急な調べ物の用事で駒場の日本近代文学館へ赴いた。この図書館は入室料が三百円かかり、しかもコピーが一枚百円もするので、おいそれとは利用できない。それでもここにしかない稀少な書目があるから必要に迫られ足を運ぶのである。
請求して出して貰ったのは丸善の月刊広報誌『学鐙』、それも今からきっかり百年前、1913年分の合本である。実は来週末「
大正二年のバレエ・リュス」(
→これ)と題して人前でしゃべることになっていて、採り上げる素材そのものは十年ほど前に栃木県立美術館の「
ダンス! 20世紀初頭の美術と舞踊」展カタログに同題で寄稿した際に吟味が済んでいるので大丈夫(のはず)なのだが、念のため再度この年の『学鐙』を点検しておきたくなった。虫の知らせという奴だ。
午後二時から一時間ほどで作業は恙無く終了。前にも念入りに通覧したつもりだったのに、どうやら重大な見落としがあったようで恥ずかしい。わざわざ出向いた甲斐があった。コピー代十枚で千円也は懐に響く出費であるが・・・。
所用を終えて精算までの間チラシの棚を漁っていて、ここから指呼の距離にある東京大学駒場博物館でちょっと面白そうな展覧会をやっていることを知る。
題して「
ダンヌンツィオに夢中だった頃」。副題には「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ生誕150年記念展」とある。へえ~、そんな催しがあるなんて驚きだ。
ダンヌンツィオについて小生の知るところは甚だ尠い。どうにか通読したのは神秘劇『
聖セバスティアヌスの殉教』と、ヴィスコンティの遺作《イノセント》の原作小説『
罪なき者』位だろうか。代表作『死の勝利』は岩波文庫で読みかけて途中で挫折。如何にも世紀末じみた展開に、ちょっとついていけない気がしたのだ。後年の「行動する作家」を標榜する武張った愛国者ぶりにも鼻白むばかり。
辛うじて関心事といえそうなのは、ロシア生まれの舞姫
イダ・ルビンシュテインとダンヌンツィオとの深い係わりだ。上記の『聖セバスティアヌス』も彼女からの依頼で書き下ろされ、ドビュッシーやバクスト、フォーキンらを巻き込んでパリの舞台にかけられた(1911年)。目下の関心事である1913年でいうなら、『
ラ・ピザネル』という音楽詩劇がやはり彼女の主演でパリ初演され(音楽はピッツェッティ、美術はバクスト、演出はなんとメイエルホリド!)、その舞台をシャトレ座で小山内薫と島崎藤村が観ているのだから無関心でいられまい。ルビンシュテインはダンヌンツィオ台本・監督による無声映画《
復讐の紅薔薇(シップ) La Nave》(1921年)に主演しているので、イタリア映画好きにも無縁な存在ではない。
・・・とまあ、そんな由無し事を考えながら、近道をして通用門から東大構内に入り、銀杏並木を漫ろ歩く。期待していた黄葉はまだ全然で期待外れ。駒場のキャンパスには随分とご無沙汰だが、雰囲気は余り変化しておらず、校舎もあらかた昔のままだ。ただし三十数年前にアルバイトで働いた大学生協の建物はすっかり取り壊され更地になっているのが時の経過を告げている。一号館の角を右に折れて少し行くと駒場博物館の建物が見えた。これは往時のまんま変わらない。
■主催者の口上
一体ダンヌンツィオとはだれか? 今の日本で答えられる人は少ないかもしれません。この20世紀初頭のイタリアの詩人・小説家・劇作家は、生前フランスやアメリカで広く読まれた国際的流行作家でした。今年はその生誕150周年。イタリアでは記念コインや切手も発行されています。
ダンヌンツィオ作品は、日本でも英語等の翻訳を介して、上田敏、夏目漱石、森鷗外、芥川龍之介、生田長江、有島生馬など、日本近代文学史上、蒼々たる作家たちに読まれ、愛され、訳されました。漱石門下の文学者、森田草平の場合、ダンヌンツィオの小説『死の勝利』に夢中になり、その主人公を模倣するような平塚雷鳥との塩原温泉心中未遂事件を起こしました。三島由紀夫の作品や晩年の行動にダンヌンツィオの影響がみられるとも言われます。
ダンヌンツィオは、同時代のヨーロッパの最新の思潮や風俗を作品に取り入れ、人生においても独自の審美的スタイルとファッションを演出しました。そして、黎明期の自動車や飛行機を愛し、自分で運転・操縦。さらに、映画、広告など新しいメディアに関わった、まさに大衆化する新しい20世紀文化とともに歩み、リードした作家だったのです。
本展覧会は二部構成。第1部では「人生と文学」をパネルで紹介、生前の愛用の品々をあわせて展示します。ダンヌンツィオの人生と美学の集大成だった晩年の家ヴィットリアーレは、現在、博物館・研究センター・公園となっています。本展は「ヴィットリアーレ」財団との共催です。今回ヴィットリアーレからやってくるのは、ダンヌンツィオ愛用のスーツ、靴、ペン立てなど。びっくりするモダンな美しさです。卓越したファッション・センスにおいても、イタリアン・ダンディの先駆で、そのイメージを世界に発信しました。このイタリアン・スタイルの父、ダンヌンツィオの美学を、今回日本で初めて紹介することになります。
