昨秋たまたま気づいて大慌てでカナダから取り寄せた興味深いCDを紹介しよう。プロコフィエフの自作自演、それも未知の演奏記録──前半に収められたピアノ独奏はこれまで存在すら知られなかった音源──なのだ。恐らくトランスクリプション・ディスク(放送記録用SP)の形で人知れず七十五年も眠り続けてきたものだろう。もしそうだとしたら、これはプロコフィエフ研究史に貴重な知見をもたらす嬉しい新発見といっていいだろう。
"Prokofiev vol. 2: Piano works - selection (1937)
& Romeo and Juliet, suite no. 2"
プロコフィエフ:
■ アンダンテ ~ピアノ・ソナタ 第四番
■「束の間の幻影」より 第三、五、六、七、十一、十、十八、九番
■ プロコフィエフ、子供のための自作を語る
■ 「子供たちのための音楽」作品65 より 第十、十一、十二番
■ 練習曲 作品52-3
■ 悪魔的暗示 作品4-4
ピアノ/セルゲイ・プロコフィエフ1937年1月16日 午後8時~、ニューヨーク、CBSコンサート・ホール(CBS net, WABC「モダン・マスターズ」枠でラヂオ放送)
■ バレエ組曲「ロミオとジュリエット」第二番
セルゲイ・プロコフィエフ指揮
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団1938年、モスクワ
St-Laurent Studio YSL 78-145 (2012)
→アルバム・カヴァーピアニストとしてのプロコフィエフの録音といえば、1920年前後Duo-Art社の自動ピアノ用ロールに刻んだ自作小品(作品11、12、17、31、33、ほかにムソルグスキー、R=コルサコフ、グラズノーフ、スクリャービン、ラフマニノフ、ミャスコフスキーの小品)があるほか、1932年6月ロンドン交響楽団と共演した第三協奏曲、ソ連帰還直前の1935年2~3月パリで吹き込んだ数曲、それに1937年モスクワで収録した室内楽作品「ユダヤ主題による序曲」ピアノ・パートが現存するすべてだと信じられてきた。これらのうち最も重要なパリ録音の詳細を記しておくと、
1935年2月12日/
■ 「束の間の幻影」より 第三、五、六、九、十、十一、十六、十七、十八番
1935年2月25日/
■ 練習曲 作品52-3
■ 風景 作品59-2
■ 年老いた祖母の物語 作品31-2
1935年2月26日/
■ 悪魔的暗示 作品4-4
■ 年老いた祖母の物語 作品31-3
■ 田園風ソナチネ 作品59-3
■ ガヴォット ~交響曲 第一番より
1935年3月4日/
■ アンダンテ ~ピアノ・ソナタ 第四番
■ ガヴォット 作品32-3 *「悪魔的暗示」は3月4日収録ともいう。
となる。煩を厭わず全収録曲を記したのは、今回の「新発見」と称される曲目の多くが1935年のパリ録音と重複しているからである(
下線の曲目)。
手元にあるパリ録音の覆刻CD(Pearl および EMI)でそれらの曲目を拾い聴きして今回の録音と比較すると、どの曲も瓜二つといいたいほどそっくり。両者の収録時期は二年しか違わないので類似は蓋し当然だろう。ただし些細な表情づけやミスタッチをよくよく聴き較べるとやはり別の音源とほぼ断定できよう。
そもそも二つの録音に共通する「束の間の幻影」でも選ばれた曲が異なる。ニューヨークで奏された八曲のうち「第七番」は二年前のパリ録音には含まれなかったのだから、両者が異なる音源であることは自ずと明らかだろう。
しかも1937年のニューヨークでプロコフィエフは(当時としての)最新作「
子供たちのための音楽 Детская музыка」作品35(1935年作曲/1936年4月11日モスクワで初演)抜粋をあえて加えることで、「ソ連の作曲家」たる自らをアピールしようとした。同曲の自作自演は他に存在せず、しかも演奏に先だち作曲家はわざわざ英語で解説までしている(このあとに同じくソ連の子供たちのために書いた「ピーターと狼」作品67も併せて紹介)。明瞭な英語でしゃべるプロコフィエフの声を聴くのはこれが初めてである! この一事だけからも本録音は値千金だ。
1936年春プロコフィエフは最終的にモスクワに居を定めるが、その後も必要に応じて国外で演奏旅行を行う自由をソ連当局から約束されていた(当時のソ連人にとって例外的な特権)。その証拠に彼は1936年末から翌37年初めにかけて大がかりな欧米ツアーを敢行し、ブリュッセルとパリではオーケストラを指揮して自作のみによる演奏会を催している。
彼がこの演奏旅行でアメリカ入りしたのは1937年1月6日。このあとシカゴ、セントルイス、ボストンへと巡演して、独奏者あるいは指揮者として各都市のオーケストラとも共演を果たす(これら三楽団の当時の常任指揮者ストック、ゴルシュマン、クセヴィーツキーはプロコフィエフのよき理解者だった)。
ところがニューヨークはプロコフィエフにとって鬼門だった。大西洋を渡ってこの街に到着したものの、演奏会の予定はひとつもない。ニューヨーク・フィルとの共演どころか、リサイタルひとつ開催されなかったのだ。同地で目下のところ大人気を恣にしているロシア人作曲家といえばストラヴィンスキーであり、同じ37年1月下旬には作曲者自らニューヨーク・フィルを率いて「春の祭典」と「火の鳥」を指揮している。ここでもパリと同様プロコフィエフはストラヴィンスキーの後塵を拝する役回りを演じていた。このたび奇蹟的に発掘された1月16日のラヂオ番組への出演は、彼がこのときのニューヨーク滞在中たった一度の演奏機会だったのである。
(まだ書きかけ)