(承前)
岩波書店が満を持して世に問うた絵本シリーズ「
岩波の子どもの本」。創刊はきっかり六十年前のことだ。その最初の一年間の書目を改めて通覧してみよう。
第一回配本(1953年12月)
■ ちびくろ・さんぼ
へれん・ばんなーまん/文
ふらんく・とびあす+岡部冬彦/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ ふしぎなたいこ
(日本昔話)
清水崑/絵
岩波書店編集(=石井桃子/文)
■ ねずみとおうさま
コロマ神父/文
土方重巳/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ みんなの世界
マンロー・リーフ/文・絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ スザンナのお人形 +ビロードうさぎ
(フランス民話?)+マージェリイ・ビアンコ/文
高野三三男/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ 山のクリスマス
エル・ベーメルメン(=ルートヴィヒ・ベーメルマンス)/文・絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳編)
第二回配本(1954年4月)
■ まいごのふたご
あいねす・ほーがん/文
野口彌太郎/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ おかあさんだいすき
おかあさんのたんじょう日+おかあさんのあんでくれたぼうし
まーじょりー・ふらっく+(スウェーデン民話)/文
まーじょりー・ふらっく+大澤昌助/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ ちいさいおうち
ばーじにあ・ばーとん/文・絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ ナマリの兵隊 +長ぐつをはいたネコ
ハンス・アンデルセン+シャルル・ペロー/文
マーシア・ブラウン/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳編)
■ 海のおばけオーリー
マリー・ホール・エッツ/文・絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ 金のニワトリ
エレーン・ポガニー/文
ウィリー・ポガニー/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
第三回配本(1954年9月)
■ どうぶつのこどもたち
おりのなかのこども+めんどりと10ぱのあひる+ばかなこねずみ
サムエル・マルシャーク/文
チャルーシン+レーベデフ/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳編)
■ おそばのくきはなぜあかい
石井桃子/文(日本昔話)
初山滋/絵
岩波書店編集
■ もりのおばあさん
ヒュウ・ロフティング/文
横山隆一/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ アルプスのきょうだい
ウルスリのすず+フルリーナと山の鳥
ゼリナ・ヘンツ/文
アロワ・カリジェ/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ 百まいのきもの
エリノア・エスティーズ/文
ルイス・スロボトキン/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ 村にダムができる
クレーヤ・ロードン/文
ジョージ・ロードン/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
第四回配本(1954年12月)
■ ひとまねこざる
エッチ・エイ・レイ/文・絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ はなのすきなうし
マンロー・リーフ/文
ロバート・ローソン/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ こねこのぴっち
ハンス・フィッシャー/文・絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ 九月姫とウグイス
サマセット・モーム/文
武井武雄/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)
■ ツバメの歌 +ロバの旅
レオ・ポリディ+アン・ノーラン・クラーク/文
レオ・ポリディ/絵
岩波書店編集(=石井桃子/訳)
■ どうぶつ会議
エーリヒ・ケストナー/文
ワルター・トリヤー/絵
岩波書店編集(=光吉夏弥/訳)当初これらの絵本の扉には訳者名が明示されず、ただ「岩波書店編集」とのみ記されたから読者は知る由もなかったが、外国絵本の翻訳にあたって石井桃子と並んで光吉夏弥の果たした役割は絶大だった。なにしろ二十二冊ある翻訳絵本のうち、実に十三冊が光吉の訳文なのである。マンロー・リーフの『
みんなの世界』も、ベーメルマンスの『
