(承前)
1953年12月に第一回配本として六冊、その後の一年間で二十四冊が矢継早に刊行された岩波書店の絵本シリーズ「
岩波の子どもの本」は、前回すでに述べたように以下のとおり明確な編集方針に基づいていた。
1/絵本は消耗品だから、できるだけ安い、買いよいものにすること。
2/規格は統一し、判型はこれこれ、ページ数もほぼ同じにする。
3/右開きで、タテ書き。外国の本で、レイアウトを変えなければならないものは、編集し直す。
4/世界の代表的な絵本を主とし、日本の画家によるものも加える。
5/小学一、二年と、それ以前を対象とするものと、三、四年を対象とする、少し読む分量が多いものとの二本立てとし、第一期は二十四冊、十二月はじめに、まず六点をだす。
「
1」でいきなり「絵本は消耗品」と言い切っているのには些か驚かされるが、これは高価な豪華版ではなく、「岩波文庫」「岩波新書」「岩波少年文庫」の路線を踏襲した、誰にでも手の届く廉価な普及版絵本を目指すという意味で、いかにもこの出版社らしい文言である。
「
2」のサイズの規格化は方針「
1」から当然のように導き出される。元の外国絵本がどんなに大判でも、これを一律に小型サイズ(天地20.5×左右16.5 cm)に縮めてしまう。サイズがまちまちだと、店頭に並んだとき統一感が出ないし、シリーズと認知されない惧れがあるから、販売上やむを得ぬ決断だった。
原本が横長だったり、甚だしく縦長である場合は図柄をトリミングしたり、紙面構成を改変する必要が生ずるだろうが、これもまあ避けられない成り行きだろう。
今日の私たちからみて、一番の問題点は「
3」である。
云うまでもなく西洋の書物は手書き写本の昔から「左開き」「横組」であり、挿絵本や絵本とて例外ではない。これをそのまま踏襲し日本語版絵本とするには勇気が要る。少なくとも1953年当時は誰しもそう考えた。わが国の出版物は単行本から文庫・新書、新聞・雑誌に至るまで殆どが「右開き」「縦組」であり、この大原則は児童書とて崩せないと思ったのだ(「岩波少年文庫」もこの方式である)。
今日の私たちには「左開き」「横組」の絵本が当たり前になってしまったので、当時の人々の感覚がさっぱり呑み込めなくなったが、そもそもわが国では1940年代まで、横書きの文字は右から左へと綴られるのが通例だったから(標題文字や図版キャプションなどがその例)、左から右へと読み進める西洋流の本文横組には少なからぬ違和感が付き纏ったと推察されよう。
この点に関して当事者たちの回想は異口同音に一致している。
日本の子どもに与えるのだからというので、縦書き、右開きにするのはごく自然にきまってしまったように思います。
──石井桃子「『岩波の子どもの本』の頃」 1974年
岩波少年文庫の創刊は一九五〇年(昭和25)だったが、それ以前に有名な少年少女雑誌「銀河」が姿を消していた。「銀河」が子どもたちに親しまれなかった一因が、斬新な左びらき「横組み」にあったので、一九五三年に幼い子どもの本を作るとき、翻訳ものでも右びらきの縦組みにすることに、たいした抵抗はなかった。
──いぬいとみこ「『岩波子どもの本』こぼればなし」 1974年
ただし何事にも例外はある。第二回配本(1954年4月)の『海のおばけオーリー』がそれだ(
→表紙、
→見開き)。
マリー・ホール・エッツの『海のおばけオーリー』は、バートンの『名画キャリコ』とともに、マンガ式のコマ絵でストーリーを展開した異色絵本として評判の高かったものだ。ただし、その左開きのコマ絵の流れを右向きに変えるわけにはいかないので、この一冊だけは左開きとし、キャプションも左横組で通さなければならなかった。[...]
『海のおばけオーリー』の一点を除いて、あとはみな右開き、タテ組に編集し直すのについては、別段、大きな無理はともなわなかった。その後、原本どおり、左開き、ヨコ組のほうが、原本に忠実であるかのように思う傾向が翻訳絵本の出版に見られたが、オールひらがな、わかち書きのヨコ組は、なんとしても読みづらいし、欧文活字とひらがな活字とでは、いくら同じヨコ組でも、タイポグラフィーはまるきり別のものになってしまうのだから、私はやはり、右開き、タテ組に再編集して、子どもたちに読みやすいかたちで提供するほうが親切だと思っている。[...]
