今を時めく指揮者マリス・ヤンソンスの父アルヴィドも今年が生誕百周年にあたるのだそうだ。なるほど彼はキリル・コンドラシンと同い年なのだった。こんな節目の年が迫っているとも気づかぬまま、小生はこの指揮者のことを昨秋ちょっと話題にした(
→鉛は金に変わったか──わがクラシカル事始その3)。子供の頃わが家にたまたまあったフォノシート製の「未完成交響楽」が何故かこの人の指揮になるものだったという昔話を書きだして、その同じ演奏をCDで聴き直す、というところまできて「まだ書きかけ」のままになっている。
それではならじ、せっかくのアニヴァーサリー・イヤーなのだから、今日はその一部を再録(
緑字の箇所)したうえで続きを書いてみよう。
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1958年レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の初来日に同行し、そのとき請われて東京交響楽団を振ったのを機に同楽団に幾度も客演し、演奏水準を飛躍的に高め「鉛を金に変えた」(Ⓒ山根銀二)と評されたラトヴィア出身の指揮者アルヴィド・ヤンソンス Arvīds Jansons/ Arvid Yansons/ Арвид Янсонс (1914~1984)。彼の名を口にし耳にしただけで、ある世代までの音楽愛好家(七十代以上の老人たち)は格別の感慨を催すのが常である。
今では息子マリス・ヤンソンスの世界的名声の蔭で専ら「マリスの父」と紹介されるだけの隠れた存在だが、かつて日本ではソ連邦の指揮者としては最も広く人口に膾炙した大巨匠だった。東京交響楽団を率いて幾多の伝説的な名演奏を繰り広げ、1960年代には「ヤンソンス&東響」といえば戦前の「ローゼンシュトック&新響」に勝るとも劣らぬ無双の黄金コンビと目されていた。小生の世代でその雄姿に接した者は多くないが、先輩たちの口からはヤンソンスの練習の厳しさ、見違えるほど統率のとれた東響の名演について縷々聞かされたものだ。
とにかくその東響との実況録音を聴いてみよう。
《世紀の巨匠 ジャパン・ライブ・シリーズ アルヴィド・ヤンソンス》
ヴェーバー: 歌劇『魔弾の射手』序曲*
デュカ: 交響詩「魔法使の弟子」**
チャイコフスキー: 交響的幻想曲「フランチェスカ・ダ・リーミニ」***
シューベルト: 交響曲 第八番 ロ短調「未完成」****
アルヴィド・ヤンソンス指揮
東京交響楽団
1960年11月29日、東京、新宿コマ劇場(実況)*
1960年12月14日、東京、日比谷公会堂(実況)**
1960年10月27日、東京、日比谷公会堂(実況)***
1960年11月11日、東京、日比谷公会堂(実況)****
東芝EMI TOCE-8863 (1996) →アルバム・カヴァー
うわあ、これはなんだ! 「魔弾の射手」が始まるといきなり失望と落胆を覚える。オーケストラの音にまるで潤いがなく、終始どんよりと淀んで響く。これが本当に「鉛を金に変えた」錬金術の成果なのか? ここで聴くのはヤンソンス三度目の来日時──山根銀二の評言を再び借りるならば「金をダイヤモンドにかえつつある」段階の演奏なのだという。ここにはダイヤモンドの輝きや透明度はおろか、金に喩えうる輝きや煌めきは皆無である。鉛がせいぜい錫か亜鉛に変じた程度に過ぎないだろう。これを貴金属や宝石に擬えるなど笑止千万だ。
モノーラル収録の実況録音の限界や会場のアクースティックの悪さを勘定に入れても、音楽として耳を魅する美点がなく、聴く歓びとはまるで無縁だ。収録場所の異なる二曲目「魔法使の弟子」でも印象は全く同じ。弦楽合奏が艶やかさを欠くため湧きたつような昂奮や歓びが感じられない。管楽奏者の技量の低さにも耳を覆いたくなる。強奏時のユニゾンの響きは田舎の軍楽隊さながら垢抜けない。もう再生をやめようと何度思ったことか。ほとほと近所迷惑な音だ。
1960年の段階で東京のオーケストラはかくも低劣な水準だったのか? しかも当時これらの演奏が口を極めて大絶賛されているのだ。小生が1968年に生まれて初めて耳にした(解散前の)日本フィルハーモニー交響楽団は、いくらなんでも遙かに光彩陸離と響いたと思うのだが、記憶が美化されているのだろうか?
