苦手で敬遠してきた作曲家がある一方で、ただもう無暗と愛惜してやまない楽曲というのもある。喰わず嫌いと偏食のような関係なのだろう。
小生にとってパウル・ヒンデミットは昔も今も、さして親しい存在ではない。なにしろ滅多矢鱈と作品が多すぎるし、感興の湧かぬまま職人芸だけで書いた詰まらぬ創作も多い気がする。それでも一曲だけ鍾愛のヴィオラ協奏曲がある。それは「
デア・シュヴァーネンドレーアー Der Schwanendreher」(1935)という、なんとも長たらしく憶えにくいタイトルの作品だ。
この曲とはいきなり出逢った。それも実演である。NHK交響楽団の無料招待の演奏会があるとTVの告知で知り、葉書で応募したら抽籤に当たって招かれた。高校二年の冬、1969年12月のことだ。
今も手許に残る当日のチケットの文面を書き写してみる。
NHKシンフォニーホール
NHKコンサートホール、同時収録
と き… 12月13日(土)午後 2:30 開場 3:00 開演
ところ… NHKホール(もより駅 国電=新橋、地下鉄=新橋、虎の門、霞ガ関)
管弦楽 NHK交響楽団
ビオラ 今井信子
指 揮 岩城宏之
―曲 目―
組曲「王宮の花火の音楽」 …………………… ヘンデル作曲
シュヴァンネン ドレーヤー ………………… ヒンデミット作曲
交響曲 第5番 ホ短調 ……………… チャイコフスキー作曲
.............................
入場整理券
(1枚1名様)
ご注意
(1) 開演後のお出入りはお断わりいたします。
(2) 開場1時間前から窓口で先着順に座席番号を捺印いたします。
(3) 開演10分前にはお席にお着き下さい。
(4) 都合により公開をとりやめることがあります。
NHK
とにかく只でオーケストラが聴けるというのが難有かった。会場の「NHKホール」とは現今の渋谷区神南の巨大な建物ではなく、千代田区内幸町にあった収録専用の小ぢんまりした空間だ。座席数は六百三十しかない。数年後には取り壊されてしまうので、ここに赴いたのはこれが最初で最後。
誰にも親しめる名曲コンサートのような内容だから、特に予習もせず気楽な面持で赴いた。二曲目の「
シュヴァンネン ドレーヤー」
(ママ) なる曲はまるきり未知の存在で題名すら見覚えがなかったが、ヒンデミットは既に交響曲「画家マティス」で親炙していたから、「どんな曲だろう」位の軽い好奇心で臨んだのだったと思う。
座席番号は当日の先着順に窓口で押捺してもらう。小生のチケットには「
ほ 31」とあるから、前から五列目のやゝ右寄りだろうか。こんな至近距離からオーケストラの実演が聴けるのかと興奮する。最初の曲は予定が変更されベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。大編成の絢爛たる生音に圧倒された。ところがそのあと大半の楽員は退場してしまう。なにしろヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者の全員が舞台からいなくなってしまうのだから唖然とした。
「
デア・シュヴァーネンドレーアー」はヴィオラ奏者でもあったヒンデミットが演奏会で披露するために自ら作曲したヴィオラ協奏曲である。ヴァイオリンに較べ低音域で遙かに地味な音色に顧慮して、伴奏オーケストラをぐっと小編成に抑えるばかりか、ヴァイオリンとヴィオラのセクションを丸ごと省いてしまった。こうすれば自ずと独奏部が引き立つだろうと考えてのことだ。
そんなこととは露知らず、ひょっとしてここで休憩なのかな、と思い始めた矢先、再び舞台の照明が明るくなり、若い女性ヴィオラ奏者が颯爽と登場した。
一場がしんと静まると徐ろにヴィオラが歌い始める。いきなり惹き込まれた。夢見るような、懐かしいような、初めて耳にするのに不思議と親しげな旋律に胸を締め付けられる。素晴らしい調べだ。ヴィオラ特有の渋くしわがれた響きではない。輪郭のくっきりした豊饒な音色に耳を欹てる。独奏がひとしきり思いの丈を吐露すると、それに誘い出されるように小管弦楽が慎重な足取りで伴奏を開始する…。
