1964年の東京オリンピックが近づくにつれ、埼玉の田舎町の小学生の間でも俄かに切手収集ブームが巻き起こり、誰も彼もが新切手を買いに郵便局へ走った。ささやかなコレクション自慢をする者もいて、オリンピックの全競技をあしらった寄附金付き記念切手二十枚セット(
→これ)が注視の的だったりした。
そんな同級生の狂騒ぶりを小生は無感動に眺めていた。口にこそ出さなかったが、心中密かにこう嘯いていた──ふん、今頃やっと気づくなんて遅いや。日本切手に夢中になるのもどうかしてる。発行目的が内向きで独り善がりだし、デザインも垢抜けない、とても世界に通用しない幼稚な代物なんだぞ、と。
なにしろ小生は幼稚園の時分から切手を集めて独り愉しんでいた。よほど高価なものを除いては日本の記念切手はあらかた集め終わってしまい、関心は専ら諸外国の切手、それも各国が誇る文化人をあしらった人物切手へととっくに移行していた。同時期いっぱしの天文少年でもあったところから、ソ連切手に頻りに登場する宇宙飛行士(例えば
→これ)の名を解読する目的で、苦労してキリル文字を自習したのもちょうどその頃だ。
天体や宇宙への憧れは程なく科学史全般への関心にまで広がり、コペルニクス(
→これ)、ガリレオ(
→これ)の昔から、ダーウィン(
→これ)、レントゲン(
→これ)、アインシュタイン(
→これ)まで、古今の科学者を表した切手に心ときめかすようになった。並行して一般向けの科学読み物や科学者の伝記をせっせと読み漁った。もっとも大人向けの書物と背伸びして取り組むのだから、内容をどこまで咀嚼できていたかは心許ない。文章の読解力がまるで足りなかったし、そもそも小学生に進化論や相対性理論の要諦が理解できるわけもなかったのだ。
真理を追求する科学には国境がないはずだが、科学者にはめいめい出自と国籍がある。ガリレオ級の大学者だと世界中どこの国から切手が出ても不思議はないのだが(論より証拠、上のガリレオ切手はソ連製だ)、とはいえ科学者を輩出した当の本国はやはり別格だ。切手を出す必然性においても、その意気込みにおいても、他国の追随を到底許さない。自国が誇りとする偉人を顕彰することが国家的なプライドの表明、すなわち国威宣揚に繋がるからである。
子供心にもその事実をひしひし実感させたのはポーランドの人物切手である。政治的にはいかにも弱小で隣国から頻繁に蹂躙されてきたこの国にとって、誇るべき最大の宝とは国際世界に通用する著名な文化人たちだった。それも端的に云って次の四人──すなわち、天文学者
コペルニクス、詩人
ミツキエヴィチ、作曲家
ショパン、そして物理学者
マリー・キュリー(ポーランド名
マリア・スクウォドフスカ)に集約される(われわれ異国の人間にはミツキエヴィチの名は縁遠いが、愛国の叙事詩人としてポーランド人なら誰もが知る存在である)。この四人が如何に重要な存在かは同国の切手をざっと通覧してみれば直ちに了解される。とにかく幾度となく繰り返し切手に登場しているからだ。
ちょうどその当時(1962~63)、ポーランドから文化人切手シリーズがどっと出たときも、この四大偉人は当然のごとくラインナップに加えられた(
→コペルニクス、
→ミツキエヴィチ、
→ショパン、
→キュリー夫人)。
もう少し遡って戦後まだ間もない頃(1947)、社会主義国家として再出発したばかりのポーランドが発行した「ポーランド文化 Kultura Polska」なる人物シリーズでも、コペルニクスを除く三人が選ばれている(
→ミツキエヴィチ、
→ショパン、
→キュリー夫人、→
全種を収めた小型シート)。老いを刻んだキュリー夫人の厳しい表情に粛然となるが、彼女の歿後わずか十数年で出たポーランド初の「マリア・スクウォドフスカ=キュリー」切手として珍重されるものだ。余談になるが、この「ポーランド文化」シリーズでコペルニクスが選に漏れた理由はわからない。察するに当時の共産党政権はこの天文学者をどう扱うべきか逡巡したのではないか(彼を非ポーランド人とみる向きもあったし、そもそもカトリックの聖職者だ!)。
ところが暫くして(1951)第一回「ポーランド科学者会議」の際に発行された記念切手(
→これら)では、晴れてコペルニクスもキュリー夫人と並んで登場している(他の科学者はスタニスワフ・スタシク、マルツェリ・メンツキ、ジグムント・ヴルブレフスキ、カロル・オルシェフスキ。恥ずかしながら誰も存じ上げない・・・)。
中学三年の秋、少年フィラテリスト(切手収集家)にとって忘れがたい出来事があった。1967年11月7日はマリア・スクウォドフスカの百回目の誕生日にあたっており(奇しくもロシア十月革命五十周年の当日でもあった!)、この日を寿ぐためポーランドは満を持して三枚組の記念切手を発行したのである(