ところがである。不思議なことに三曲目のチャイコフスキーあたりから印象が違ってくる。オーケストラの貧弱な響きは相変わらずだが、耳が馴れてくるからなのか、いたたまれない不快感はいつしか後景へと退き、むしろヤンソンスが脳裏に思い描く音楽の真率さ、一途でひたむきな強靭さがひしひし伝わってくる。
ははあ、これなのかも知れないと思い到る。当時の人々の心をしたたか打ったのは指揮者が放射するこの直截な表出力ではなかろうか。
ヤンソンスの心中を察するに、東響の貧弱な響きに彼が満足し、これでよしと肯んじたとは信じがたい。何しろ彼が恒常的に指揮していたのはムラヴィンスキー時代のレニングラード・フィルなのである。考えてみると上述の「フランチェスカ・ダ・リーミニ」にしても、次の「未完成」にしても、ムラヴィンスキーが十八番中の十八番としていた演目なのだ。その傍らにいたヤンソンスは震撼すべき決定的名演に何度となく接していたに違いない。
そもそも60年代初頭の東響との共演を聴きながら、かの地のオーケストラ演奏を引き合いに出すこと自体がナンセンス、月と鼈どころか、まるで比較になりはしない。にもかかわらず、ヤンソンスが性懲りもなく繰り返し東響に来演したのは、ソ連国外での活躍を望んだという事情もあろうが、この楽団の愚直なまでの真摯さや必死の喰らいつきに惹かれたからではないか、と考えてみたりもする。
そしていよいよ因縁の「未完成交響楽」である。収録データを信ずるなら、これはその昔フォノシートでさんざん聴いた演奏と同一音源ということになる。実況録音テープがTBS倉庫に保存されていたのだ。
生まれて初めて耳にした「未完成」だという事情を割り引きしても、これはなかなか秀逸な演奏ではないだろうか。東響の冴えない音色は相変わらずだが、その欠陥を補って余りあるのが終始一貫した凄まじい緊張の持続である。そこここに覇気と情熱が漲り、弛緩する瞬間がどこにもない。たしかにこれは1960年の時点でこの国のオーケストラ演奏が辿りついたひとつの到達点かもしれない。
「未完成」におけるヤンソンスの解釈はムラヴィンスキーと共通点がある。情緒纏綿たる優雅さを断固として排除し、張りつめた緊迫感で全曲を統一する行き方がそれだ。ただし極限までピアニッシモを持続させて抑制を貫くムラヴィンスキーとは対照的に、ヤンソンスはむしろ随所で感情が迸る山場をつくり、無理なく緩急自在をつけてドラマを現出させる点が特徴的である。
アルヴィド・ヤンソンスの生演奏には遂に接する機会がなかったが、大阪万博を機に来訪したレニングラード・フィル公演(1970年7月1日、大阪、フェスティヴァル・ホール)はTVとFMでつぶさに見聞したことがある。チャイコフスキーとショスタコーヴィチの「第五」を組み合わせた王道プログラムだったのだが、同日は本来ならムラヴィンスキーが振る予定のところを、直前になって急な来日中止でヤンソンスにお鉢が回ってきたという経緯もあり(ヤンソンスはもともとムラヴィンスキーの補佐役として来日が決まっていた)、どことなくムラヴィンスキー色の濃い、それだけにヤンソンスとしては不徹底で不本意な演奏だったような気がする。
この日の実況録音は幸いNHKのアーカイヴに保存され、今はCDでも容易に聴けるのだが、上述の理由からここでは避け、代わりにその翌年夏レニングラード・フィルが訪英した際のライヴを聴いてみることにしよう。
チャイコフスキー:
「眠りの森の美女」抜粋
■ 序奏とリラの精
■ アダジオ
■ パノラマ
■ 円舞曲
ショスタコーヴィチ:
交響曲 第五番
アルヴィド・ヤンソンス指揮
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
1971年9月13日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール(プロムズ実況)
