いやはや参った、しつこい喉風邪にやられて三日間も臥せっている。医者に診て貰ったほかは外出もせず、大人しく布団のなかで読書三昧そして音楽。いろいろ聴いたなかでディーリアスが矢鱈と胸に沁みるのは心身が弱っているからか。傷つき疲れた者の魂を慰撫するような音楽だものね。
"Frederick Delius: Orchestral music arranged for two pianos vol.1"
ディーリアス:
舞踊狂詩曲 第一番 (パーシー・グレインジャー編)
春に郭公の初音を聴いて (Rudolf Schmidt-Wunstorf編)*
ブリッグ・フェア (フィリップ・ヘスルタイン編)
生と愛の詩 (バルフォア・ガーディナー&エリック・フェンビー編)*
夏の歌 (エリック・フェンビー編)*
ラ・カリンダ (ジョーン・トリンブル編)*
二台ピアノ/
パーナッシアス・ピアノ・デュオ(サイモン・キャラハン&竹ノ内博明)2011年4月21、22日、バーミンガム音楽院、エイドリアン・ボールト・ホール
Somm SOMMCD 0112 (2012)
→アルバム・カヴァーディーリアスの管弦楽曲をピアノ用に編曲したディスクといえば、わが小川典子嬢がキャスリン・ストット嬢と組んだ連弾アルバム(
→そのレヴュー)がディーリアンの間では人口に膾炙していようが、今日ここで聴くのは連弾ではなく、すべて二台ピアノ用の編曲である。小川=ストット盤がピーター・ウォーロック(=フィリップ・ヘスルタイン)編曲ばかり集めていたのに対し、こちらの盤では上に記したとおり編曲者はいろいろ。なかにはディーリアス自身の目の届かぬところでなされた編曲もあるかもしれないが、稀少な譜面をこれだけ探し出してきた演奏家の労を多としたい。当然ながら大半が世界初録音である(*印を附したもの。「ブリッグ・フェア」にはグレインジャーらが記録した自動ピアノ用ロールがある)。
とはいうものの、普段さんざん聴き馴染んだ楽曲もピアノで奏でられると趣が一新される。ディーリアスならではの陰影に富んだ精妙な和声や果てしない転調のさまを味わうにはピアノ演奏のほうが好都合という面があるし、そもそも作曲家が自邸の音楽室で日常的に耳にしたのは間違いなくピアノ版なのだから、これはこれでオーセンティックなディーリアスということもできそうだ。そういえばケン・ラッセル監督の伝記映画《夏の歌 Song of Summer》(1968)のなかで、作曲助手エリック・フェンビーが来訪者パーシー・グレインジャーと一緒に、ディーリアスのため「高き丘の歌」(だったと思う)を二台ピアノで弾いて聴かせる場面があったっけ。
本アルバムの白眉は「
生と愛の詩 Poem of Life and Love」と、その改訂新版である「
夏の歌 A Song of Summer」とが続けざまに聴けるところだろう。上述の映画《夏の歌》は、未定稿のまま放置された前者をディーリアスがフェンビーの献身的な助力を得て後者の形に仕上げるまでを描いていたから、こうして二作を比較できるのは小生のような古くからのディーリアンにとって望外の歓びなのだ。そもそも「生と愛の詩」がこうして聴けること自体が積年の夢の実現である。煩を厭わずに旧稿から引くと、
前にも書いたが、この「生と愛の詩」(1918)こそ、やがて「夏の歌」(1931)として結実することになる音楽の原型となったものだ。ディーリアス邸に同居した助手エリック・フェンビーが献身的な努力の末、口述筆記で一音ずつ書き取り完成させた最初の作品「夏の歌」の、いわば「出来の悪い初期形」なのである。