→これら)。いずれも額面は同一(六十グロシュ)で、印面の表記には "100 rocznica urodzin" すなわち「生誕百周年」とある。
図柄は左から順に、キュリー夫人の肖像(1920頃
→元になった写真)、二度受賞したノーベル賞の賞状(
→1911年度の賞状)を模した図案、ワルシャワのラジウム研究所前に建つブロンズ像(1935除幕、Ludwika Nitschowa作
→これ)を描いている。いずれの印面も実に綿密に版刻されており、ポーランド切手が誇る高度な凹版印刷を如実に示す。初めてこれらを目にしたとき、美しさに見惚れ思わず嘆息が出たものだ。あゝこれが日本の切手だったらなあ、と。
同じ年、キュリー夫人の第二の「祖国」フランスからも記念切手が出た(
→これ)。こちらも凹版の版刻技術においてはポーランドに勝るとも劣らぬ巧緻な仕上がりだが、全体に彫りに細かすぎて力を欠くのが難点か。左方に描かれたボウル状の容器と不思議な光芒はどうやら彼女が分離精製したラジウムを表しているらしいが詳細は不明(昔も今も物理は苦手なのだ)。こちらの切手ではキュリー夫人の表情も心なしか神経質で、同じ図像(
→元になった写真)を用いたデザインならば後年フランスが発行した五百フラン紙幣(キュリー夫妻をダブル・ポートレート風に配したもの
→これ)にやはり一日の長があるように思われる。
小生のフィラテリスト歴もいつしか半世紀を超え、細々ながら現在も続いている。今日こうして中学時代に出逢ったポーランド切手の思い出に耽ったのには訳がある。つい最近、キュリー夫人を描いた未知の記念切手(
→これ 特製封筒に貼って記念印を捺した初日カヴァー
→これ)をたまたま入手したからだ。
まるで知らなかったが、2011年は「
世界化学年」だったのだそうだ。国連で決議され、世界中でこの年を祝った由。ただし日本では大震災と原発事故とでそれどころではなかったから小生もまるで気づかなかった。同年がなぜ「化学年」かといえば、キュリー夫人がノーベル化学賞(受賞は二度目。一度目は夫とともに物理学賞)を授かって百年目にあたるのに因んだそうだ。なるほど、この切手の印面にはたしかに "2011 année internationale de la chimie" とある。キュリー夫人がわざわざ登場するのには相応の理由があったのだ。
このフランス切手の図柄になった写真もよく知られている(
→これ)。1910年の撮影というから、ピエール・キュリー亡きあとも気丈に実験に従事する夫人を捉えた一齣である。場所はパリのキュヴィエ通りの研究所の実験室。窓からの外光が神秘的なアウラを醸しだす。手元にある評伝に拠れば彼女が手にしているのは臭化ラジウムの入ったフラスコだそうだが、孫のエレーヌ・ランジュヴァン=ジョリオの言を引くと「これは写真のために取ったポーズ」といい、腕の仕草も視線もどこか「やらせ」っぽい不自然さが付き纏う。とはいえ名高い写真なので、2011年の「世界化学年」にアイコンとして重宝されたらしく、ポーランドやスウェーデンからも同様の図柄を用いた記念切手が発行された(どちらも小型シート。
→ポーランド、
→スウェーデン)。 そういえばだいぶ前(1998)ポルトガルからも同工異曲の図案で記念切手が出ていた(「ラジウム発見百周年」
→これ)。
ところでこのフランス発行の「世界化学年」切手(
→拡大図)を見るにつけ、古典的な凹版の彫琢技術の低下を嘆かずにはいられない。もともと逆光で撮られた写真で、キュリー夫人の顔貌が半暗部に没しているから再現が難しいこともあるが、目鼻だちの描写がいかにも稚拙だし、背景の線刻も単調で煩わしい。
これが戦前のフランスだと、キュリー夫妻が並んで登場する名高い寄附金付き記念切手(「癌制圧国際協力機構」1938
→これ)にみるように、無駄な線が一本もない精確かつ格調高い描写が可能だったのだが。因みに、夫妻がこのように頬を寄せ合って試料を見つめる瞬間を捉えた写真は実在せず、これはどうやら版刻家が独自に創作した図像のようだ(西洋版画の伝統に倣い、欄外下端に「版刻J・ピール J. PIEL, SC.」と記名がある)。この切手の上部に記された「ピエール&マリー・キュリー、ラジウムを発見。1898年11月」の表記は、むしろ論文が正式に発表された「1898年12月26日」とするのが科学史的には正しいだろう。
それにしても精製したラジウムを観察するキュリー夫人の図像が2011年に各国で切手として流通していたとは、なんたる歴史的皮肉であろう。病気がちだった彼女の晩年は、永年に及ぶ放射能被曝の後遺症の結果と推定される。その衣服や研究ノートなど遺品からは今もなお少なからぬ残留放射能が検出されるそうだ。