年明け早々にポール・サイモンとの只一回の接近遭遇の思い出やら、1966年のわがポップス狂いの顛末を話題にしたのには訳がある。
昨年末ふと立ち寄った近所の書店で家人がNHKの語学テクストを物色していた折り、小生は偶然その傍らで面白そうなラヂオ番組の副読本を見つけたのだ。
飯野友幸
サイモン&ガーファンクルの歌を読む
NHKカルチャーラジオ 詩歌を楽しむ
2013年10月~12月
NHK出版
標題が「サイモン&ガーファンクルの歌を聴く」ではなしに「~読む」となっているところが本書のミソである。すなわち、彼らのヒット曲の歌詞に着目して、それぞれのソングを逐語的に和訳するばかりか、そこに内包される文学的・文化的・歴史的な意味まで読み解こうとする、懇切で意欲的な企てなのだ。
ここで採り上げられる歌は、永く親しまれてきた彼らの大ヒット曲、つまり誰もが知る「サウンド・オブ・サイレンス」「アイ・アム・ア・ロック」「冬の散歩道」「スカボロー・フェア」「ミセス・ロビンソン」「アメリカ」「明日に架ける橋」「コンドルは飛んで行く」「ボクサー」などなど。
ラジオ第二での放送(全十二回)は旧年中に終了してしまったものの、幸いにも年始に纏めて再放送されたものだから、小生はその大半を実際に音として聴くことができた。ただし、番組で講師が語る解説部分の全文がほぼ完全な形で本書に収録されているから、番組とは切り離した単著としても味読に値する。
講師の飯野友幸さんはリロイ・ジョーンズ『ブルース・ピープル』の訳者として夙に名高く、ポール・オースターやジョン・アッシュベリーの詩集の翻訳もある。小生にとってはとりわけ、ホイットマン『草の葉』の胸のすくように清冽な新訳者として親しい(紹介記事は →ポーマノックの浜辺から →Sea Drift または海の彷徨)。
サイモン&ガーファンクルの歌詞を現代詩の観点から、更にはアメリカ文学史の系譜に位置づけて論ずるのに最適の人選であろう。
いや~驚いたのなんの、一読して目から鱗が何枚も剥がれ落ちた思いがしましたねえ。前のエントリーで告白したように、小生は中学時代の1966年から67年にかけて一連のサイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」「アイ・アム・ア・ロック」「冬の散歩道」と遭遇して、それらの珠玉の美しさに心震わせはしたものの、歌詞は皆目わからず、そもそもまるで眼中になかった──そう自覚はしていたものの、半世紀近く経って飯野さんの解説を読むにつけ、「あゝ、本当に何ひとつ聴いてはいなかったのだなあ」と深く恥じ入った次第である。
第一講で採り上げられるのは「アイ・アム・ア・ロック」。小生が1966年に聴いたS&G二つ目のヒット曲である。その冒頭の一連を引くと、
A winter's day
In a deep and dark December;
I am alone.
Gazing from my window to the streets below
On a freshly fallen silent shroud of snow.
I am a rock,
I am an island.
実にわかりやすい導入だ。誰にでも理解できる平易な言葉と言い回しとで、「私」の今おかれている場所と環境が手際よく視覚的に描写される。これなら中学の英語の教科書に載せてもいい位だ。
十二月のある日、「私は孤独だ」と呟く男がひとり、通りに面した窓から街路を見下ろしている。「深くて暗い十二月」「降りたての雪の物言わぬ覆い」という詩的な描写がそれぞれ "d" と "s" の頭韻を踏んでなされているのも見逃せない。そしていきなり厳かな断定が下される、「私は岩だ」「私は島なのだ」と。
飯野さんはここで「AはBのようだ」という直喩(シミリ)ではなしに、強引に「AはBだ」と言い切ってしまう隠喩(メタファー)が用いられることに注目し、こうすることで「比喩の効果に驚きと強烈さが加わる」という。20世紀初頭、エズラ・パウンドは「一瞬のうちに知的・感情的複合物を示すもの」としての「イメージ」を重視し、詩がストレートに視覚に訴えるべきだと喝破したが、このポール・サイモンの若書きはその直系の末裔であるらしいのである。
そればかりでない。飯野さんは自分を岩石に、更には島に擬える「アイ・アム・ア・ロック」の詩的表現には、17世紀英国の異才詩人ジョン・ダンの『祈禱集』からの有名な一節、すなわち
No man in an island,
Entire of itself.
Each is a piece of the continent,
A part of the main.
を連想させずにはおかぬとしたうえで、「ポール・サイモンは人と人との繋がりを強調するかのようなジョン・ダンの詩をひっくりかえして、『ぼくは島だよ』と言い切ってしまう」のだ、と鋭い指摘をしている。そうだ、きっとそうに違いない。
第二講では遡って最初のヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」が俎上に載る。ただし、単刀直入な「アイ・アム・ア・ロック」に較べ、詞の言葉は単純でも複雑な味わいをもつ。そもそも題名からして「沈黙の音」というのだから一筋縄でいかない。
Hello darkness, my old friend,
I've come to talk with you again,
Because a vision softly creeping,
Left its seeds while I was sleeping,
And the vision that was planted in my brain,
Still remains
Within the Sound of Silence.