Intaglio INCD 7121 (1992) →アルバム・カヴァー
同年夏のレニングラード・フィル訪英については不明な点が多い。BBC Proms のHPに拠れば、同楽団はたしかにプロムズに登場し、ロイヤル・アルバート・ホールで続けざまに四夜の公演を行っているのだが、ムラヴィンスキーは同行しなかった(9月9、10、12日はロジェストヴェンスキーが指揮し、このCDに聴く13日のみヤンソンスが振った)。ロジェストヴェンスキーが振った日は「幻想」やプロコフィエフ「第五」、ブラームス「第一」など、当時もうムラヴィンスキーが振らなくなった曲目を中心にプログラムが組まれているのに対し、最終夜のアルヴィド・ヤンソンス公演だけはいかにもムラヴィンスキー好みの演目ばかり並ぶ。すなわち、
チャイコフスキー: 交響的幻想曲「フランチェスカ・ダ・リーミニ」
チャイコフスキー:「眠りの森の美女」抜粋(四曲)
ショスタコーヴィチ: 交響曲 第五番
想像を逞しくすれば、もともとこの最終夜はムラヴィンスキー登場が予定されていたが、なんらかの事情で同行が取りやめになり、急遽その代理として(またしても!)ヤンソンスが振ることになった──そういう水面下の裏事情が透けてみえる。事実、ムラヴィンスキーはこの年の春、間近に迫った海外公演の下準備を兼ねてだろう、レニングラードでこの三曲を何度か指揮している。
ムラヴィンスキーの影武者、といえば聞こえがいいが、アルヴィドはいつも急場凌ぎの便利屋と(少なくともソ連当局からは)認識されていたのではないか。「親爺がまた体調不良で外遊を渋っている。悪いがまた代理で出かけてやってくれ」と。
この宵の演奏は本来ならばBBCアーカイヴに残っているだろうステレオ録音で味わうべきだろうが、それが叶わないので出自の怪しいこのイタリア盤で我慢しよう。恐らくエアチェックだろう、精度のよくないモノーラル録音(「フランチェスカ・ダ・リーミニ」は未収録)なのだが、「眠りの森の美女」が始まった途端、おゝと驚嘆する。ただならぬ覇気と緊迫感に満ちた演奏は1979年のムラヴィンスキーの来日公演を彷彿とさせる(抜粋曲目も全く同一)。レニングラード・フィルの合奏能力を最大限に引き出す天晴れな統率ぶりである。ヤンソンスの手綱はムラヴィンスキーに較べて少し緩やかだから、楽団としてはいつも以上にのびのび自在に演奏できたというところか。
「俺は影武者でも便利屋でもないんだぞ!」というヤンソンスの主張が強烈に迸るのは最後に奏されたショスタコーヴィチだろう。これはちょっと凄い演奏である(録音のよい1970年の大阪ライヴを遙かに上回る)。小生はこの交響曲を大の苦手とし、うまく紹介できる自信がないので、本邦きってのショスタコーヴィチ通である工藤庸介さんの評言をまるごと引かせていただく。
名演。ライヴゆえ、管楽器に瑕がいくつも聴かれたり、録音状態が悪いなどの不満もないわけではないが、それらを全て超越する演奏内容。極めてオーソドックスな解釈で、奇を衒った部分は皆無。それでいてスコアに込められた効果は完璧に表出されている。ムラヴィーンスキイの鉄の統率とは対照的に、徹底的にオーケストラのポテンシャルを引き出すようなヤーンソンスの指揮が素晴らしい。全編に渡って心からの共感に満ちた歌に溢れ、聴きながら素直な興奮を押えることができない。各楽章のキャラクターの把握も抜群。演奏芸術の極致と言って過言ではないだろう。終演後の猛烈な歓声も当然。この作品の理想的な演奏。
