近隣の映画館で山田洋次監督の新作《小さいおうち》を観た。
昭和十年代の東京郊外に建つ洋館でモダンな都市生活を謳歌する家族の日常と、そこに容赦なく襲いかかる戦争の昏い影──その悲喜こもごもの時代相と人間模様を、同家に住み込んだ女中の眼から(より正確には数十年後の彼女の回想を通して)つぶさに描いた佳品である。原作である中島京子の同名小説にかねてから親しんでいたので、封切二日目の日曜に早々と足を運んだのだ。
その一場面でちらと写ったディテールに思わず目が釘付けになってしまう。
夫婦が暮らす「小さいおうち」で、ささやかな年始の集いが催された。夫の勤める玩具会社の社長と、図案家志望の新入社員の二人が来客である。時は1938(昭和十三)年の正月、前年に勃発した支那事変と、沸き起こる戦時景気への期待とが話題の中心となって、座は大いに盛り上がった。その場の空気に馴染めない図案家の青年は賑やかな客間からそっと抜け出し、好奇心から二階へ上がって子供部屋にやって来てしまう。そしてこの家の一人息子に請われるまま、絵本を読み聞かせる羽目になる──たしか、そんな成り行きだったと思う。
開かれた絵本の頁は「
氷山ト タイタニック號」と題され、暗夜を航行中の豪華客船が巨大な氷山とまさに激突する瞬間が描かれていた(
→この見開き)。
この絵の作者は
安井小弥太(1905~1985)といい、機関車や飛行機や船舶など乗物を描かせたら当代随一と謳われた人気童画家だった人物。掲載誌は月刊絵雑誌『
コドモノクニ』に相違あるまい。安井はこの雑誌の挿絵画家の常連として毎号のように彩管を揮っていたのである。
ちらと観ただけでそう言い当てられたのには訳がある。十年ほど前に「幻のロシア絵本 1920~30年代」展の下準備として、ロシア絵本から日本への影響の痕跡を探るべく1930年代の『コドモノクニ』誌を虱潰しに悉皆調査したことがあって、その折に恐らくこの絵を瞥見して、誌面からはみ出さんばかりのダイナミックな構図に心惹かれ、記憶の片隅に留めたのだろう。
だがどうも気になる。もっと身近な場所でこのタイタニック号の絵を矯めつ眇めつ眺めたような気がしてならないのだ。なんだか胸騒ぎがして、帰宅後に書庫を漁ってみたら疑問はあっさりと氷解した。
ずいぶん前から架蔵する『
コドモノクニ ノリモノ童画集』第一集(安井小彌太・木俣武著、東京社、1936
→表紙)という横長大判の画集があって、そのなかに安井のタイタニック号の絵も再録されていたのである。作者自らの筆になる解説文を書き写しておこう。
氷山と「タイタニック號」
氷山の如何に怖るべきかは、氷山といへば直にタイタニツク號の大慘事を憶ひ出す程、今猶世人の心を暗くいたします。
「タイタニツク號」(四萬五千頓・六萬馬力)は一九一二年、善美をつくして建造された大西洋航路の豪華な旅客船。處女航海に船客員二二二三人を乘せて英國を出發しましたが、途中行く手に大きな流氷を見とめました。そこで直ちに機關を逆轉しましたが間に合はず、遂に氷山と激突、船首右舷水面下に約六十メートルの裂目を生じて、さしも壮麗な巨船も一たまりもなく、暗澹たる海底へ沈んで行きました。氷山を發見してから僅か二時間後の事であります。
氷山は、南北両洋の寒冷の爲、白雪が收縮氷結したもの、それが海上に落ちて氷山となり、海流や風波の爲に低緯度地方へと漂流するので大西洋にまで現はれるのです。海面上百メートルから百三十七メートルに及ぶものがあり、而も氷山は、その海面上に露出してゐる上部分が、全體の約六分の一か七分の一に過ぎませんから、その巨大なる事、正に想像以上であります。(安井)実に精確にして懇切丁寧な自作解説である。ここまで該博な知識をもったうえで作画に臨んでいたのかと、今更ながら感嘆を禁じ得ない。
