『マイ・フェア・レディ』五十周年の連続記事が終らぬうちに十月の声を聞いた。そこでちょっと一息ついて音楽を聴く。澄み切った秋空の下で聴く仏蘭西音楽はまた格別である。つい最近ようやっと手にした嬉しい一枚。
"Franck, D'Indy, Schmitt"
フランク:
交響変奏曲*
ダンディ:
フランスの山人の歌による交響曲**
フローラン・シュミット:
小さな眠りの精の一週間 Une Semaine du Petit Elfe Ferme-l'Œil***
三つの狂詩曲***
ピアノ/
ロベール・カサドシュ
+ギャビー・カサドシュ***
ジョージ・ウェルドン指揮
フィルハーモニア管弦楽団*
シャルル・ミュンシュ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団**1949年10月21日、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ*
1948年12月20日、ニューヨーク、三十丁目スタジオ**
1956年6月16日、パリ、サル・アポロ***
Forgotten Records fr 849 (2013)
→アルバム・カヴァーロベール・カサドシュ Robert Casadesus (1899~1972)は小生が初めて生で聴いたピアニストである。1968年5月のことだ(
→ここを参照)。だからといって特に贔屓にはしていないものの、矢張り何かと気に掛かる存在ではある。
若くしてモーリス・ラヴェルに才能を愛されたカサドシュは、自作を含むフランス近代音楽とモーツァルトを筆頭に、広範なレペルトワール(バッハからバルトークに及ぶ)の持ち主であり、戦前から永きにわたる録音歴を誇る仏蘭西屈指の名匠である。ドビュッシーとラヴェルのピアノ曲全集(モノーラル録音)や、ジョージ・セルと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズ、ジーノ・フランチェスカッティと共演した室内楽などは今なお規範的な名演奏と評される。
とはいえモノーラル時代の録音にはCD未覆刻のものが少なくない。在フランスの初期LP覆刻専門レーベル Forgotten Records から出た一枚はその欠落を補う重宝な企てである。実のところ、ここに並ぶ四曲はCD時代に一顧だにされず、文字どおり「忘れられたレコード」と化していた音源ばかりだ。
とはいうものの、当盤の出現に随喜の涙を流す愛好家は果たして世界中に何人いるのだろうか。フランクとダンディは確かに初覆刻ではあるのだが、どちらの協奏曲にも定評あるステレオ再録音があり(1958、オーマンディ指揮)、再生音に限界のあるモノーラル旧盤に食指を伸ばす者は尠かろう。
続いて収録された
フローラン・シュミット Florent Schmitt (1870~1958)の二曲もCD初覆刻。どちらも秘曲であり、耳にする機会は滅多にない(実演はほぼ皆無)。「小さな眠りの精の一週間」は連弾用の組曲(作品58)、「三つの狂詩曲」は二台ピアノのための作品(作品53)──共に世界初録音だったのではなかろうか。いずれも愛妻ギャビーが息の合った共演ピアニストを務めている。
ロベールとギャビーのピアノ二重奏の録音はほかにもフォーレの「ドリー」やら、ドビュッシーの「小組曲」「白と黒で」「古代碑銘」やら、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」やら、モノーラル、ステレオ両期を通じて少なからず残されているが、この二曲についてはこれが唯一の録音で、ステレオ再録盤は存在しない。その意味からも稀少な演奏なのだが、そもそもフローラン・シュミットのピアノ作品の愛好家なぞ多寡が知れている。まして小生のようにオリジナルの米モノーラル盤を後生大事に愛聴してきた奇特な人間はほんの僅かだろう。今回の再登場に狂喜乱舞した者は世界中で数十人いるかいないか。勇気ある覆刻に感謝の言葉もない。
小生がフローラン・シュミットの連弾曲「
