小生がクラシカル音楽を聴き始めた1967年には故フェレンツ・フリッチャイは過去の存在になりつつあったが、五十三歳の
キリル・コンドラシンはモスクワ・フィルを率いて現役の真っ盛りだった。この年には手兵と初来日も果たしており、小生はダヴィッド・オイストラフと共演するその舞台姿をTVで観た微かな記憶がある。
とはいえコンドラシンの尋常ならざる存在感を肝に銘じたのはもう少し経ってからのこと。たまたまラヂオで耳にしたショスタコーヴィチの第十三交響曲の演奏に文字どおり震撼させられたのがその契機となった。1968年から69年にかけてのことだったと思う。当時その「バビ・ヤール」交響曲は1962年の初演後ほどなくソ連国内では事実上の演奏禁止状態に置かれており、レコード録音も一切なかった。ソ連の最も誇る大作曲家の交響曲最新作が一顧だにされぬという異常事態を誰もが訝しく感じていた。一体全体どうなっているのだ、と。
そこに忽然と現れたのがコンドラシン指揮による世界初録音だった。ただし、いつもの新世界レコードでなくフィリップス(米国ではEverest)から発売されたそのLPは音質が悲しいほど劣悪で、これが恐らくラヂオ放送をエア・チェックした音源から、海賊盤に等しい非公式な手段で制作されたことは誰の耳にも明らかだった。
いかにも怪しげで胡散臭いこのLP盤こそが小生にとって指揮者コンドラシンとの本当の出逢いにほかならないのだが、この話はどうしても長くなるだろうから、いずれ彼の誕生日にでも改めて蒸し返すことにして、今日はこれに劣らず物議を醸した(であろう)コンドラシンのもうひとつ別の録音をまず聴くことにしたい。
"Прокофьев: Кантата к ХХ-летию Октября для двух смешанных
хоров, симфонического и военного оркестров, оркестра
аккордеонов и шумовых инструментов, соч. 74, et al."
プロコフィエフ:
十月革命二十周年カンタータ*
スキタイ組曲「アラとロリー」**
キリル・コンドラシン指揮
モスクワ・フィルハーモニー交響楽団
ユルロフ国立合唱団*1967年*、1974年**、モスクワ
Мелодия MEL CD 10 0098 1 (2005)
→アルバム・カヴァー1935年にソ連帰還を果たしたプロコフィエフは同国随一の作曲家たる地歩を確固とすべく、公的な委嘱作品と精力的に取り組む。ボリショイ劇場から依頼されたバレエ「ロミオとジュリエット」、児童劇場のための「ペーチャと狼」、1937年のプーシキン百年祭に向けての「エヴゲニー・オネーギン」「ボリス・ゴドゥノフ」「スペードの女王」などなど。彼にとってとりわけ重要だったのは1937年11月のロシア革命二十周年を寿ぐ壮大なカンタータの作曲だろう。「
目下のところ私はソ連邦二十周年のためのカンタータに取り組んでいます。[ピアノ] スコアにして百頁を上回ります。幾千という音符また音符ですが、幸いどうやら完成が見えてきました」(1937年8月11日付、ロベール・ソエタンス宛の手紙)。
一口にカンタータと云っても半端でない。大人数の合唱団にフル・オーケストラ、ブラスバンドと打楽器隊とバヤン(露西亜式アコーディオン)アンサンブル、更にはサイレンまで加わるという破天荒な編成である。演奏者総数は五百人! 歌詞にはマルクスとエンゲルス(!)、レーニン(!!)、スターリン(!!!)の論文・演説が用いられるという、掛け値なしのプロパガンダ・ミュージックなのだ。スターリン独裁期の当時ですら、ここまで徹底した筋金入りの煽動音楽は異例である。
プロコフィエフは革命初期から十数年も祖国を留守にし欧米で名を成したという負い目があったから、ここで誰からも後ろ指を指されまいと、非の打ち処ない体制翼賛的な音楽を書こうと意気込んでいたのだろう。このあたりの姿勢は、同様に欧米で永く暮らした藤田嗣治が戦時下で尋常ならざる意欲をもって戦争記録画に取り組んだのと、奇しくもそっくり相似形を描いているように思われる。