山のクリスマス』も、ロフティングの『
もりのおばあさん』も、H・A・レイの『
ひとまねこざる』も、リーフ&ローソンの『
はなのすきなうし』も、モームの『
九月姫とウグイス』もそうだし、英米作品ではなかったのにヘンツ&カリジェの『
アルプスのきょうだい』やケストナー&トリーアの『
どうぶつ会議』までもが彼の流暢で響きのよい訳筆の賜物だった。私たちは光吉に多大な恩義を蒙っている。
光吉夏弥 みつよし なつや (1904~1988)は本名を光𠮷積男
[つむを] といい、慶應大学で学んだのち、毎日新聞社に勤務する傍ら、早くから舞踊・写真評論の草分けとして活躍した。昭和初年に来日した舞踊家(サハロフ夫妻、ルース・ペイジら)や、日本舞踊の藤蔭静枝の事蹟を調べると、必ず同時代に光吉が書いた批評・紹介文に行きあたる。1936年創刊の先進的な舞踊誌『舞踊サークル』も光吉の編集になる。40年「皇紀二千六百年奉祝芸能祭」で初演された現代舞踊「創造」(作曲・指揮/深井史郎)の台本を担当した。彼はまた新興写真の支持者として海外グラフ雑誌・報道写真の動向にも詳しく、34年には木村伊兵衛、岡田桑三、渡辺義雄らとともに「国際報道写真協会」の設立に加わっている。
光吉がいつ、どんな契機から絵本に興味を抱くようになったかは詳らかでないが、時期的には恐らく1920年代末か30年代初めのことかと推察される。あらゆる機会を捉えて収集に勤しみ、英米を中心に世界各国の新作絵本を数多く手許に置いて愉しんでいた。前にもちょっと論じたことがあるが、光吉は1920~30年代に隆盛したロシア絵本の熱心なコレクターであり、その尽きせぬ魅力と劃期的な新しさを当時の誰よりも深く理解していた(
→光吉夏弥の慧眼)。
彼の絵本への情熱は、同時代の舞踊や写真への傾倒と恐らく無関係ではありえず、むしろそれらと直接の地続きだったと考えられる。いずれも20世紀に入って欧米で目覚ましい発展を遂げ、両大戦間に黄金時代を迎えた視覚を伴うジャンルであり、尖端的な海外新興芸術の目利きをもって任ずる光吉としては、絵本という斬新な表現領域にも無関心ではいられなかったのではなかろうか。
その光吉を「岩波の子どもの本」の企画・編集作業に引き入れたのは、ほかでもない石井桃子だった。石井自身の証言を引こう(田中泰子「石井桃子さんを訪ねて」 『カスチョール』十六号、1998)。
[...] 光吉さんはたーくさん外国の絵本などを持ってらしたの。目の利く方で、戦争で引き上げていった外国の人たちのおいていった本など、御自宅いっぱいに集めていらしたんです。それで私が岩波の重役さんに、光吉さんの本をお借りしなくちゃ、「子どもの本」、出ませんよ、って言ったんです。ほんとうに当時、資料になる本を持っている人、他にだれもいないんですよ。それで私が、重役さんを光吉さんのところへお連れして、お家の中にいっぱいの本を見せて、光吉さんに編集委員として入っていただいたんです。半ば強引に岩波書店を説き伏せて、光吉を同志として招いたということらしい。ところで光吉自身の回想では大筋はともかく、細部がちょっと違う(光吉夏弥「岩波の子どもの本 その発行のころのことども(一)」 『月刊絵本』1973年5月号)。
岩波が絵本をはじめるという話は、突然、起こった。去年 [こぞ] の夏ならぬ、二十年前の昭和二八年の九月も半ばすぎ、突然に、当時、岩波書店の嘱託だった石井桃子さんを通して、話があった。[...]専務(当時)の小林勇さんが、そのことでお宅へ伺うから、目ぼしい絵本を見せてあげてほしいという石井さんの話だった。けれども、わたしは、わざわざ小林さんがお越し下さらなくても、また、選び出してもない絵本をご覧になってもと思い、それより岩波書店で相談にはいった方が何かと便利だろうと考え、鎌倉から見える小林さんが品川駅で降りて、雪ヶ谷の拙宅に車を向けられるのを、駅で待ち受けることにした。
そして、いっしょに書店へ直行して、石井さんと三人で、すぐに相談にはいった。こちらはなにしろ当のご本人の思い出、しかも微に入り細を穿っている。二十年後の時点での記憶なのだから信憑性が高いのでないか。
それにしても慌ただしい話である。「昭和二八年の九月も半ばすぎ」というのだから、12月の「岩波の子どもの本」創刊まで三か月弱しかない。編集者でもあった光吉が「すぐに相談にはいった」ほうが賢明と判断したのは当然なのである。
この日、岩波書店で初めて一堂に会した石井桃子と光吉夏弥、そして小林勇の三人が話し合った結果は次のとおりだった。
1・絵本は消耗品だから、できるだけ安い、買いよいものにすること。
2・規格は統一し、判型はこれこれ、ページ数もほぼ同じにする。
3・右開きで、タテ書き。外国の本で、レイアウトを変えなければならないものは、編集し直す。
4・世界の代表的な絵本を主とし、日本の画家によるものも加える。
5・小学一、二年と、それ以前を対象とするものと、三、四年を対象とする、少し読む分量が多いものとの二本立てとし、第一期は二十四冊、十二月はじめに、まず六点をだす。なるほど、これらの方針はそっくりそのまま貫徹され、「岩波の子どもの本」の特色となった。「2」で定められた規格とは、判型は天地20.5×左右16.5 cm、頁数は六十を基本とする。「3」の「右開き・縦書き」は当時の出版界の常識だったが、ここには実に大きな問題が潜んでいた。それについては別項で後述する。
