《子供と魔法》の重要性は、これまで十分に強調されてはこなかったと思われる。これはラヴェルの主要作品のひとつだが、ラヴェルのもっとも秘密めいた感覚や意見が隠された、心情の吐露だとみなされるもので、《子供と魔法》は、子供時代だけではなく、すべての人間にかかわる作品だと言えよう。
──マニュエル・ロザンタール『ラヴェル その素顔と音楽論』 マルセル・マルナ編、伊藤制子訳、春秋社、1998、pp.189-190
すべての人間にかかわる作品──まことにもって当を得た指摘だ。さすがに愛弟子ロザンタルは知り尽くしている。漫然と接すると奇抜で騒々しいだけのお巫山戯オペラだと誤解されかねないが、「
子供と魔法 L'enfant et les sortilèges」こそはラヴェル芸術の精華にして畢生の大傑作、というのが永年これを鍾愛する小生なりの見立てである。
無垢の幼年期に対する憬れ、愛おしい母への思慕、動物と「小さきもの」に注ぐ愛情、新奇な音楽を追い求める飽くなき好奇心、異国ふうの紛い物への偏愛、趣味のよい悪巫山戯(あるいは高貴と卑俗との絶妙なアマルガム)、秘術を尽くした精密巧緻な管弦楽法…。ラヴェルならではの嗜好性と美意識がこの独創的なオペラのあらゆる細部に息づいており、ここにはラヴェルがレパートリーとする殆どすべてがある──そう断言しても間違ってはいないだろう。
だがその上演には多くの困難が待ち受けている。なにしろ登場人物が途轍もなく奇想天外だ。人間は主役の「子供」とその「ママン(母親)」だけ。あとは安楽椅子と肘掛椅子、ティーポットと中国茶碗、牡猫と牝猫の二重唱やら、蜻蛉や雨蛙や蝙蝠、火(!)や樹木(!)や算術の擬人化(!)のアリアやらが、これでもかと繰り出される。オペラ史上ここまで常軌を逸した登場「文物」はちょっと例を見ないだろう。こんな破天荒な台本をぬけぬけと提出したコレットもコレットなら、それを更に加筆・改変して自分好みにカスタマイズし(コレット女史と喧嘩にならなかったのが不思議なほどだという)、自在に音楽化したラヴェルもラヴェルである。漫画やアニメ映画ならともかく、これらすべての役柄を生身の人間が舞台で演ずるのだから、これはもう殆ど無謀な企てに等しいのである。
1925年のモンテカルロ初演(指揮/ヴィクトル・デ・サーバタ)と翌26年のパリ初演(指揮/アルベール・ヴォルフ)は画像資料に乏しく、舞台の詳細が明らかでないが、ラヴェル歿後の1939年パリのオペラ=コミック座が再演した舞台(指揮/フィリップ・ゴーベール)は現存する資料から察すると、
ポール・コランの手がけた装置・衣裳がモダンで垢抜けており(衣裳デザイン
→子供、
→牡猫、
→算術翁)、これは一見に値する愉しい舞台だったと想像される。
戦後の再演のうち、管見の限りで注目に値するのは1979年パリ・オペラ座の新演出であろう(指揮/小澤征爾)。このときの模様はTV放映時のヴィデオ映像が残っており、小気味よい躍動的な舞台だったと記憶する(演出/Jorge Lavelli、美術/Max Bignens)。
だがなんといっても「子供と魔法」上演史に新時代を劃したのは、1981年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場が世に問うた「パラード」「ティレジアスの乳房」とのトリプル・ビルだろう(指揮/マニュエル・ロザンタル)。このとき起用された舞台美術家が誰あろう
デイヴィッド・ホックニーである(デザイン画
→子供、ティーポット、中国茶碗、
→絵本と姫、
→夜の庭、蝙蝠と蜻蛉)。実見した人の話だとこれは圧倒的に美しい舞台だったそうだが、映像記録(どうやら現存するらしい)を観たことのない小生にはこれ以上その成否を論ずる資格がない。