ところでプロコフィエフが心血を注ぎ込んだ畢生の(?)「社会主義リアリズム」音楽は肝腎の1937年には一度も演奏されなかった。発注元の全ソ放送委員会は言を左右してこの大作を受理せず、カンタータは演奏の機会を失ったまま永く抽斗に仕舞い込まれてしまう。作曲家の創作力が絶頂にあった時期の作品にも拘わらず、彼の生前には唯の一度も上演されず、出版もなされなかった。
この問題作がやっと陽の目を見て初演されたのは1966年5月5日。作曲から三十年近く後、作曲家が歿してから十三年も経ってからだ。その指揮を担当したのがほかならぬコンドラシンだったのである。このCDで聴かれる演奏は翌67年に同メンバーがスタジオ録音したもので、云うまでもなく世界初録音である。ここまで長々と解説すれば、この演奏の歴史的価値をご了解いただけよう。ただし、全十章からなるカンタータ中「第八章」「第十章」には歌詞にスターリンの言葉が用いられた関係で上演に差し障りがあるため両者はまるごと割愛され、後者(終曲)ではやむなく「第二章」がそのまま繰り返されるという苦肉の策が採られた。
そういう次第で、スターリン時代の亡霊が蘇るような禍々しい聴取体験ではあるものの、プロコフィエフの意気込みと書法の練達は疑いなく、革命を描写した部分など、「アレクサンドル・ネフスキー」すら上回る熾烈な瞬間が随所にある。コンドラシンが如何なる経緯から初演と初録音を委ねられたのか(ロジェストヴェンスキーでなく、なぜ彼だったのか?)は詳らかでないが、この大任を彼は誠実かつ真摯に受け止め、プロコフィエフの意図を汲んで壮麗な音の絵巻に仕上げた。ちょっと震えがくるような凄い演奏なのだ。プロコフィエフ愛好家なら必携の音源であろう。
初出LPでは裏面に同種のプロパガンダ音楽たるショスタコーヴィチのカンタータ「わが祖国に太陽は輝く」が収録されていたと記憶するが、本CDではスキタイ組曲「アラとロリー」がフィルアップされる。云うまでもなく若きプロコフィエフのアヴァンギャルド期の出世作である。コンドラシンの計り知れぬ力量を実感するには、むしろこちらを聴いてもらうのが早道かもしれない。強靭そのものの推進力で邁進する激しい音楽だが、そこには細部を冷静にコントロールする知的なバランス感覚が伴っており、従来のロシア型の大仰な熱演スタイルとははっきり一線を劃している。彼が欧米各地でも早くから実力者と目されたゆえんだろう。
「スキタイ組曲」でこれほどの秀演を聴かせたコンドラシン&モスクワ・フィルに、数多くある協奏曲伴奏を除くとプロコフィエフの交響作品をスタジオ録音する機会が巡ってこなかったのは残念、というよりも理不尽な気すらする。実演では頻繁に取り上げていた「第一」「第三」「第五」の交響曲や、「キジェー中尉」組曲の正規録音が残されなかったのは返す返すも悔やまれる。「アレクサンドル・ネフスキー」や「イワン雷帝」のような声楽入りの大曲も聴いてみたかった。
"Kirill Kondrashin in concert with
the Moscow Philharmonic Orchestra"
プロコフィエフ:
交響曲 第一番*
リスト:
ピアノ協奏曲 第二番**
ボリス・チャイコフスキー:
主題と八つの変奏曲***
プロコフィエフ:
スキタイ組曲「アラとロリー」****
キリル・コンドラシン指揮
モスクワ・フィルハーモニー交響楽団
ピアノ/ヤコフ・フリエール**
1966年4月5日*、1973年12月27日** ****、1978年11月5日***、
モスクワ(実況)
Globe GLO 6006 (1991)
→アルバム・カヴァーコンドラシンのモスクワ・フィル時代の実況録音は殆ど世に出ていない。このCDは彼の長男でモスクワの「メロジヤ」社の録音技師だったピョートル・コンドラシンが(恐らく私的に)収録・保管していた明瞭なステレオ・ライヴである(同種のアルバムがこのオランダのレーベルから三枚出た)。三つの演奏会から選り抜かれた四つの演奏と接することで、モスクワの聴衆が日常的に味わっていたスリリングな緊迫感を少しでも追体験できるのは幸いである。