光吉の回想はそのあと更にこう続く。
──といったことが、一時間足らずのうちにきまった。そして翌日にはもう、ちゃんとした製本のツカ見本ができてきていた。これでなくちゃ、と私は思った。私は新聞社にいたころも、ずっと編集畑で、早い仕事は大好きだったので、小林さんのこの即断即行主義に、一も二もなく乗ってしまったわけだった。書店の幹部の方にも、なにがどうきまり、どう選ばれることになったのかわからなくて、あとで聞きに見えたくらいだった。「即断即行主義」と云えば聞こえはよいが、刊行まで残り時間は三か月を切っていた。刊行時期やシリーズの冊数、規格・判型など肝腎な方針がこの段階にやっと決まったのだとすれば、いくらなんでも遅すぎる。しかも三者の初顔合わせの場でいきなり衆議一決している。むしろ遅延と拙速が入り混じった現場だったと云うほうがよほど正確だろう。まあ本の製作にいつも付き纏う通弊なのであるが。
その日から、石井さんと私は、書店の裏口にあった二階の日本部屋で、持ち寄った本の選定にかかった。西日のさす暑い部屋だった。そのあと、編集室にした食堂の上の部屋も暑くて、冬は寒い部屋だったがと、いまでもそれが懐しく思い出される。
とにかく、私たちはいそがなければならなかった。十二月はじめまでに四色刷の絵本を六冊そろえるとなると、翻訳、編集、印刷、製本のすべてをふくめて、わずか二か月しかない。割付用紙や、この絵本の字詰の原稿用紙も作らなければならない。それやこれやの雑務もまじえて、私たちは夜おそくまでがんばった。そして、この判型とページ数におさまる候補十数点を選定して、数日後に書店側の人たちと第一回の会議をもった。というよりも、選んだ本の説明会のようなものが開かれた。そして、次の六点でスタートすることになった。
『ちびくろ・さんぼ』
『ふしぎなたいこ』
『ねずみとおうさま』(以上幼・一・二年向き)
『みんなの世界』
『スザンナのお人形/ビロードうさぎ』
『山のクリスマス』(以上三・四年生向き)それまでにも準備を進めてきた石井桃子はともかく、この日が「仕事始め」だった光吉夏弥はさぞかし目の回る忙しさだったろう。なにしろ12月の初回配本用に、『ちびくろ・さんぼ』と『みんなの世界』と『山のクリスマス』──三冊の絵本の翻訳を一から始めなければならなかった。いくら光吉が「早い仕事は大好き」といっても、これは相当に過酷な労働条件である。石井桃子・四十六歳、光吉夏弥・四十八歳。働き盛りのヴァイタリティと、絵本にかける情熱だけが頼りだった。
この時期の忙しさの記憶は、二十年後の石井桃子の脳裏にもまざまざと刻まれている(「『岩波の子どもの本』の頃」 『月刊絵本』1974年2月号)。
[...] 「子どもの本」の編集の当時は十二時前には帰ったことがなかったくらいですよ。日曜日も休んだかどうか・・・・・・よくもからだが続いたと思う程。少年文庫も並行してやっていましたので、人数も増やしてもらいましたが、全員日夜やりっぱなしで [...]。本気に子どもの本をつくろうとすると、じつに時間がかかるのです。このとき二十九歳で岩波書店の編集者として作業に携わった乾富子の回想も併せて引いておこう。やはり忙しさの印象は変わらない(いぬいとみこ「『岩波子どもの本』こぼればなし」 『月刊絵本』1974年2月号)
当時私も「子どもの本」の編集スタッフの一人だった。岩波少年文庫の発行は月二冊で、その年もちゃんと二十四冊の少年文庫を出した上、九月から十二月十日までに、六冊の「子どもの本」──「ちびくろ・さんぼ」「ふしぎなたいこ」「ねずみとおうさま」「スザンナとお人形/ビロードうさぎ」「山のクリスマス」──の編集、製作にあたったのだから、仕事はたいへんに、きつかった。
しかし外国の絵本との出会いといえば、一九四九年ごろ、大阪の淀屋橋ちかくにあったアメリカ文化センターの図書館で、原書の "Oley" (海のおばけオーリー)とか、"The Little House" (ちいさいおうち)をみつけてすばらしいと思った経験しかなかった私には、何十冊もの外国絵本を日夜手にとってみられる、この新しい仕事は魅力的だった。その上じっさいに「子どもの本」の編集がはじまると、連日連夜が新しい発見にみちていたので、つらいと思うひまなくすごした。(残業につづく残業にもかかわらず。)実際の編集作業についても乾は貴重な証言を残している。
対象が幼児だから、耳からきいてわかることばで・・・・・・というので、「子どもの本」の翻訳にあたっては、光吉夏弥、石井桃子両氏の訳された文章を、一ページずつ音読してみなで検討した。未経験のわかものたちが、思い思い勝手な意見をだすので、一冊六四頁分の決定訳をつくるまでに、何時間つづいて何日間もかかった。訳者のお二人は内心へきえきされたことも多かったと思うが、新しいしごとに熱中する編集スタッフたちは、遠慮えしゃくがなかった。
原書をにらみにらみ、光吉氏と石井さんとの微妙な解釈のちがいを通して、原文どおり [傍点] と原文ばなれ [傍点] のそれぞれの限界を、実地に学んでいった夜が忘れがたい。翻訳とは、語学力ももちろん大事だが、日本語の表現力の問題であると改めてさとらされた。なるほど、それでよく理解できた。初期の「岩波の子どもの本」では訳者名が明記されず、ただ「岩波書店編集」とだけ記されていた理由が。それらの訳文はまさに編集部全員による協働作業の賜物だったからである。
(明後日につづく)