第2部は、「ダンヌンツィオと日本」をめぐるもの。青年時代の日本趣味、1920年ダンヌンツィオ計画の初の日欧間連続飛行であったローマ・東京連続飛行(飛行地図、新聞記事、飛行機の模型等)、日本の知識人たちのダンヌンツィオ作品の受容がテーマです。日本からヴィットリアーレを訪れた有島生馬や生田長江らの自筆書簡、カルピス創業者三島海雲をはじめ日本の文化人から届いたファン・レターなどが里帰りして、大正から昭和初期の文化風俗の忘れられていた側面を伝えます。
口上にあるとおり、展覧会の前半は専らパネルでダンヌンツィオの数奇な人生(という形容が物足りぬほど破天荒な道程だ)をざっとお浚い。これまで断片的にしか知らなかったエピソードの点と点が繋がって想像を絶する生涯が浮かび上がる。官能とデカダンの世紀末詩人がやがて新世紀の申し子となって自動車と飛行機に熱中し、ファシストの先駆のような熱烈な愛国者へと目まぐるしく変転する。余りにも自意識過剰なダンディぶりと自己神格化には傍目に辟易とするが、まあ稀代の天才なのだから致し方ないか。
展示物は代表的著作の初版本や芝居や映画のパンフ、ポスターなど。どれも見た目が地味なのは、ダンヌンツィオが同時代のグラフィックな潮流とは接点が乏しかったからなのか。もしもイタリア未来派の画家たちとの協働があったなら、どんなにか素晴らしかったろう(余談になるが駒場博物館にはデュシャンの「大硝子」実物大レプリカが収蔵され、フラジャイルで動かせないのだろう、ダンヌンツィオ展示のど真ん中に鎮座ましますのが異様でなんだか可笑しかった)。
遺愛の品々(軍服、スーツ、シャツ、革靴)から察するに西洋人にしては小柄な男だったようだ。どれもシックで趣味のよい特注品だが、会場で参考上映されていた大邸宅「ヴィットリアーレ」紹介ヴィデオを拝見すると、ダンヌンツィオの美意識はよく云えばダンディな貴族趣味、それも雑多な要素を折衷的に寄せ集め、ぎりぎり悪趣味と紙一重だったようにみえる。その館も日々を安楽に過ごす住空間というよりも、生きながら自らを神の如くアポテオーズし、意味ありげに配された品々で己の存在を髣髴とさせる博物館めいた空間を目論んだらしい。自意識過剰で鼻持ちならぬ、できればお近づきになりたくない御仁だ。
展示の後半はダンヌンツィオと日本との関係を扱う。
まず興味を惹いたのは彼が若き日に日本の詩歌に関心を示した事実である。当時のヨーロッパで隆盛を極めたジャポニスムの只中で、ダンヌンツィオもまた異国の文物に憧れたのは不思議でないが、彼はジュディット・ゴーティエがパリで刊行した『
蜻蛉集 Poèmes de la libellule』(1884年、西園寺公望の援けを借りて『古今和歌集』などの和歌八十八首を仏訳した詩歌集)を所有していたばかりか、それに触発されて自ら「五、七、五、七、七」の韻律で作詩を試みたという。彼はこれらを「西洋のウタ Outa occidentale」と自称した由。本展にはその証拠として、彼が旧蔵した『蜻蛉集』(早稲田大学図書館蔵)が展示されており、そこには「西洋のウタ」の試作の数々が自筆で走り書きされている。知らなかったなあ!
明治・大正期のダンヌンツィオ翻訳史のセクションもまずまずの充実ぶり。森鷗外は独語訳からの重訳で戯曲「
秋夕夢」を邦訳したし、上田敏の訳詩集『
海潮音』の巻頭と巻末をダンヌンツィオ詩が飾っているのは有名な話だ。大正二年夏パリで『ラ・ピザネル』の舞台に接した小山内も藤村も、ダンヌンツィオの存在をよく承知したうえで観劇に赴いている。ダンヌンツィオの小説を英語から翻訳した森田草平はその強い影響下で『死の勝利』の筋をなぞったような心中未遂事件まで仕出かしている。「人生は芸術を模倣する」を地で行ったような話だ。
そのあとダンヌンツィオの「愛国的行動」に同調する昭和の文化人たちの盲目的共鳴ぶりにはちょっと辟易してしまうが、戦後の三島由紀夫の『聖セバスチァン』翻訳を通してのダンヌンツィオ接近は本物の共感に基づくもので実に興味深い。本人がそう述懐したわけではないが、耽美と愛国を併存させながら生きたイタリアの文人の姿に三島が自らを重ね合せたとしても一向に不思議はあるまい。度を越した自意識過剰と自己演出も、ダンヌンツィオ譲りと云えそうだ。
いろいろと裨益するところの大きい展示だが、壁に掲出されたダンヌンツィオからの引用訳文の文字が小さすぎて老人には辛かった。それから、折角イタリアから遺品を拝借するのなら、軍服や靴もいいが、文人らしく直筆の原稿やら手紙やらをもっと借りてきてほしかったな。第二部に関して云えば、明治末・大正期の日本の特筆すべき偉才
郡虎彦(萱野二十一)のダンヌンツィオへの傾倒ぶりがどこにも触れられないのは些か解せない。郡が若き日の三島に圧倒的な感化を及ぼした事実も鑑みると、なおのこと言及すべき存在だったように思われる。
もうひとり、戦後のイタリア文学者
米川良夫による優れたダンヌンツィオ論考(連載「イタリア文学夜話 ダンヌンツィオをめぐる9章」『現代詩手帖』1991)がどういう訳かまるきり等閑視されているのも残念なことだ。
この博物館は入場無料。会場入口には内容充実の解説書まで用意され、無料配布されるなど至れり尽くせりの配慮が難有い(壁のキャプションでは読めなかったダンヌンツィオの詩句も収載され、ここで味読できた)。それだけに上記の瑕瑾が少しばかり気になった次第。