―1945
1932年、柳瀬はプロレタリア運動に深く関わったことにより逮捕され、活動を厳しく制限されます。妻の死など苦境をへて、再び絵画を描き始めた柳瀬は、日本各地や中国大陸を旅し、俳句や写真に取り組みました。しかし、新たな展開が期待された矢先、1945年5月の空襲で命を落とします。
「柳瀬正夢展」は過去に何度も開催されている。小生も武蔵野美大や三鷹市美術ギャラリーで観ているし、ロシア絵本との絡みから彼の童画家としての仕事を少し調べたこともあり(遺品から1930年代のロシア絵本が十九冊も見つかっている)、柳瀬の装幀した書物も何冊か架蔵する。
だから小生にとって柳瀬は村山知義と同じくらい身近な作家と云えるのだが、彼の仕事は膨大かつ多岐にわたる(この点も村山と双璧だろう)ので、その全貌を一望の下に捉えるのは至難の業なのである。今回の回顧展は間違いなくこれまでで最大規模だから、口上にあるとおり「幅広い活動を展開した柳瀬の全貌」に迫るまたとない好機なのである。千載一遇とはこのことだ。
回顧展のアプローチは頗るオーソドックス。彼の創作活動をほぼ十年ごとに時系列で三期に区分し、各期間ごとに「幅広い活動」の中味をつぶさに検証するという構成だ。各期間を分かつのは「1923年」──関東大震災と、「1932年」──治安維持法による逮捕(と妻の早逝)、すなわち彼の生涯における二つの大きな転換の年である。作風に即していうなら、三期をそれぞれ「後期印象派から前衛絵画へ」「新興美術からプロレタリア美術へ」「絵画への回帰とリアリズムの深化」と名づけることも許されようか。
些か図式的に過ぎる見方かもしれないが、彼の豊饒にして厖大な作品群を俯瞰し咀嚼するには、こうした大まかな区分が先ずは有効であろう。小生も本展でやっと柳瀬の仕事を「ひとつの人格から流れ出たもの」として理解できた。初めて彼の肉声を聴いた気がしたのである。
優に六百点を上回る展示なので個々の作品を詳述するのは不可能だが、そぞろ歩きながら気づいた諸点を三つのセクション毎に備忘録風に記しておこう。
まずは十代から二十代初めにかけての「
第一章」では、まず初期の油彩風景が圧巻。明らかにセザンヌの感化が際立つが、濃緑と青と赤紫の醸す不思議な響き合いには独自の禍々しい表出力があり、早熟な天才ぶりを印象づける。彼の暮らした北九州の街景(
→《河と降る光と》1915
→《門司》1920)や、好んで旅した佐賀関(大分)や阿蘇山の風景がその芸術形成に果たした役割に思い至る。本展は北九州市立美術館が中心になって企画されたところから、個々の風景がいつ、どこを描いたものであるかの同定や考証にも抜かりがない。併せて、若き日の柳瀬を支援した門司のパトロンたちの存在にも言及される。
1920年の上京を機に柳瀬の作風は劇的に変化し、うねるように流動的な風景(
→《川と橋》1921頃)から抽象性の強いダダ的な実験作(
→《五月の朝と朝飯前の私》1923)へと目まぐるしく移り変わる。村山知義と出逢い、前衛集団「マヴォ」の創設に加わるのもこの時代だ。ただし、本展では当時の彼の尖端指向をあえて強調せず、むしろ一過性のものだと云わんばかりにやり過ごし(先年ここで観た村山知義展との決定的な違いだ)、むしろ彼と演劇との係わり(秋田雨雀らが主宰する先駆座での舞台装置)の重要性を示唆するあたり独自の着眼がなかなか面白い(本展カタログには西澤晴美氏の興味深い論考がある)。
「
第二章」は関東大震災に始まる。直接的には惨状を記録したスケッチブックが残る程度だが、憲兵隊に連行され五日間拘留されるなど生々しい体験は、自叙伝で九月一日こそわが誕生日だと述べるほど深甚な影響を及ぼしたらしい。これを境に柳瀬は「マヴォ」同人たちと距離を置き、ドイツの諷刺画家ジョージ・グロス(ゲオルゲ・グロッス)の強い感化の下、無産階級の視点に立ちつつ鋭くも闊達な時事漫画を描き出す(
→「無題(農民の惨状)」『無産者新聞』1926
→「田中總理大臣閣下の公平な肥料分配論」『無産者新聞』1927)。
このセクションの出品作で初めて観て震撼させられたのは、《無題 Ⅲ》と仮題された大がかりなコラージュ作品(
