ラヴェルは [コレットが書いた] このお伽の詩を狂喜して受け入れることになった。それもそのはず、この詩は、かれの怪奇趣味への傾向と、動物への愛着と、人間に対する羞恥心とを同時に含んでいるではないか。だからこそ、木々とけものたちがひとつの魂をとり戻したこの庭で、コレットの夢から生まれた森の奇跡を目前にして、ラヴェルがすっかり感動させられてしまったのである。[…]この叙情的な幻想曲は、ラヴェルがきらびやかなオーケストラの粉飾を捨て、純粋のメロディを発見した作品群に属する。[…] 孤立した各部分がそれぞれのスタイルをもっていて、ラヴェルの芸術のまことに多様な面をいろいろ見せてくれる。
すなわち、ティー・ポットと陶器の茶わんの「フォックス・トロット」、小さな雨蛙たちの「一九〇〇年型ワルツ」、火が吐き出す「正歌劇(グランド・オペラ)」調のトリルと母韻発声(ヴォカリーズ)、最後の晴れ晴れとした、ほとんど古典的とも言える美しさ。そして、これらすべてにおける非凡な点、それは、この混合されたスタイルと、さまざまな色彩のわななくような感触が、ひとつの均質で構成のよい全体を形作っているのが見られるということではなかろうか。──E・ジュルダン=モランジュ『ラヴェルと私たち』 安川加寿子・嘉乃海隆子訳、音楽之友社、1968、pp.142, 145-46昨年の夏、英国
グラインドボーン歌劇場が「子供と魔法」と「スペインの時」を二本立興行すると風の便りに耳にした。1987年の上演以来、実に四半世紀ぶりの快挙である。といっても昔の舞台の再演ではなく、全くの新演出だというから弥が上にも期待は高まる。世評の定まったモーリス・センダック美術による旧版を凌駕する自信がなければ敢えて新版を世に問うたりはしないだろうからだ。
うゝむ、これはなんとしても観てみたいものだ。グラインドボーンは倫敦から電車で一時間ちょっとだから遠隔地でもない。とはいえここは貴族の邸宅内に建つ格式高い歌劇場だから特段に敷居が高い。観客には正装が義務付けられると聞かされるともう怖気づいてしまう。まあ、いずれ収録映像が市販されるだろうから、わざわざ出向くには及ぶまい…などとあれこれ思案していたら、「ガーディアン」紙のサイトで期間限定ながら一部始終が居ながらにして視聴できることに気づいた。いやはや便利な時代になったものだ(わが国でも昨秋NHKが深夜に放映したというから、こちらを観た方もおられよう)。
新演出の「
子供と魔法」は驚くべき見ものである。
幕が上がるや度肝を抜かれること必定だ。子供部屋を思わせる設えは下手の壁紙だけ。あとは暗がりに覆われた舞台には巨大な椅子と机がどっかと鎮座し、そこに「子供」がちょこんと坐っている(
→これ)。
まるで「不思議の国のアリス」の一場面のようにシールで不可思議な光景に意表を突かれ、客席からはどよめきと笑い声が巻き起こる。勉強にさっぱり身が入らない悪戯坊やを諭す「母親」もまた法外に大きな身の丈で登場する。いやはやなんとも見事な導入である。このオペラがシュルレアリスム宣言とほぼ同時期に初演されたことを否応なく想起させる秀逸な幕開けだ。
癇癪玉を破裂させた「子供」が乱暴狼藉をはたらくや、椅子と机はしずしず上手へと姿を消し、どこからともなく「肘掛椅子」と「安楽椅子」が登場して、リュテアルの神秘的な音色に伴奏されながら奇怪なデュエットを唄う(
→これ)。
二脚の「椅子」たちが退場するのと入れ替わりに巨大な「時計」が現れ、喧しく騒音を撒き散らしながら舞台狭しと転げまわる(
→これ)。滑稽な悪夢である。
唖然とする暇もなく上手からは冒頭の大机が再び姿を現す。卓上にはシノワズリーのティーカップとウェッジウッド製の黒いティーポットが並んでいる。世にも珍妙にして奇抜な「中国茶碗」と「ティーポット」の二重唱の始まりだ(
→これ)。科萊特和拉威尔的奇思妙想是完全物化在这样的表现。这是非常精彩!