それからの二十数分間はまさしく夢心地のまま過ぎた。鄙びた無垢の美しさにしたたか打たれ、席に坐ったまま金縛りにあったように陶然となった。だからだろうか、演奏会後半のチャイコフスキーは岩城が汗だくで奮闘したこと以外すっかり霞んでしまった。あれから四十余年が経っても、この「シュヴァンネン ドレーヤー」体験は色褪せない。まるで昨日の出来事のように鮮やかなままだ。
だが記憶はしばしば嘘をつく。原初の体験を反芻するうち偽の思い出が「上書き保存」される例も珍しくない。そもそも記憶とはそういう性質なのだろう。なので当時の手控帖を探し出して恐る恐る繙くと、思いがけぬ挿話が書いてある。
12月13日のN響演奏会にはほんとうは僕は行くはずではなかったのだ。招待券は僕が申し込んだのだったが、どういうわけかテレヴィで言っていたのとは曲目も日も全くちがったものが来てしまった。13日はテスト中 [註/高校の期末試験] である。そこで僕はあっさりあきらめていたのだが、小西 [註/音楽の趣味を共有した唯一のクラスメイト] が当日になって行く気になっているので急に僕も行くことにしたのだ。
うわあ、そうだったのか! まるで失念していた。あまり気乗りがせず、誘われるままに出掛けたなんて。当日の夜したためた感想文にはこうある。
テスト中なので無理と思っていたが、今日になって彼 [註/上述の小西君] が、思いがけなく「行かないか」と言ってきたので(彼は昨日になってはがきを手にしたのだ)急に予定変更、家に電話してはがきをもってきてもらうなどして、とにかく1時25分頃にはNHKに着いた(二人ともここは初めて)。
演奏は、さすがにN響だけあって素晴しい。演奏会には新しい発見が伴わなければならないが、今回はそれが充分 [得られ] 満足された。ヒンデミットの作品である。感動した。《画家マティス》に見られる彼の特徴が、この曲にもはっきりあらわれている。それにしても美しい曲だった。
独奏者の今井さんは若い、美しい娘さんだ。
岩城の指揮はさすがである。ベルリオーズ、チャイコフスキーもそれぞれ好演、熱演だった。[...] NHKホールは700人程度のやや小さいホールであるが、思ったより立派で、品格のあるホールだ。
こうして書いている私の耳には、まだあのヴィオラの、あのうっとりとさせる響きが残っている。
あまりに稚拙な文章なので書き写すのが躊躇される。語彙が乏しいうえ「さすがにN響だけあって素晴しい」「岩城の指揮はさすがである」と訳知り顔な物言いが鼻につく。それでも恥を忍んで引用したのは、これがひょっとして
今井信子さんの日本デビュー演奏会ではないかと察しられるからだ。当時の彼女は芳紀二十六歳、紛れもなく「
独奏者の今井さんは若い、美しい娘さんだ」ったのである。
今井信子さんは桐朋学園で学んだのち渡米し、ヴァイオリンからヴィオラに転向する。1966年からジュリアード音楽院でワルター・トランプラーに師事、カザルスのマールボロ音楽祭の常連となり、67年ミュンヘン、68年ジュネーヴの音楽コンクールでそれぞれ最高位に入賞して欧米で注目されていたが、自国でのキャリアは皆無に等しかったから69年末の時点で彼女の名前はまだ殆ど知られてなかったと思う。在京オーケストラとの共演もこれが初めてではなかろうか。
今井さんの自叙伝『
憬れ ヴィオラとともに』(春秋社、2007)を繙いても、この演奏会のことは出てこない。当時の彼女は慌ただしく欧米各地を行き来しており、日本デビューの話には少しも触れていないのである。辛うじてわかるのはこの年に彼女が最初の結婚をしたこと、翌年には長男が生まれたこと位だ。
ただひとつ、この年のこととして次のような興味深い事実が語られる(百十頁)。