結局この「生と愛の詩」はディーリアスがフェンビーの意見を容れて、「この草稿から良い部分だけを抜き出し」、それをフェンビー自身が新たに組み立て直す形で再構成され、一音一音を口述筆記するという途方もなく困難な協働作業の成果を経て「夏の歌」として美しく蘇ることになる。それからというもの、旧稿の「生と愛の詩」は二度と顧みられることなく、草稿の所在すら明らかにされないままに数十年の時が虚しく経過した。
初めてケン・ラッセルの映画を目にした1970年以来(そして数年後フェンビーの回想録『私の知ったディーリアス』を読んでからはなおのこと)小生はこの「生と愛の詩」の行方がずっと気にかかっていた。それは本当にフェンビーの云うように「学生か誰かがディーリアスの作風を真似て書いたような代物」だったのだろうか、一度この耳で確かめてみたいものだと密かに希い続けてきた。幾分かは怖いもの見たさの気持ちもあったかと思う。
改めて聴いてみると、この「生と愛の詩」は確かにフェンビーの評したように「学生か誰か」がでっち上げた紛い物にしか思えない。冒頭の主題とその展開は確かにそう云われても仕方の無い混濁ぶり。ところが三分程経つと、いきなりフルートに聴き憶えのある音型が出て、そこから暫くは「夏の歌」そっくりの展開になる。ディーリアスが「ヒースの繁る崖から海を見わたしている光景を想像してご覧。弦の高域の持続和音は澄んだ空とその場の静寂を表す…。フルートは舞い飛ぶ鷗の姿だよ」とフェンビーに説明した部分の音楽だ。ただしそれも二分間ほどしか続かず、再び霊感を欠いた凡庸なスコアに戻ってしまい、終結部の三分半ほどでやっと清澄さを回復した音楽は「夏の歌」のフィナーレとほぼ同一の展開とオーケストレーションで曲を荘厳に締め括る。
要するにフェンビーはこの十七分強の交響詩から、彼の耳が「使える」と判断した二部分(総計五分半ほど)を抽出して、ディーリアスの意向を汲みつつ、それらを発展的に再構成し、演奏時間約十分の音楽、すなわち「夏の歌」を新たに紡ぎ出したのだ。その過程がそれこそ手に取るようにわかる聴取体験なのである。以上は数年前に出たオーケストラ版「生と愛の詩」初録音を耳にしての感想文だが、今回ピアノ版で両者を聴き比べての印象も殆どこれと変わらない。
もともと管弦楽の音色を顧慮して書かれた音楽だから、ピアノで奏するとエヴォカティヴな感興が今ひとつ湧かない憾みはあるものの、二人の奏者の息がぴたりと合って、些かも弛緩するところのない緻密さには舌を巻く。上述の小川=ストット組に勝るとも劣らぬ秀逸なデュオに違いあるまい。ライナーノーツとHPを参照しつつ、ご両人について略記しておく。
竹ノ内博明は渡英して十五年以上、英日の現代音楽を手広くレパートリーにするほか、ヒューバート・パリーや作家ボリス・パステルナーク(!)の忘れられたピアノ曲を取り上げるなど、旺盛な好奇心と果敢な実行力を併せ持つピアニストとおぼしい。一方、
サイモン・キャラハン Simon Callaghan は生粋の英国人。彼もまた竹ノ内に勝るとも劣らぬヴァーサタイルな才能の持ち主らしく、二人で結成した「パルナッシアス・ピアノ・デュオ Parnassius Piano Duo」でディーリアス、パリー、スターンデイル・ベネットらの埋もれたピアノ二重奏曲を発掘蘇演するほか、メトネルの協奏曲の演奏にも積極的だ。そういえばキャラハンはヴァイオリニスト小町碧さんの英国における共演者でもあり、来春発売されるというディーリアス・アルバムでも彼女の伴奏を務めている由。
そんな訳で、これはディーリアス記念年(2012)を寿いだCD新録音のうちでも独自性において際立ち、世のディーリアンが須らく架蔵すべきアルバムと推奨される。アルバム・カヴァーが安っぽいのは大目に見よう。この続篇たる「第二集」(「パリ──大都会の歌」「お伽噺──昔あるとき」「高き丘の歌」ほか)もつい最近出たようなので、これも手に入り次第いずれ紹介したい。