実演故の傷も散見されるが、とりわけ構えが大きく疾走感に満ちた「古典交響曲」と、スタジオ録音を凌ぐ熱気を帯びた「スキタイ組曲」とが出色の名演奏。因みにボリス・チャイコフスキーの演奏は秘かに西側亡命を決意した彼がモスクワで最後に催した演奏会からのライヴである(翌月の1978年12月、アムステルダム客演時に亡命)。このディスクは国外の知己の手を経て最晩年のチャイコフスキーの手許に届けられ、作曲家をいたく感動させたと伝えられる(
→その典拠)。
"Kirill Kondrashin in concert with
the Moscow Philharmonic Orchestra"
チャイコフスキー:
バレエ音楽「胡桃割り人形」第一幕(抜粋)
■行進曲~子供たちのギャロップと両親の登場~情景と祖父の踊り~情景、賓客の退場、夜~情景、戦闘~松林~雪の円舞曲
交響曲 第六番
キリル・コンドラシン指揮
モスクワ・フィルハーモニー交響楽団1978年3月29日、モスクワ(実況)
Globe GLO 6009 (1992)
→アルバム・カヴァー子息ピョートル・コンドラシン収録によるモスクワ実況シリーズをもう一枚。これはたしか前にもレヴューした憶えがあるが(
→キリル・コンドラシンの栄光と悲劇)、コンドラシン畢生の演奏の名に値する際立って感動的なライヴである。旧稿から該当箇所を抜粋しておこう。探し出してでも聴くに値する必聴盤というべし。
今こうして聴いているチャイコフスキーは、亡命の僅か九箇月前の1978年3月、モスクワでの演奏会の生々しい実況。録音エンジニアだった息子ピョートルが私的に保存していたものという。只ならぬ緊迫感に貫かれた途轍もない演奏である。『胡桃割り人形』はムラヴィンスキーの実演と双璧というべき壮絶さだし、悲愴交響曲の悲劇性の深さは尋常でない。このとき既に亡命を決意していたであろうコンドラシンの心中は如何ばかりだったろうか。
"Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunk:
Kirill Kondrashin"
リムスキー=コルサコフ: 序曲「ロシアの復活祭」
フランク: 交響曲
キリル・コンドラシン指揮
バイエルン放送交響楽団1980年2月7、8日、ミュンヘン、ヘルクレスザール(実況)
BR Klassik 900704 (2009)
→アルバム・カヴァー続けて西側亡命後の実況録音も少しだけ聴こうか。
バイエルン放送交響楽団の創立六十周年を祝する箱物に含まれた一枚。歴代の常任指揮者たち(オイゲン・ヨーフム、ラファエル・クベリーク、コリン・デイヴィス、ロリン・マゼル、マリス・ヤンソンス)に伍してコンドラシンの実況録音が含まれたのは、クベリークの後任に内定しながら心臓発作で急逝した彼を追慕し、その功績を讃える気持ちからであろう。
リムスキー=コルサコフの賑々しい序曲のあとに重厚荘重なフランクの交響曲を聴くのはなんだか奇妙だし、続けて聴き通すのは甚だ居心地の悪い体験だ。どうしてこうなったかと云えば理由は簡単、これらはもともと同日の定期演奏会に含まれた二作であり、しかも間にもう一曲が挟まっていたからだ。すなわち、
リムスキー=コルサコフ: 序曲「ロシアの復活祭」
チャイコフスキー: ピアノ協奏曲 第一番
**休憩**
フランク: 交響曲とこうなる。なるほどこの三曲ならば一晩の演目として合点がいく。収まりもまずまず悪くなかろう。・・・とここまで勿体ぶって書いたが、もう隠すこともあるまい、この二曲目のチャイコフスキーこそは当夜の最大の聴きものだった「世紀の競演」──マルタ・アルヘリッチと火花を散らす一期一会の共演だったのである。この録音は単独でPhilipsから発売されてLP時代から夙に名高いものだ(
→これ)。亡命前のコンドラシンがモスクワでアルヘリッチと共演したことがあったのかどうか、ほかに両者が一緒に演奏する機会があったのか否かなど、周辺の状況には詳らかでないことばかりなのだが、この一触即発のスリリングな感興に溢れ、途轍もない高みに達した奇蹟的な名演を知らぬ者はいないだろう。