演出の創意がとりわけ際立っていたのは、暖炉の「火」がコロラトゥーラで歌う場面の夢幻的な味わいだろう(
→これ)。凡百の演出家なら、炎を象った衣裳を着けた歌手に部屋中を徘徊させるところだが、ここでは思い切ったクレーンの使用が奏功して、劇中の「子供」ならずとも思わず目を瞠るような効果を発揮していた。これにはちょっと鳥肌が立つ。
もうひとつ忘れがたいのは、「子供」がびりびりに破いた壁紙の「羊飼」たちが哀れな境遇を口々に訴える合唱場面だろう(
→これ、
→これ)。18世紀ロココ風の白一色の衣裳を纏った群衆がしめやかに歌う一場の哀切な美しさといったら!
・・・こうして順を追って紹介しているとキリがない。どの場面にも目に鮮やかな華があり、周到な工夫が凝らされている。演出家
ローラン・ペリー Laurent Pelly (
→この人)は過去の様々な上演例をよほど丹念に研究したに違いない。 因みに衣裳を担当したのもペリー自身である。
オペラの後半は庭が舞台。思うにラヴェルが書いた最も天才的な音楽である。庭そのものが主役となり、虫たちと小動物たち、そして植栽たちが歌い奏でる類い稀な「夜の音楽」だ。そして最後に訪れる感動的な「赦し」と「和解」。
ペリーの演出はここでも巧妙に夜のしじまを醸し出す(
→これ、
→これ、
→これ)。「木々」や「蛙」(
→これ)の性格づけも的確にして鮮やか。とはいえ、前半に較べると機知や工夫はぐっと影を潜め、むしろ率直に平明に、そのまま音楽の流れに身を任せるといった風情。でもそれでよかったのだと思う。
ラストシーンは飛び切り秀逸である。動物たちに赦された「子供」は最後の最後に「ママン…」と呟く。あの場面である。過去の舞台だと、ここで場面が冒頭の子供部屋に戻って、「母親」の胸にひしと抱かれたり(1987年のグラインドボーン演出)、動物たちが拵えた母親の似姿に攀じ登ったり(イジー・キリアーン振付)する。すなわち母との直接的な再会を果たすのだが、これらの演出はコレット=ラヴェルの台本に背馳している。すなわち元の「ト書き」にはこうある(拙訳)。
家のなかで窓硝子越しに灯りがひとつ点燈する。と同時に月が雲間から現れ、薔薇色がかった金色の曙の光がくっきりと庭を照らし出す。夜鶯の歌、木々と動物たちの呟き。もう子供を支える必要がなくなったので動物たちは一匹また一匹と子供の傍から遠ざかり、だが少し離れた場所で彼を見守り、歓びの羽ばたきや宙返りで祝福する。そして木蔭で親しげに列をなしつつ、子供をそっとひとりにする。月光と曙光に明るく照らされて佇む子供は、動物たちが「ママン!」と呼びかけるところの女性に向かって両腕を差し伸べる。直訳調で恐縮だが、要するに「母親」が子供の傍に登場するとは一言も云っていないのだ。むしろ「
家のなかで窓硝子越しに灯りがひとつ点燈する」とあるように、彼女は家に留まったまま、窓越しに庭の様子を見下ろしているのだと察せられる。今回のペリー演出は聡明にもこの「ト書き」の指示に立ち返り、この感動的な最終場面を台本どおりに視覚化した(
→これ)。素晴らしい幕切れである。
[…] ラヴェル自身が長々と語ったところによると、《スペインの時》の登場人物は、社会の縮図になるらしい。コンセプシオンという役は、ひとりの女性ではなく、女性と云う存在の象徴として描かれる。女性というのは、マリオネットの遊戯のそうにさまざまなタイプの男性たちを操るのである。
ドン・イニーゴ・ゴメスという老いぼれの大銀行家が出てくるが、ラヴェルはこの人物を軽んじていない。愛情さえ持ってこの人物を扱っているのはたしかで、音楽・声の両面でうまく処理している。ゴンサルヴェのほうは、若者だ。トルケマダは、たしかにある狭い意味では、コキュであり、みなの笑い者になる存在だ。ひとりの女性に、このような複数の男性が思いを寄せているわけだ。ラヴェルもこの状況を冷やかし半分に楽しんでいるが、ごく普通の人たちの心の底にある愚かな側面もからかっている。「コキュ」という言葉 […] にはかなり憂鬱なものが含まれているからだ。そこにはラヴェルなりの人間喜劇が集約されているのである。
