今日は寝坊できない。とびきり濃い珈琲を淹れて無理やり眠気を醒まし、バラカンの「ウィークエンド・サンシャイン」を冒頭だけ聴いて家を出る。電車を三本乗り継いで埼玉の実家まで赴かねばならぬ。無住となった室内を整理して、どうしても必要な家財を選り分け、残りは処分してしまう。家も土地も手放すと決まったので、片付けは一刻も早く終えなければならない。今日がその最終日なのである。
朝十時に指扇駅前で妹と姪っ子と落ち合い、そのまま実家へ直行。三人して一日がかりで「要」「不要」の分別作業にせっせと勤しむ。手分けして亡父の書斎や亡母の居室を片づける──言葉にすると簡単そうだが、なにしろ数十年かけて蓄めこんだ物、物、物・・・箪笥の抽斗を引き出し、押入れの木箱や紙箱を開けて、いちいち中身を確認しながらの仕分け作業なのでおいそれと捗らない。しかも埃だらけの部屋は冷凍庫さながら冷えきっていて、咳込むやら手がかじかむやら。
昼食を挟んで七時間ぶっ続けで作業。夕刻になり終盤に差しかかったところで、母の部屋から妹の呼ぶ声がする。最後に残った戸棚を皆で確認したいとのこと。どうやら中身はあらかた母の古着や古雑誌の類らしい。とうに要らなくなってからも捨てずに残してあったらしい。「どれも不用品だな、もうここはいいや」と扉を閉めかけたそのとき、奥まったあたりにもう一つ菓子箱があるのに気づいた。念のため取り出して蓋を開けると、函からは小生と妹の通知表やら出欠簿やら褒賞状やら、採点済の答案用紙、画用紙に描いた水彩画、朱筆の入った毛筆習字などがどっと纏まって出てきた。うわあ、これは、なんだ!
よくぞまあ後生大事に取っておいたものだ。とはいうものの、半世紀も前の遺物である。今更もう必要あるまいとゴミ袋に抛り入れようとして、原稿用紙に鉛筆書きした作文の束にふと目が留まった。標題には「
手足の不自由なみなさんへ 五年一組 沼辺信一」とある。ということは、この作文こそは、あのときの・・・
こう書いても読者諸賢にはなんのことやらサッパリ判らないだろう。以前ここで書いた記事「懐かしきわがトラウマ」から引用する。
小学二年から五年までずっと担任だった鈴木重夫先生は、どんな教科も一通りこなされたが、その本領は国語教育にあった。埼玉県でも指折りの書道の名人で、正月の書初めの授業のとき、素晴らしい達筆で「歳月不待人」(陶淵明の漢詩の一節だそうだ)と大書されたのを、今でもありありと憶えている。「わかるかい、この意味が」──そう問いかけながら。田舎の小学生にはちょっとハイブロウすぎたのだが、こうして半世紀後も記憶に残っているところをみると、それなりに強い印象を受けたのに違いない。
鈴木先生は四年間いつも決まって小生を級長に指名した。それだけ特別に目をかけてくれたのだろうが、いささか有難迷惑でもあり、ときに困惑させられた。やれ硬筆習字コンクールだ、やれ読書感想文コンクールだ、と、いつもご指名で小生を参加させようと仕向けるのだ。
いつの頃だったか、「体の不自由な子供たちを励ます」作文コンクールというのに参加させられたことがある。「そんなの僕には書けません」と断ればいいものを、先生の信頼を裏切ることができず、ズルズル引き受けてしまったのだ。でも、書くことなど何一つ思い浮かばない。身近なところに「体の不自由な子」なんていなかったのだから、それも当然であろう。
もう明日は提出日という夜、土壇場になっても小生は一行も書けず、原稿用紙を前にメソメソ泣いていた。帰ってきた父に「どうしたのだ?」と聞かれ、正直に窮状を告白したら、「ふうん、そうか。わかった、今夜はいいからもう寝なさい」と言われ、その晩はそのまま泣き寝入り。
翌朝早く、父に揺り起こされた。すると、あら不思議や、原稿用紙が文字で埋まっているではないか! 父がテーマに合わせて作文を代筆してくれたのだ。大急ぎでそっくり丸写しして、そのまま鈴木先生に提出した。情けないやら、不甲斐ないやら、疚しいやら。先生の顔を直視できなかったのを憶えている。
ところが、なんとしたことか、この作文がコンクールの県大会で入選してしまったのだ。鈴木先生に連れられて表彰式に出かけたときの惨めさといったら…。
このことがあって以来である。作文が小生にとってトラウマと化してしまったのは。
つまり、そういうこと。そのトラウマの原因となった元凶たる作文の現物が五十一年ぶり(!)に出現したのである。
ざっと一読して情けなくなった。なにしろ父の代作だから修辞こそ一応もっともらしいが、語り口はいかにも大人びて、可愛げが全くない代物だ。「
人間にとって、努力するということは、たいへんにたいせつなことです。世界的に有名な医学者の野口英世も、小さいときに手に大やけどをしましたが、それにもまけずに努力をしたので、あのような、りっぱな学者になれたのです。ですから、みなさんも、手や足が不自由でも、ひかんしたりしないで、いっしょうけんめいに努力をして、りっぱな人になってください」だと。いやはや、非の打ちどころなく偽善的な文章に鼻白む思いがする。はたして鈴木先生はこれで良しと判断したのだろうか。
事情はどうあれ、別人の書いたものを自作と偽ることは罪悪である。世を欺いた代償をいずれ払わされるのは、いつの時代も同じなのだ。子供心にも罪の自覚に苛まれ、作文に対する苦手意識を植え込まれた。その気持ちはずっと長く小生に取りついて離れなかった。克服するのに何十年もかかったのだ。
箱からはもうひとつ、仰天するような代物が出現した。同じく小学五年生の課題として、半紙に毛筆で書いた習字が何枚もあり、どれにも鈴木先生の朱筆で、直しやコメントが書き込まれている。「賢」「初春」「元気に」と次第に字数を増やしていって、最後は六文字の「卒業生を送る」に至る一連の手習いである。そのなかの「五文字」熟語に思わず息を呑む。なんと「
原子力時代」というのだ!
わが小学五年といえば1963年から64年にかけて。60年に着工された東海村の原子炉は当時まさに試験運転を続行中。臨界に達するのが65年というから、文字どおり「原子力時代」の幕開けだった。田舎の小学生のお習字にまで国策が浸透し、「刷り込み」が行われていた事実に愕然とする。教育とは洗脳なのだ。
家人にちょっと尋ねてみたら、茨城県人で小生と同い年の彼女は小学校の遠足で東海村の発電所を見学に行った(ただし遠くから建物を眺めるだけ)というから、当時の教員や父兄には疑念や危機感はまるで無かったのだろう。その判断停止の果てに今日の深刻な状況があるのだと考えると、罪深さに怖気が走る。