ところでこの「氷山ト タイタニック號」が掲載された『コドモノクニ』誌は1934(昭和九)年4月号であり、場面に設定された1938年とは四年もの隔たりがある。まあこの程度は映画にありがちな年代考証の過誤として見過ごしてもよかろうし、子供部屋にたまたまバックナンバーが置かれていた可能性もなくはない。
だが小生はそうではないと想像する。この場面でチラと姿を覗かせるタイタニック号の絵姿は、ただ挿話的に映し出されるのでなく、然るべき意味と予言的なメッセージを担っているのだと考えたい。何も知らない幾千もの無辜の民を乗せて闇夜を進む豪華客船とはすなわち当時のニッポン国の暗喩であり、その行く手には巨大な氷山が待ち構えていて、ほどなく悲惨なカタストロフが訪れるのだ、と。
原作にはない「絵本読み聞かせ」の場面をわざわざ挿入し、 しかも時代錯誤と承知の上で四年前のタイタニック号の雑誌挿絵をここに登場させたのは、脚本家(山田監督と平松恵美子の共同執筆)の深謀遠慮のなせる業に相違あるまい。
かかる詮索はさておき、昭和十年前後、裕福で教育熱心な家庭=「小さいおうち」の子供部屋に置かれる小道具として、『コドモノクニ』(東京社)ほど相応しい月刊誌はちょっと思いつかない。競合誌である『子供之友』(婦人之友社)よりも判型が大きく、『キンダーブック』(フレーベル館)よりも内容に工夫が凝らされ、印刷も紙質もきわめて上質で、掲載作品の質もおしなべて高かったから、新時代の情操教育に適った先進的な絵雑誌として支持された。附言しておくなら、1936~37(昭和十一~十二)年の『コドモノクニ』には国粋的な軍国主義の気配は殆ど看取できず、むしろフランスの「ペール・カストール」絵本やドイツのケストナー&トリーア絵本、更にはロシア絵本まで参照したモダンで垢抜けた誌面づくりが顕著であり、戦前の日本児童書文化が到達した最高水準を示す。
ただし価格は五十銭とやや高額だったから、毎月これを定期購読できたのは一部の富裕層は限られるだろう。読者の中心は大都会に暮らす中産階級の子女たちだったと想像されるのだが、七十年以上も昔のこととて、『コドモノクニ』がいかなる子供たちにどう受け止められたのか、その実態を窺い知るのは容易でない。
それを探る僅かな手掛かりは同誌巻末の綴じ込み附録中の「メンタルテスト 前號ノオコタヘ」頁に潜んでいる。「メンタルテスト」とは各号の裏表紙(表三)に出題された簡単なクイズのことで、「オコタヘ」欄には前号の正解とともに、葉書で解答を寄せた子供たちの氏名が道府県別にずらり掲載されているのだ。
さすがに東京府の住人が圧倒的に多数を占めるが、それでも愛読者は北海道から九州まで万遍なく分布しており、果ては樺太・朝鮮・台湾・大連・満洲に至る「外地」に暮らす日本人子女の氏名が克明に記録されている。
いつだったか、架蔵する1930年代『コドモノクニ』を暇に飽かせて片端から手に取り、記された子供たちの名を眺めていて思わず息を呑んでしまった。
1934(昭和九)年1月号で「東京」の読者のなかに「
色川武大」、1936(昭和十一)年10月号で「満洲」の読者のなかに「
小田島雄志」の名を発見したのである(小田島家は父が満鉄社員)。
その当時、色川少年は四歳、小田島少年は五歳だった筈だから、恐らく教育熱心だった親の助けを借りて、葉書をしたため編集部に宛て投函したのだろう。半ズボンを履いた可愛い坊やがやがて長じてプロの雀鬼やシェイクスピアの全訳者になろうとは、誰一人想像だにできなかったが、栴檀は双葉より芳しの諺どおり、幼少時から『コドモノクニ』誌でおさおさ情操教育を怠らなかったのだ!
このように1930年代には日本各地の大小都市、そして「外地」の街々に建った「小さいおうち」の子供部屋で『コドモノクニ』は熱心に繙かれていたに違いない。