ワーグナーとヴェルディの生誕二百年、ベンジャミン・ブリテンの生誕百年、更にプーランクとヒンデミットの歿後五十年にあたっていた2013年と較べると、今年はクラシカル音楽好きにはちょっと寂しい年だ。
ラモーとルクレール(歿後二百五十年)、グルックとC・P・E・バッハ(生誕三百年)は小生にとっては遙か彼方の遠い存在だし、マイヤーベーア(歿後百五十年)やリャードフ(歿後百年)やグレチャニノフ(生誕百五十年)はいかにもマイナーだろう。リヒャルト・シュトラウス(生誕百五十年)だけがひとり気を吐いている。
そのせいなのか、昨年はベンジャミン・ブリテン百年祭で湧いた英国BBCも、今年は一転して "Music on the Brink" と題して百年前、すなわち1914年という年(と当時の音楽状況)をフィーチャーしたラヂオ番組を続けざまに放送している。
この歳になってもまだ未知の英単語に出くわす。"brink" とはなんぞや? 家人に尋ねると、そんな単語も知らないのかと揶揄された。
慌てて手許の電子辞書を繙くと、
1. 《文》[the~] (絶壁・崖などの危険な)縁、端《◆edgeより堅い語》
2. (破滅の)瀬戸際(verge)
とある。なるほどなあ、と深く頷く。1914年といえば19世紀に端を発する西欧都市文明がほの暗い世紀末を経過して爛熟を極めていた、ひとつの時代の終わりに位置している。そしてこの年の初夏、一発の銃弾を契機として全世界を巻き込む未曾有の戦乱が勃発する。ヨーロッパ社会全体がまさに一触即発の危機を孕みながら、「破滅の瀬戸際に on the Brink」差し掛かった時代なのだ。
音楽に話題を限っても、19世紀を継承した後期ロマン派が最後の煌めき(レーガー、シュトラウス、ツェムリンスキー、エルガー)をみせる一方、革新者のドビュッシー、ラヴェル、スクリャービン、ストラヴィンスキー、シェーンベルクは20世紀の進むべき道を指し示しつつあった。ベルリンにはブゾーニ、ローマにはレスピーギ、ロンドンにはヴォーン・ウィリアムズ、ヘルシンキ郊外にはシベリウス、ブダペストにはバルトークとコダーイ、ペテルブルグにはプロコフィエフ、ニューヨークには(人知れず)アイヴズがいて、誰にも真似のできない個性的な音楽を紡いでいた。
BBC Radio3では一連の番組「瀬戸際の音楽」を編むうえで、昨年に刊行され話題になった豪州出身の歴史家チャールズ・エマーソン Charles Emmerson の著作を下敷きにしているらしい。その証拠に、毎朝九時からの「エッセンシャル・クラシック」の時間帯では連日そのエマーソン氏をゲストに迎え、ウィーン、パリ、ベルリン、ペテルブルグ、ロンドンと、都市別にその時代背景を語らせている。
小生のヒアリング能力では限界があるのだが、為になる面白い話が満載で興味が尽きない。政治史・社会史・芸術史を自在に横断する試みといえようか。ひどく心惹かれたので、そのエマーソン氏の著作をアマゾンで註文してみた。すると翌日にはもう届くという便利な時代なのだ。
Charles Emmerson.
1913: In Search of the World before the Great War
New York: Public Affairs
2013
本文と註・文献リストを併せると五百頁を超える大著なので、手に取るとズシリ持ち重りして流石にちょっと怯む。内容は実に興味津々、1913年という一年を切り口に、世界中の都市を共時的・横断的に叙述するという形式である。
章立ても都市別になっており、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマ、ウィーン、ペテルブルグ、ワシントンDC、ニューヨーク、デトロイト、ロサンゼルス、メキシコ・シティ、ウィニペグとメルボルン、アルジェ、ボンベイとダーバン、テヘラン、エルサレム、コンスタンティノープル、果ては北京、上海、東京(!)にまで及ぶ。
章ごと、都市ごとにひとつずつゆっくり読み進めていくのが年始の愉しみだ。