「やあ暗闇君、わが旧友よ/また話をしに来た/というのも、幻影がそっと忍び寄り/寝ている間に種を落としていったからさ/その幻影は脳裏に根を下ろし/今もそこにいる/沈黙の音のしじまに」──孤独な青年(恐らくそうだろう)がひとり暗闇と対話する。彼の脳にひとつのヴィジョンが宿り、「沈黙の音」のなかに今も残像として留まっている──そんな意味だろうか。簡単な英語なのに難しい。
視覚的な幻影(ヴィジョン)が脳裏の「沈黙の音」なる聴覚的な場所に宿るというのはなんだか奇妙な現象だし、そもそも「沈黙の音」そのものが摩訶不思議な表現である。これでは英語を学び始めたばかりの中学生には容易に理解できかねる。この詞はポール・サイモン最初期の若書きなので、独りよがりで生硬な修辞が入り混じってしまったのだろう。
だが飯野さんに云わせればそれこそが「撞着語法 oxymoron」なる文学的手法であり、「現実にはありえなくても、詩的には許されて、常套的な表現を破り、新鮮な発想を生むような修辞的技巧なのである」。なるほど、これは初老の人間にもなかなか了解しづらい高度な詩的表現なのだ。
次の連で主人公は寒々しい石畳の通りを歩いていて突如ネオンサインの眩い光を目にする。その閃光は闇を切り裂いて、彼の内部にある「沈黙の音」にまで到達する。そのとき彼が目にした光景(これも幻影か)を描くのが続く第三連だ。
And in the naked light I saw
Ten thousand people, maybe more,
People talking without speaking,
People hearing without listening,
People writing songs that voices never share
And no one dare
Disturb the Sound of Silence.
ネオンの眩い光とはつまり現代都市の喧騒の象徴である。照らし出されたのは幾千万の群衆。目に映ったのは烏合の衆が騒々しく犇めくバベルの塔さながらの光景だった。第三、第四行は「言葉を口にしても会話にならず、聞いているだけで真剣に耳を傾けない」程度の意味だろう。「連中がつくる歌ときたら、口々にてんでんばらばら」とは同時代のアメリカン・ポップスに対する辛辣な揶揄なのか。ところがそうした喧騒は「沈黙の音」を掻き乱すことはない、というのである。
ここから先の詞は独善的な選民意識が先走って些か鼻白む。語り手は群衆に「愚か者ども fools」と呼びかけ、「君たちを教え導く僕の言葉を聞け」と叫ぶ(第四連)。だが人々は依然として「ネオンの神」に頭を垂れて祈るばかり(第五連)。するとそのとき世にも不可思議な光景が繰り広げられる。
And the sign flashed out its warning,
In the words that it was forming.
And the sign said,
"The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."
And whisper'd in the Sound of Silence.
ネオンサインの文字は啓示の言葉へと姿を変え、「預言者の言葉は地下道の壁や安アパートの廊下に記されている」と神託を告げる。そして、その声は「沈黙の音」となって囁くというのである。ポール・サイモンがユダヤの出自をもつことを考え併せるならば、この一節の宗教的な含意は明らかだろう。彼はどうやら自らを旧約聖書の預言者に擬えており、脳内に宿った「沈黙の音」とは神の声を傍受するための受信装置だったのである!
飯野さんは更に続けて、ここで言及される「壁の文字」とは旧訳聖書「ダニエル書」にある有名なベルシャザル王の宴(→これ)へのアリュージョンではないかと指摘する。バビロニア王宮での大宴会のさなか壁に不思議な文字が出現し、神官長ダニエルは「あなたに王の資格がないと告げている」と読み解く。その晩のうちにベルシャザル王は殺害された・・・。「これにならえば、現代文明の発展によっておごり、真の神の存在を忘れた人間への警告として、この聖書の一節が歌の背景になっていることは十分に考えられる」。
もしそうだとするならば、2011年9月11日の追悼式典でポール・サイモン翁が現場で呟くように独演した「サウンド・オブ・サイレンス」(→これ)も実に意味深長に聴こえてくるのだが、そのことには今は深入りすまい。
こんなふうに本書の内容を紹介していったら、それこそキリがない。あとは実物を手に取って精読するに限る。蒙を啓くような鋭い指摘がどの章にも満載だし、そもそも小生はS&Gの歌の中味について、何ひとつ知っちゃいなかったのだ。
飯野さんはほかにもポール・サイモンの詩句にエミリー・ディキンソンやロバート・フロストからの影響が如実に現れる実例をいくつも挙げ、「明日に架ける橋」ではハート・クレインを筆頭とするアメリカ詩における「橋」のイメージの伝承に言及し、「スカボロー・フェア」ではバラッドの伝統に触れつつ謎めいた民謡を鮮やかに解きほぐし、そこにポールが絡ませた反戦的な「詠唱 Canticle」の重要性を指摘するなど、読者の目からは鱗が落ちっぱなしになる。サイモン&ガーファンクルの歌に思い出をもつあらゆる者にとって必読の一書であろう。