さて今日われわれが実際の舞台を細部まで詳らかにする最初の上演は、1987年にグラインドボーン歌劇場で披露されたフランク・コルサーロ演出版ではなかろうか。これは昔ヴィデオやLDで出たことがあり、今でも輸入盤DVDで容易に鑑賞できる(ここでも観られる。
→その一、
→その二、
→その三、
→その四、
→その五、
→その六)。ラヴェル好きなら知らぬ者とてない映像だから多言を要すまいが、このとき三十二歳の若さでタクトを執ったのがサイモン・ラトルである。
だが何よりも目を惹くのはこのプロダクションの舞台美術を
モーリス・センダックが担当したという事実である(ダブル・ビル公演のもう一作「スペインの時」も彼の仕事)。彼はグラインドボーンで自作絵本に基づくオリヴァー・ナッセンの二つの新作オペラ、更にプロコフィエフの「三つのオレンジへの恋」の舞台美術も手がけているのだが、「子供と魔法」がことのほか興味深いのは、そのプロットが彼の絵本の代表作「かいじゅうたちのいるところ Where the Wild Things Are」(1963)と瓜二つであるという点である(子供が母親に反撥して「冒険の旅」に出るが、最後は彼女の許に戻る)。果たして偶然の一致なのか。むしろラヴェルのオペラこそはセンダックの絵本の「原型」なのだと云いたくなる。
ところで肝腎の「子供と魔法」の舞台美術なのだが、期待が大きすぎたためだろうか、こんなものかと微かな失望を覚えたものだ。なるほど台本に忠実に各キャラクターをそれらしく造形してはいるものの、およそセンダックらしい想像力の飛翔に乏しく、登場人物は些か演技過剰でコルサーロの説明的な演出が煩わしく感じられる。先ほど久しぶりに全曲を視聴してみたが、やはり感想は変わらなかった。映像用にあちこちアニメーションを付加して実際の舞台を補完している工夫も感心しない。むしろ同時上演された「スペインの時」のほうが小ぢんまりしたセットにセンダックらしさが無理なく発揮されているようだ。
手近に鑑賞できる映像版「子供の魔法」で文句なく推奨に値するのは、グラインドボーンに先立つ1984年、オランダ・ダンス劇場(Nederlands Dans Theater)で
イジー・キリアーンが振り付けたバレエ仕立ての舞台(定評あるロリン・マゼル指揮の全曲盤に合わせてダンサーたちが演ずる)のほうであろう。これも全篇ネット上で観られる (
→その一、
→その二、
→その三、
→その四、
→その五)。
何よりもまずダンサーたちの自在な起居振舞に目を奪われる。かくも円滑でアクロバティックな身体表現はオペラ歌手には到底なし得ないものだ(主役の「子供」も傍観者に留まらず踊り続ける)。夢幻的な世界を現出させる舞台美術も秀逸だ(装置・衣裳/John MacFarlane)。キリアーンの振付は随所に創意工夫が凝らされ、キャラクターの性格づけも各場面の描き分けも巧みで飽きさせない。この弾けるような躍動感がオペラの舞台で実現できたらどんなに素晴らしいだろう。
永年このオペラに手元の十数種の音盤(と何度かの演奏会形式上演)を通してのみ親しんできた者として、いつの日か理想に適った──このキリアーン版バレエすら凌駕するような──舞台に接したいものだと密かに念じてきた。その機会が現実には容易に巡ってはこないものと知りながら。
なにしろ難物である。よほど想像力に富んだ演出家と美術家とがチームを組まない限り、理想的な上演は実現しそうもない。いつしか「子供と魔法」は耳だけで愉しむオペラ──舞台に掛からぬレーゼドラマのようなもの──だと考えるようにすらなっていた。わざわざ不満足な上演に足を運んで夢を壊すには及ぶまい、と。
(次回につづく)