一九六九年の春、ベルリオーズ没後百年記念国際演奏会でフランクフルト放送交響楽団が演奏する《イタリアのハロルド》のソリストとして招かれた。指揮は岩城宏之さん。ヘッセン放送協会のディレクターだったクーレンカンプフ [註/Hans-Wilhelm Kulenkampff] が、ミュンヘン国際コンクールの関係者から私を推薦されて、使ってみようと思ったらしい。岩城さんは私のことを知らなかったが、クーレンカンプフは岩城さんと親交があり、彼の方が岩城さんに私を推薦したのだ。
自叙伝に拠れば今井さんが「イタリアのハロルド」を人前で弾くのは生まれて初めてだったそうで、「
メニューインが弾いたレコードを聴いて必死で勉強して」急場を凌いだ由。ところがフランクフルトでの演奏は思いがけず高く評価され、翌年度の西ドイツ音楽功労賞を彼女に齎したばかりか、全欧に向けて放送された実況録音をたまたま耳にしたフィリップス・レコードの名プロデューサー、エリック・スミスはコリン・デイヴィス指揮で進行中のベルリオーズ録音プロジェクトで「イタリアのハロルド」独奏を新人の彼女に委ねることを即断したという(有名な1975年の録音)。今井さんの国際的な名声はこうして確立されていく。附言するならば、彼女が実演にあたって「俄か勉強」したメニューインのLPで指揮していたのはコリン・デイヴィスその人なのだ。
察するに1969年12月のN響の公開録音に今井さんを招いたのは、ほかならぬ岩城宏之の意向だろう。春にフランクフルトで初共演して彼女の才能にぞっこん惚れ込んで、即座に半年後の東京での共演を提案したのではなかろうか。そうだ、きっとそうに違いないと四十四年後の今になって了解する。
そう考えると、この記念すべき「日本デビュー」がベルリオーズでなかったのが些か不可解な気もする。想像を逞しくすれば、当日の演目にヒンデミットを提案したのは今井さんご本人なのではないか。それも土壇場になっての決断だったように思う。上述の手控帖にある曲目と招待日の急な変更はその結果だと推測される。
舞台裏はどうであれ、東京でこの日パウル・ヒンデミットのこよなく美しいヴィオラ協奏曲「デア・シュヴァーネンドレーアー」が若き今井信子さんのヴィオラで奏でられたという事実こそが、小生には何よりも大切だ。その場にたまたま居合わせた僥倖にただもう感謝するほかない。
この曲にすっかり魅せられた小生は三日後の12月16日に上野の文化会館に赴き、資料室に架蔵されていたウィリアム・プリムローズの古い輸入盤LPを熱心に聴いた。そればかりかライナーノーツ全文を書き写してもいる(当時この資料室にはコピー機がなかった)。田舎の高校生には英文が難しくて、文中 "expansion" "juxtapositions" "authentic" はおろか、"settings" や "dates from" にまでいちいち訳語を書き込んでいるのが情けなくも苦笑を誘う。 翌70年1月には当時唯一の現役盤だったラファエル・ヒリアー(ジュリアード四重奏団の創立メンバー)独奏のLPを手に入れ、これも擦り切れるほど愛聴したものだ。
この曲の邦題「
白鳥の肉を焼く男」も、そのヒリアー盤で初めて目にしたものだが、一見して如何にも奇怪な字面に馴染めぬまま今日に至っている。独逸語の原題 "Der Schwanendreher" は英語に直訳すると "The Swan-Turner" ──すなわち(野生の白鳥を捕え串刺しして焚火で焼く)「白鳥を廻す男」の意味なのだが、しっくり腑に落ちる適訳がどうにも思い当たらない。
この奇妙な題名は、第三楽章の冒頭で引用される独逸古謡「
お前さんはシュヴァーネンドレーアーぢゃないのかい? Seid ihr nicht der Schwanendreher?」に因んだ命名である由。上述のライナーノーツには、
終楽章は曲名が由来する同題の古謡に基づく七つの変奏曲である。この歌は明らかに、白鳥がまだ食用に供されていた時代、白鳥を串に刺して廻す男を目にして(あるいは、面と向かって)謡ったものだ。歌詞は1603年に遡る。
とあるから、敢えて邦訳するならば「
白鳥を炙 [あぶ] る人」あたりだろうか。それでもかなり不気味な響きなのは否めないが。