──光吉夏弥「岩波の子どもの本 その発行のころのことども(二)」 1973年
なるほど、確かに光吉の言い分にも一理ある。日本語テクストはあくまでも縦組が基本だという信念なのだろうが、そこにはどこか強弁めいた頑なさも垣間見える。小生はこの文章を初出とほぼ同時期に読んで、「まだそう信じているのか」と些か鼻白む思いだったと記憶する。1970年代といえば、オリジナルの「左開き、横組」を忠実に保ちながらレオ・レオニやセンダックの同時代絵本が次々に翻訳出版され、福音館の月刊絵本「こどものとも」すら疾うの昔に「左開き、横組」を実践・普及させて久しい時代である。今更「右開き、縦組」絵本でもあるまいと、時流に抗う旧弊牢固な主張にちょっと呆れたのだ。
光吉は事も無げに「
右開き、タテ組に編集し直すのについては、別段、大きな無理はともなわなかった」と確信犯さながら自信たっぷり言ってのけるが、さて実際の改変作業はどうだったろうか。編集部の一員として一部始終をつぶさに見ていた乾富子の貴重な証言が残されている。
一九四二年(昭17)に早くも「花と牛」(マンロー・リーフの「花のすきな牛」の前身)を筑摩書房から出して、翻訳絵本のしごとの大先輩である光吉夏弥氏など、わりつけ用紙にうらやきの絵のコピーをはりこんで、むしろ喜々として原作の左びらきの絵本を、右びらきの流れに変えていらっしゃった。
現在なら、やれニセモノづくりの、改作の・・・・・・と、非難のでることだろう。しかし、当時は日本の事情をあらかじめ原出版社に連絡して、ひらき方を反対にするむね諒承をえていた。
──いぬいとみこ「『岩波子どもの本』こぼればなし」 1974年
論より証拠、原作絵本 "The Story of Ferdinand" と「岩波の子どもの本」版の『はなのすきなうし』とを見比べれば一目瞭然だ。なるほど確かに岩波版では処々で「うらやきの絵」、すなわち挿絵をわざわざ左右逆版に差し替えている(実例その1
→原作絵本、
→岩波版、その2
→原作絵本、
→岩波版)。
どうしてこうなるのか。光吉(あるいは光吉と石井を核とする編集部)は何故このような改変──敢えて云うなら改竄──を施さねばならないのか。
答えは唯ひとつ、絵本は方向性のあるメディアだからである。この場合の「方向」とは物語の展開に従って流れる時間や、そこに伴う空間的な運動を意味する。西洋の絵本ではストーリーは左から右へと進行するから、旅する主人公の目指す方向は「右」と相場が決まっている(反対に右から左へ向かう運動は「やって来る」と解される)。見開き画面の場合、時間の経過や因果関係を「左」→「右」に配した例が多いのは、それが視覚的に自然な流れと認識されるからだ。たとい同じ図柄であっても、見開きの左頁に置くのと右頁に配するのとでは、紙面での納まり具合や醸し出される効果がまるで違うことも忘れてはならない。
因みに、これが挿絵本全般となると些か事情が違ってくる。わが国でも挿絵入りの西洋文学、例えばワイルドの『サロメ』(ビアズリー挿絵)、ルナールの『にんじん』(ヴァロットン挿絵)や『博物誌』(ボナール挿絵)、キャロルの『不思議の国のアリス』(テニエル挿絵)、あるいはゴーギャン自身が挿絵を描いた『ノア・ノア』などが、オリジナルの挿絵入りで戦前から少なからず邦訳刊行されているが、そうした訳書で挿絵の左右反転がなされた実例を寡聞にして知らない。
察するに、こうした書物では個々の挿絵がそれぞれ独立していて、絵本の場合ほど連続性・連関性が強固でなく、物語の流れを促進する役割も担わされていないので、紙面のどの位置に配するかというレイアウトの問題は生じても、日本語版でわざわざ図柄を反転させるには及ばなかったのだろう。「岩波の子どもの本」が敢えて施した改変は絵本の邦訳ならではの特殊な操作だったのである。
戦前から海外の同時代絵本に数多く接し、その表現方法に親しんでいた光吉と石井は、こうした「絵本の文法」のなんたるかを知悉していた。それ故に、「左開き」絵本を「右開き」に編集するにあたり、いくつもの場面で図柄を左右逆転させて、一貫した方向性(ただし逆向き)を維持しようと腐心したのである。
上に挙げた『はなのすきなうし』の二例において、光吉は単に図柄の左右を反転しただけではない。元の絵本では右頁にあった図版をわざわざ左頁に移動させて、絵本の円滑な流れを阻害しないよう細心の注意を払っているのだ。
このように「岩波の子どもの本」における編集作業とは、単に「横のものを縦にする」テクスト翻訳に留まらず、「右展開」を「左展開」へと視覚的に改めるという複雑でデリケートな工程をも伴っていた。絵本では文章のみならず、絵もまた「翻訳」してやる必要がある──光吉はそう確信していたに違いない。だからこそ、「
むしろ喜々として原作の左びらきの絵本を、右びらきの流れに変えていらっしゃった」。
(次回につづく)