→展示写真 →作品部分 1926)。横長が1.7メートルもあり、各種の企業債券やその広告類を全面に貼り混ぜた上に、グロテスクな裸形の人体群を水彩で描いた奇怪な問題作だ。残念なことに本展ではこの重要な大作に関しては展示キャプションでもカタログでも一言も解説してくれないので、作品制作の動機や意図については不明のままだが、そのインパクトは名状しがたくも強烈そのもの、作品の前で暫し茫然と立ち尽くした。
諷刺漫画家としての柳瀬の面目が躍如とするのは、讀賈新聞漫画部スタッフとして描いた夥しい数の漫画である(原画も少なからず残存する)。とりわけ日曜版附録に連載したカラー漫画に彼の端倪すべからざるセンスと作画能力とが看取されよう(
→「運藤爲太一家の迎春」1931)。
彼には典型的なプロレタリア美術としての宣伝ポスター(
→「讀メ! 無産者新聞」1926、
→「五万の讀者と手を握れ 全民衆の味方 無産者新聞を讀め!!」1927)や雑誌表紙もあるが、今日の眼からみるとプロパガンダの手法が如何にも類型的で暑苦しく、流石に時代の限界を感じさせる。
もうひとつ、この時代の柳瀬と凡百のプロレタリア美術家とを分かつ決定的な作品がある。同じく讀賣新聞に連載されたルブラン作(松尾邦之助訳)活劇小説に寄せた挿絵がそれだ(
→「真夜中から七時まで」1932)。小さな画像では委細が伝わるまいが、新聞挿絵の現物は海外の写真を巧みに貼り混ぜたコラージュ=フォトモンタージュ作品であり、柳瀬は同時代のハウスマン、ハートフィールド、あるいはモホイ=ナジらの先例を咀嚼して、秀逸なオリジナルに仕立てている。異質なイメージを衝突させつつ統合する能力は驚嘆に値しよう。
ここで言い添えておくなら、柳瀬正夢というと真っ先に想起されるサイン代わりの「ねじ釘」マーク(
→これ)は、この「第二章」の時代に挿絵や装画の片隅に初めて登場する。彼は「夏川八朗」なる別名も好んで用い、しばしば「8RO」と署名するのだが、その場合「8」を上下に「ねじ釘」マークを二つ連ねた形で記しているのに気づいた。このマークによほど愛着があったに違いない。
「
第三章」は悲痛な受難の時代である。彼の逮捕・拘留と、そのさなかの愛妻の急逝に始まり、言論統制下での表現の抑圧、そして空襲下の新宿駅前における無残な死に終わる。生え抜きの社会主義者だった柳瀬にとって苦悩と蹉跌に苛まれ、茨の道を歩まされる十数年だったろうが、にもかかわらず、この時期の作品は絶望や諦念の翳りはなく、静謐な温かみと人間的な成熟を感じさせる。これこそ柳瀬の偉大さの証しではなかろうか。
執行猶予中の身ゆえ一切の政治的な言動を封じられ、時事諷刺漫画の執筆も禁じられたため、1930年代後半の柳瀬は子供向け絵雑誌(『子供之友』と『コドモノクニ』)を主たる活動の舞台とする。期せずして30年代初頭レニングラードでの「オベリウ」詩人や前衛画家たちとよく似た運命だが、残された僅かな活動分野に賭ける気持ちからか、彼の童画には深く切実な思いが滲んでいる。多くのロシア絵本を手にした(ナウカ社の大竹博吉からの提供という)のもこの時期だった。本展では展示スペースも手狭、やや軽く扱われているのが残念だが、柳瀬の子供のための仕事に愛着をもつ者にとっては見逃せないセクションである。
この時期、彼は讀賣新聞に復帰し、『よみうり少年新聞』に子供向けコマ漫画を連載して見事な成果を挙げたが、このあたりは前に武蔵野美大での展覧会(
→柳瀬正夢の炸裂する才能)でつぶさに観たからもう驚きはない。
今回の展示でつくづく讃嘆したのは、この時期に再び油彩画に復帰した彼が描いた肖像画のしみじみとした味わいである。モデルは当時の彼が最も信頼していた出版人の小林勇(《Kの像》1934)、彼を師と仰ぐ絵画サークル「コペル会」の素人画家たち(《市バスの車掌 白手袋をはめる》1936、《白衣の婦人》1937頃)など身近な人々だが、どれも被写体に寄せる揺るぎない愛情と信頼が滲んだ画面である。最晩年のマレーヴィチの一連の肖像画がふと脳裏をよぎる。
市井の人々に寄せる共感は、この時期に彼が再三訪れた満洲でしたためた素描(とりわけ子供たちを描いたスケッチ)、数多く撮ったスナップ写真にも共通する特色だ。満鉄の招聘による彼の大陸旅行そのものは時局迎合との誹りを免れまいが、旅先で出逢った民衆に注ぐ柳瀬の眼差しには心からの親近感と愛着に溢れている。このような時代の所産でなければどんなにか良かったろうに!
