もう半世紀以上も前になるのだが、子供時代の音楽環境はまるでお話にならない貧しさだった。ラヂオとTVから聴こえてくる流行歌を除いては家庭内に音楽は皆無だった。そこに小型の電蓄が加わったのは小学三年の頃だろうか。きっかけは父がまだ返還前の沖縄に出張し、琉球民謡のレコードを何枚か土産に持ち帰ったこととおぼしい。それらを耳にする手段を、というところから手軽なポータブルの再生装置を常備したのだと思う。
ターンテーブルは小さく、ドーナツ盤と十インチ盤(直径二十五センチ)専用だったから通常のLP(直径三十センチ)ははみ出してしまって再生できない。なんとも情けない装置だったのだが、それでも近所の友達から貰い受けた英米ヒット曲のシングル盤を繰り返し聴いては歌詞を(カタカナで)口ずさんだ。
どういう経緯だったのか今となっては不明だが、ほんの僅かながらクラシカル音楽のドーナツ盤があったのは、子供の情操教育のため父が気紛れに買って帰ったものなのか。いずれにせよ、これこそ現在に至る鑑賞趣味の原点となったものだ。何度もの引っ越しや廃棄の危機を免れて奇蹟的に今なお手許に残る。
《改訂小学校学校指導要領音楽準拠
音楽鑑賞レコード 第1集 第5学年》
チャイコフスキー:
組曲「くるみ割り人形」
A面)
第1部「小序曲」
第2部「舞曲」
1. 行進曲
2. こんぺい糖の踊り
B面)
3. トレパックの踊り
4. アラビアの踊り
5. 中国の踊り
6. あし笛の踊り
ユージン・オーマンディ指揮
フィラデルフィア管弦楽団
コロムビアレコード EE-107 (1959, 45rpm, Extended Play)
小学校の教材として学年別にいろいろ出ていたシリーズのうち、何故かこの一枚だけポツンと架蔵していたのは偶然の僥倖だった。それが西洋音楽への扉を開いてくれたのだから、選んでくれた亡父には遅蒔きながら感謝するほかない。
四十五回転のドーナツ盤の表に裏それぞれ七分以上も音楽を詰め込んでいる。それでも終曲「花のワルツ」は収録できなかったわけで、だから小生は永らくこの組曲は「蘆笛の踊り」で終わるものと信じ込んでいたものだ。
とにかくこのディスクには世話になった。そっと針を乗せるとたちどころに夢心地に誘われる。チャイコフスキーの魔法だ。それから勿論オーマンディの。
毎年十二月になると居間に小さな樅の木が出現した。わざわざ庭から根こぎ掘り起こしてささやかな飾りつけをする。本棚から『ドイツ童話集』を徐ろに取り出し、E・T・A・ホフマンさく「
くるみわりにんぎょうとねずみの王さま」(
→クリスマス・イヴに読むべきお話)の頁を開いて読み耽る。油野誠一の描いた不思議な挿絵を眺めながら、このドーナツ盤を繰り返しかけるのが毎冬の慣わしだった。だから盤面はもう傷だらけ。かくも愛聴したディスクはわが人生で二枚とない。