小さな眠りの精の一週間」に永く執着してきたのには理由がある。この件についてはこれまでも何度か話題にしてきた。
→フローラン・シュミットとアンドレ・エレ→フローラン・シュミットとアンドレ・エレ(拾遺) (ただし未完)
手短に云うと、アンデルセン童話に基づくこの連弾曲(作品58、1912)は、第一次大戦を挟んで十年以上も経ってからバレエに改作することになり、管弦楽化された。その際に前奏曲やら各場の繋ぎの音楽やらが附加されて、バレエ音楽としての体裁が整えられた。このあたりの経緯はラヴェルの連弾曲「マ・メール・ロワ」がバレエ化された道筋とよく似ている。
バレエとしての題名は『
小さな眠りの精 Le Petit Elfe Ferme-l'Œil』という(作品73、1923)。翌1924年、パリのオペラ=コミック座で初演された。このとき舞台美術を担当したのが絵本作家
アンドレ・エレ André Hellé (1871-1945)。熱心なドビュッシー好きだったら、彼のバレエ『玩具箱 La Boîte à Joujoux』が同じくエレの発案・台本・舞台美術になる事実を憶えておられよう。
バレエの総譜は1926年にデュラン社から出たが、それとは別に美麗な小函に収まったエレの挿絵入り絵本(簡略な譜面も附く)が1924年にトルメール(Tolmer)社から刊行されている。題名はバレエと同じ「小さな眠りの精」である。
小生が最初に手にしたのはデュラン社の楽譜でもカサドシュ夫妻のLPでもなく、実はこのアンドレ・エレの絵本だった。その可憐な魅惑といったら! 箱をそっと開くと、なかには宝物のような小冊子が二冊(絵本と楽譜)。どちらにもエレの挿絵がふんだんに散りばめられている。数あるエレの挿絵本のなかでも白眉の美しさ。もう四半世紀以上も前、国立の銀杏書房で手に入れたものだ。
小さな絵本には頁のあちこちに覗き窓が穿たれていて、扉を開く要領で頁を左へ右へと一枚ずつ開いていくにつれ視野が開け、物語が進行する仕掛けになっているのだが、そのわくわくするような創意工夫を現物なしに言葉だけで説明するのは難しい。この写真から少しでもご想像いただけるだろうか(
→これ)。
だから少しして、たまたま訪れた池ノ上の中古レコード店でロベール&ギャビー・カサドシュのLP(嘘のような安価だった)を見つけたときは胸の動悸を抑えきれなかったものだ。一体どんな音楽が聴けるのだろうか、と。
フローラン・シュミットの連弾曲「小さな眠りの精の一週間」の音源を、小生が手にし得た限りでディスコグラフィ風に列挙しておこう(録音年代順)。
フローラン・シュミット:
「小さな眠りの精の一週間」 作品58
三つの狂詩曲 作品53
ピアノ/
ロベール・カサドシュ+ギャビー・カサドシュ1956年6月16日、パリ、サル・アポロ
Columbia ML 5259 (LP, 1958)
→アルバム・カヴァーフォーレ: 「ドリー」
フローラン・シュミット: 「小さな眠りの精の一週間」
ミヨー: 「スカラムーシュ」
ピアノ連弾/
クロード・コンファローニ+オディール・ポワッソン1986年4月3~4日、マルセイユ、リュミニー美術建築学校
Lyrinx LYR 068 (LP, 1986)
→アルバム・カヴァー"Märchenmusik: Fairy Tale Music -- Piano 4 Hands"
ジェルジ・ラーンキ: 「二頭の素晴らしい牡牛」
カール・ライネッケ: 「胡桃割人形と鼠の王様」作品46
フローラン・シュミット: 「小さな眠りの精の一週間」
ラヴェル: 組曲「マ・メール・ロワ」
ピアノ連弾/
ハイデルベルク・ピアノ・ドゥオ(アデルハイト・レヒラー+マーティン・スミス)1993年11月、ヴィースロッホ
Ars Produktion FCD 368 333 (1994)
→アルバム・カヴァー"Family Classics: French piano duets inspired by childhood"
フォーレ: 組曲「ドリー」
ビゼー: 組曲「子供の遊び」
ラヴェル: 組曲「マ・メール・ロワ」