その演奏会で昂奮冷めやらぬまま休憩後に奏されたフランクもまた重厚な名演奏であり、実はこちらもLPとしてPhilipsから出たことがあったのだが(
→これ)、どういう訳だかCD時代には永く等閑視されてきた。だから近年やっとバイエルン放送協会が保存音源による覆刻を行ったのは実に慶賀なことだ。改めて聴いてみると、このフランクはかなり独特な演奏で(ロシアの指揮者が南ドイツの楽団を振ったのだから当然か)、金管がちょっと露西亜音楽みたいに野放図に響く瞬間もあるのがご愛嬌なのだが、熱の籠もった真摯でユニークなフランクとして一聴に値することは間違いない。こういう曲でコンドラシンの芸風を味わうことは彼のヴァーサタイルな才能を知る近道でもあろう。円熟の極みに合ったこの人に、あと一年きっかりの余命しか残されていなかったなんて、運命は非情というほかない。
《伝説のN響ライヴ/コンドラシン・N響》
プロコフィエフ:
組曲「キジェー中尉」*
交響曲 第五番**
キリル・コンドラシン指揮
NHK交響楽団1980年1月25日*、1月30日**、東京、NHKホール(実況)
キングレコード NHK CD KICC 3017 (2001)
→アルバム・カヴァー
コンドラシンが単身で来日した唯一の機会を捉えた貴重な実況記録である。録音データを書き写していて驚愕した。1980年1月──ということは、これら一連の演奏会は上述したミュンヘン・ライヴの直前なのである。あの歴史的なアルヘリッチとの共演の一週間前まで彼は東京に滞在していたのだ!
記録を繙くと、コンドラシンの来日公演の詳細は以下のとおり。
1980年
■ 1月15日 横浜、神奈川県民ホール
ムソルグスキー(R=コルサコフ編):「ホヴァンシチナ」前奏曲
ラフマニノフ: ピアノ協奏曲 第三番 (独奏/中村紘子)
ブラームス: 交響曲 第四番
■ 1月16&17日 東京、NHKホール
リャードフ: 交響詩「魔の湖」
ラフマニノフ: ピアノ協奏曲 第三番 (独奏/中村紘子)
ブラームス: 交響曲 第四番
■ 1月25&26日 東京、NHKホール
プロコフィエフ: 組曲「キジェー中尉」
ショスタコーヴィチ: バレエ組曲「ボルト」より 第一~第五、第八曲
チャイコフスキー: 交響曲 第一番「冬の白昼夢」
■ 1月30&31日 東京、NHKホール
ドヴォジャーク: スラヴ舞曲 作品46 より 第三、第八番
バルトーク: ピアノ協奏曲 第三番 (独奏/クリスティナ・オルティス)
プロコフィエフ: 交響曲 第五番幸いなことに東京での三プログラムはすべてNHKにより収録され、そのうち
下線の曲目がCDで聴ける。とりわけプロコフィエフの二曲は他に正規録音がなされておらず、このN響との実況はコンドラシン愛好家にとって垂涎の的となりうるものだ(ロンドンのプロコフィエフ・アーカイヴが収蔵する数少ない日本録音)。
・・・とさんざん期待を煽っておいてなんだが、この東京ライヴにはガッカリさせられる。正攻法できびきび進められる「キジェー中尉」ではN響奏者のあまりの下手糞さに聴き続けるのが苦痛である。ただ技術的に劣るだけならともかく、滲み出るべきウィットやフモールが皆無なので、この曲に必須である愉悦感が感じられない。厳しい指揮者を前に委縮したのか、音楽する歓びを欠いた、どこにも面白味のない演奏に終始する。コンドラシンもさぞかし失望したことだろう。
それに較べれば第五交響曲は余程ましだ。コンドラシンがこの曲でやりたい峻厳で生真面目な音楽は、曲がりなりにも演奏の端々に聴き取れる。これをアムステルダムやミュンヘンのオーケストラの演奏に「脳内変換」してやれば、稀代の名演を想像することも不可能でない。ただしクラリネットもオーボエもソロになると途端にボロが出るし、金管アンサンブルもひどく弱体。こんなにも駄目だったんだと溜息が出る。終楽章ではプロにはあるまじき致命的な脱落箇所もあって耳を覆う。晩年のコンドラシンが欧米の楽団に客演してプロコフィエフを指揮した実況録音(どこかにきっと残っている筈だ)をいつか耳にしたいものだ。