最後の一室には俳人としての柳瀬の知られざる一面や、松山・北九州・東京での交友関係を紹介するコーナーがあったが、この一郭はどうも展覧会の全体構成にしっくり溶け込まず、些か蛇足の感が否めない。先年のベン・シャーン展や村山知義展でもそうだったが、この美術館では最終セクションの展示が雑駁で、混濁した印象を残したまま展覧会を終える傾向が否めない。担当学芸員の集中力が途絶えて腰砕けになるのか? いかにも勿体ないし、この点が惜しまれる。
・・・と急ぎ足で展覧会を一巡しただけで、強い印象を受けた作品は枚挙に暇なく、しかも初めて目にするものが少なくない。今後これだけの数の柳瀬作品が一堂に会する機会はもう二度と(少なくとも小生の生きている間は)なさそうなので、再度じっくり冒頭から見直した。
そのうえで改めて痛感したのは、柳瀬正夢を取り巻く人脈の綺羅星の如き煌めきである。若き日にジャーナリスト
長谷川如是閑(にょぜかん)に才能を見出されたのを皮切りに、
大山郁夫、
河上肇、
大庭柯公(かこう)、
秋田雨雀、
大竹博吉・せい(ナウカ社)、
小林勇(鐡塔書院/岩波書店)、
小山久二郎(小山書店)、
中山省三郎、
火野葦平、
中野重治、
佐多稲子、
羽仁五郎・説子・・・。いずれも左翼系もしくはリベラルな言論人や出版人だったが、これらの人々がこぞって柳瀬の才能を認め、その人柄に惚れ込んで、惜しみない支援を与えたのである。彼の装幀した書籍・雑誌は夥しい点数に及ぶが、それらは皆こうした多彩で濃やかな交流のなかから生まれるべくして生まれたのだ。
最も驚かされたのは讀賣新聞社社長の
正力松太郎である。警視庁に永く務めて讀賣入りした正力はどうみても左翼に同情的だった筈はなかろうに、その彼が治安維持法で逮捕・出獄した柳瀬を直ちに復職させ、新聞紙面に活躍の場を与え続けた。敗戦後はA級戦犯に指定され、復帰すると原発推進の元締となるなど、とかく悪辣な印象ばかり際立つ正力の意外な一面をみる思いだ。
帰りに売店でカタログを買い購めた。四百五十頁を超える大冊で、ずっしり持ち重りする(
→これ)。装幀デザインも上乗、印刷の仕上がりも申し分ない。間違いなくこれまでに出た柳瀬関連書籍のなかで最も充実した一冊だろう。どの寄稿文も誠実で読み応え十分だが、とりわけ
西村勇晴(北九州市立美術館館長)の巻頭言が素晴らしい。単なる挨拶文の域を遙かに超え、北九州時代の若き柳瀬の秀作《門司港》(1919
→これ)が描き出す光景が本当に門司の港なのだろうか、と地誌的な観点から疑義を唱え、大前提から見直しを迫る刺激的な一文である。