さてラミロも登場するが、彼には「真の意味での対話」がない。ラヴェルはここで、「スペインのオペラ」をからかっているのである。[…] 彼はスペインではおなじみの頑強な男、つまり闘牛士と似ており、ラバ曳きだからだ。エスカミーリョの変形ということだろう。[…] ラミロは《カルメン》のパロディでしかない。ラヴェルは、《スペインの時》の登場人物たちが、ただ時計について語っているようでいて、じつはそこにセクシャルな問題をあれこれそこに重ねていることをよく知っている。こういったことが意識的に行われているのは、たしかだ。[…] ラヴェルはこうして、小さな額縁のなかで絵を描くように、すべての人間の姿を見つめているのである。──マニュエル・ロザンタール『ラヴェル その素顔と音楽論』 マルセル・マルナ編、伊藤制子訳、春秋社、1998、pp.24-25こうしてダブル・ビルで上演されると、ラヴェルが二本のオペラでいかに対照的な世界を描いたか、否応なく実感されよう。無垢な子供時代へのオマージュに対し、こちらは際どい艶笑喜劇。ひとつ前のエントリーで「子供と魔法」に関して「
ここにはラヴェルがレパートリーとする殆どすべてがある」と断言したが、そこで唯ひとつ意識的に避けられているのが「スペイン情緒」であり、それこそが彼の前作オペラ「
スペインの時」の虚構の世界を成立させる大前提なのである。
さて今回のグラインドボーン「スペインの時」上演では舞台を18世紀から現代に移している。これは現今のオペラ界の常套手段(ジョナサン・ミラーが「カルメン」の設定を内戦下1930年代スペインに改めたのを皮切りに、「カルメン」読み替え演出は枚挙に暇がない。昨年はエディンバラで同じ18世紀スペインを舞台とするプロコフィエフ「修道院での結婚」を1980年代に移し変えたアルモドバル風の演出もあった)だろうからまあ怪しむには及ばない。ここで舞台となるのは現代スペインのトルケマダ時計店。新旧とり混ぜて様々な時計が所狭しと並ぶ(
→これ)。下手側には古道具屋さながら雑多な品々が乱雑に置かれている(
→これ)。
動画が始まるや「おや、これは!」と気づく。この演出・装置を観るのはこれが最初ではない。実はこのペリー演出は昨年のグラインドボーン公演がお披露目ではなかったのである。2004年にパリのオペラ座が小澤征爾の指揮で同じプロダクションを上演している(全曲の映像もある。
→これ)。前年には「小澤征爾オペラ・プロジェクト」として同演出による日本公演もあったそうな(横須賀・川口・東京/「ジャンニ・スキッキ」と二本立)。
なあんだ、再演だったのか。となると「子供と魔法」のような新鮮な驚きに乏しい。だから駄目と云うのではないが、この現代版「スペインの時」は目先の新しさの割りに、演出自体にさしたる特色もなく、まあ「普通に面白い」中庸の出来に留まっている。そもそも時代を移し変えたメリットが感じられない(現代に騾馬曳きは不似合いだろう)。旧来のコスチューム・プレイ仕立てのほうが余程しっくりくる。
閑話休題(よしなしごとはさておきつ)、ラヴェルの二歌劇ダブル・ビルを一夜で観劇するのはわが年来の夢であった。「スペインの時」だけはパリのオペラ=コミック座の舞台を1999年に実見できたものの、そのときはプーランクの「ティレジアスの乳房」との二本立。おいそれと願いは達成できないのである。
演奏会形式ならば東京都響(1987)とN響(1992)の定期公演で二本立を耳にしたことがあるが(どちらも若杉弘の指揮だった)、満足のいく舞台でとなると国内ではまず絶望的。2005年だったか、東京藝大の学内公演で二本立上演を観るには観たが、まあこれは学芸会に類するものだったから、数のうちには入るまい。
だからつい先日、長野の松本で行われた二本立上演は遠路遥々出向くに値する目覚ましい企てだった。なにしろ昨年のグラインドボーン公演と同演出だという。疾うに全席完売と聞いていたから端から諦めていたら、畏友の平林直哉君が強く誘ってくれ、8月25日の切符を融通してもらえた。有難いことだ。
その感激はとても筆舌には尽くせそうにない。ただただ夢のような一夕だった、とだけ今は記しておこう。「子供と魔法」と「スペインの時」の二本立は小生にとって生涯最高のダブル・ビルであり続けるだろう。