フローラン・シュミット: 「小さな眠りの精の一週間」
ピアノ連弾/
ティモシー&ナンシー・ルロワ・ニッケル 2000年12月17‐19日、ロズリンデイル(MA)、ソニック・テンプル
ARSIS CD 137 (2002)
→アルバム・カヴァー"Florent Schmitt: Piano à quatre mains"
フローラン・シュミット:
「小さな眠りの精の一週間」 作品58
「旅の頁」 第一巻、第二巻 作品26
「ドイツ追憶」 作品28
ピアノ/
クリスティアン・イヴァルディ+ジャン=クロード・ペヌティエ2008年11月27~29日、ラ・フェルム・ド・ヴィルファヴァール
Timpani 1C1159 (2009)
→アルバム・カヴァー"Florent Schmitt: Music for Two Pianos"
フローラン・シュミット:
バレエ『小さな眠りの精──踊る一週間』作品73 (デアス編)*
バレエ『サロメの悲劇』作品50**
「ドイツ追憶(八つの円舞曲)」作品28
「私は聴いた、遠くで・・・」作品64-1
エドガー・ポーの「幽霊屋敷」のための練習曲 作品49
三つの狂詩曲 作品53
ピアノ/
レズリー・デアス Leslie De'Ath +アーニャ・アレクセーエフ
メゾソプラノ/キンバリー・バーバー*
オーボエ/ジェイムズ・メイソン**2010年12月17日、2011年2月22日、5月9日、ウォータールー(カナダ)、ウィルフリッド・ローリエ大学音楽学部モーリーン・フォレスター・リサイタル・ホール
Dutton Epoch CDLX 7273 (2011)
→アルバム・カヴァー折角なので年代順にじっくり聴き比べてみた(二番目のLyrinx盤LPは未CD化なので除外)が、案の定カサドシュ夫妻の初録音が如何に優れた出来だったかを改めて再確認する結果となった。古今無双。流石である。唯ひとつ、イヴァルディ&ペヌティエ盤が響きの玄妙さにおいて拮抗すると感じた。
忘れずに付け加えておくと、最後のデアス&アレクセーエフ盤は注目に値する。他の演奏と異なり、連弾でなく二台ピアノで奏されており、そればかりか1912年版の組曲ではなく、十一年後の拡大版バレエ音楽そのもの(の二台ピアノ用編曲)の世界初録音なのである(演奏時間も倍近くかかる)。これで奏者にもう少し瀟洒な音色や冴えたリズム感が加われば文句なしなのだが。
最近もうひとつ更に新録音が加わった(フローラン・シュミットの四手用曲全集の一環)という話だが、これは未入手。聴くのが愉しみである。
ともあれ、「小さな眠りの精の一週間」はもっと聴かれてよい音楽だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」やドビュッシーの「玩具箱」に匹敵する、とまでは云わないが、それらの衣鉢を継ぎ、誰の裡にも潜む幼心を呼び醒ます音楽として、尽きせぬ魅惑を秘めた秀作なのである。初期の後期ロマン派ふう東方趣味バレエ『サロメの悲劇』ばかりがフローラン・シュミットぢゃないと知るべきだ。
(追記──2012年10月24日)
上の文中で「もうひとつ更に新録音が加わった」と記した新譜を逸早く手にした。「フローラン・シュミット: 四手用 ピアノ曲全集」の第四集。世界初録音(作品37&54)をも併録した興味津々の内容である。
"Florent Schmitt: Complete original works for piano duet & duo, 4"
フローラン・シュミット:
ユモレスク 作品43*
リートとスケルツォ 作品54**
三つの気晴らしの小品 作品37***
小さな眠りの精の一週間 作品58****
ピアノ/
インヴェンシア・ピアノ・デュオ(アンドレイ・カスパロフ+オクサーナ・ルツィシン)
2010年7月8日*、2012年1月4日**、2011年1月17日***、1月7日****、ノーフォーク(ヴァージニア州)、オールド・ドミニオン大学ウィルソン・G・チャンドラー・リサイタル・ホール
Grand Piano GP 624 (2013)
→アルバム・カヴァー