永くレニングラード・フィルの指揮者という要職にあった割に、アルヴィド・ヤンソンスのレコード録音は悲しいほど貧弱である。そもそも上に例示した曲目はいずれも彼が自家薬籠中に収めた十八番だった(とりわけ東響で披露した曲目はそうだろう)筈なのに、正規のスタヂオ録音が一切なされていない。天羽健三さん編纂の労作ディスコグラフィを通覧するに、同時代のソ連音楽が多少は残されているものの、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチはごく僅かしかなく、R=コルサコフ、スクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフに至っては皆無である。
ソ連時代のレコード録音がどのような国家的な指針の下になされたのか詳らかでないが、ヤンソンスには碌な機会が巡って来なかったことは明らかだろう。本拠地がソ連録音の中心地モスクワではなくレニングラードだったこと、更にはヤンソンスが生粋のロシア人ではなく、被占領国ラトヴィアの出身だったことが災いしたとも推察されるが、本当の理由はよくわからない。
生前は専ら「ソ連の指揮者」とのみ呼ばれ、ラトヴィアの出自は殆ど顧みられることがなかったが、果たしてヤンソンス自身は内心どう思っていたのだろうか。恐らく心中に複雑な葛藤を抱えていたことと想像する。1952年ムラヴィンスキーに招かれレニングラードへと拠点を移してから、故国ラトヴィアの楽壇との関係は断絶してしまったのか、それとも時たま里帰りしてリガのオーケストラやオペラを指揮する機会はあったのか、なかったのか。そのあたりが実に興味津々なのだが、情報は何ひとつ伝わらない。
最後に聴くのはそのあたりの事情が微かに垣間見えるヤンソンスの遺産である。元来は放送用に収録されたとおぼしき実況録音だが、珍しくもソ連時代メロヂヤ(Мелодия)から正規録音としてLPで発売されたもの。
モーツァルト:
レクイエム
ソプラノ/ルザンナ・リシツィアン
メゾソプラノ/カリーナ・リシツィアン
テノール/ルーベン・リシツィアン
バス/パーベル・リシツィアン
アルヴィド・ヤンソンス指揮
リトアニア国立合唱団
リトアニア放送交響楽団
1976年5月5日、モスクワ、モスクワ放送コンサート・ホール(実況)
Vенеция CDVE 04335 (2008) →アルバム・カヴァー
ラトヴィアの隣国であるリトアニアの合唱団・管弦楽団を、どういう理由からモスクワでアルヴィド・ヤンソンスが指揮することになったのか、そのあたりの事情は全くわからない。しかも曲目はモーツァルトのレクイエムである。同曲にはSP時代ゴロワーノフの録音という先例があるにはあったが、強硬な反宗教政策が実施されたお国柄だから、この録音がLPになったのは滅多にない椿事に違いない。
そもそもソ連ではラフマニノフのロシア聖歌の傑作「晩禱 Всенощное бдѣніе」すらご法度で、スヴェシニコフ指揮の有名なLP(1965録音)も、あくまで輸出用のみでソ連国内には流通しなかった由(英語版アマゾンに拠る)。小生の知る限り、70年代にメロヂヤから出た宗教音楽はこのモーツァルト「レクイエム」のほかはペルゴレージ「スターバト・マーテル」(バルシャイ指揮)位ではなかったろうか。
背後にどんな秘話が潜んでいるにせよ、この「レクイエム」は心の籠もった名演である。なにしろリトアニアの誇る合唱団が素晴らしい。彼らが日頃この楽曲に親炙していたとは時代的にとても考えられないが、危なげのない確信に満ちた歌唱である。ソロイストたちがオペラティックに表情過多なのは致し方なかろう。そしてなにより、ヤンソンスの熱の入れ方が尋常でない。恐らく若き日には日常的に接する機会のあった宗教音楽への已みがたい憧憬がここぞとばかりに炸裂した──そんな想像を禁じ得ない熱烈な指揮ぶりなのだ。テンポ設定がちょっとユニークなのは、彼が他の指揮者の解釈を殆ど知らないことにも起因していよう。
そういえば彼は来日時にも東響の定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏している(1960年12月10日)。その実況録音が陽の目を見る機会はないものか。