十年一昔というけれど、確かにそうだという実感がある。私事になるが十年前の夏はまだ美術館の学芸員だった。ただしもう周囲には引退を公言し、十五年間も務めた稼業から足を洗う決断をしたところだった。五十歳で潔くリタイアし、これからは自分のやりたいことを優先させる──こう書くと聞こえがいいが、その少し前に林美雄さんが五十八で呆気なく早世したことが頭から離れず、「今のうちに次の一歩を踏み出さなければ」と焦っていた。与えられた時間は有限なのだ、と。
取り組むべき課題はあちらから舞い込んできた。兵庫の芦屋市立美術博物館から「ロシア絵本で展覧会をやりましょう」と強く誘われたのだ。この館に寄託された吉原治良旧蔵のロシア絵本八十七冊は戦前からずっとこの地にあり、日本でも同時代にそれらの受容がなされたことを強く示唆する。適宜ここに拙コレクションから不足分を補ってやれば1920~30年代のロシア絵本ムーヴメント全体を通観する展覧会ができそうだ、というのが当初からの目論みだった。ただしスタートまで残された準備期間はもうあと半年しかない。
芦屋の学芸スタッフは大いに乗り気だったが、小生の胸中はなんだか複雑だった。二十五年もの間、誰にも告げず、家人にも内緒でこつこつ収集してきた者としては、皆に自慢したい気持ちとこっそり隠しておきたい思いとが相半ばで交錯し、嬉しいような嬉しくないような心境だったのである。
だが、そうも云ってはいられない。出品する絵本を内容別に七つのセクションに分け、そこにプロローグとエピローグを加えて全体を構築するとともに、個々の絵本の内容を読み解き、関わった画家や作家についての情報を躍起になって集め始めた。なにしろ急に降って湧いた話なので、心の準備がまるで整っていなかった。
そもそも参照できる文献が数えるほどしかない。エラ・ガンキナ女史の有名なソ連絵本・挿絵史の労作(1977)はあったけれども、革命前後から1930年代前半まで百花繚乱のロシア絵本の黄金期に特化したモノグラフ(個別研究書)はといえば、小生の知る限り世界にたった四冊しか存在しなかった。
ジェームス・フレーザー、島多代(編)
ソビエトの絵本 1920-1930
リブロポート
1991 →表紙■ 編者らが集めた稀少なコレクションから六十五冊を選りすぐり、オールカラーで紹介した先駆的な画集。今なお世界中でレファレンス・ブックとして尊重される。多くの絵本がニューヨークで収集されたというのも興味深い。版元倒産のため絶版。
Erast Davidovič Kuznecov
L'illustrazione del libro per bambini e l'Avanguardia russa
Firenze: Cantini
1991 →表紙■ 相前後してイタリアで刊行されたロシア絵本集成。グルジア出身のエラスト・クズネツォフの個人コレクションから百五十八の図版で紹介する。ここでしか見られない珍しい絵本が多く含まれ、イタリア語を解さぬ読者にも充分に楽しめる画集。
Марк Рац и Юрий Молок
Старая детская книжка 1900-1930
Москва: А и Б
1997 →表紙■ 収集家マルク・ラーツの個人コレクションをモスクワ(?)で展観した際のカタログ。展覧会には絵本五百七十三点のほか、原画、肖像画、ポスターなど膨大な数が出品されたようだが、掲載図版が少ないのが惜しまれる。限定千部出版。
Françoise Lévèque et Serge Plantureux (ed)
Dictionnaire des illustrateurs de livres d'enfants russes
Paris: Agence culturelle de Paris
1997 →表紙■ パリのフォルネー図書館で催され、四百冊以上の絵本が並んだ劃期的な大展覧会 Livres illustrés russes et soviétiques pour enfants 1917-1945 に際して刊行。挿絵画家事典の体裁なのでモノクロ図版のみだが、画家情報が詳細。ロシア絵本とフランスの「ペール・カストール」絵本の連続性を検証し、後者の主力画家だったナタリー・パラン旧蔵のロシア絵本コレクションを初公開した。
とにかくこれら文献と首っ引きの毎日。幸いにも四番目のパリでの展覧会に遭遇し、目を皿のように玩味鑑賞した経験があったから、そのときの記憶を糧にコンセプトを練り上げていく。フランス人がロシア絵本と自分たちの文化との強い絆を見出したように、日本で日本人が日本にあるコレクションのみを使ってロシア絵本展をやる意味とは何かを熟考した。まさに「無い知恵を絞って」である。
かくして「老後の愉しみ」として取っておいたつもりだった我がロシア絵本研究は、芦屋の連中に急かされ、いわば尻に火が点いたような塩梅で、露西亜語の解読も儘ならぬ有様の「俄か勉強」と相成った次第である。もとより準備不足は誰よりも自覚していた。なんとも恥ずかしい。だがもう「やるしかない」のだ。
何事もやってみないと分からない。2004年から05年にかけて芦屋・足利・東京・函館・大分・下関で開催された「
幻のロシア絵本 1920-30年代」展は思いも寄らぬ未曾有の成功を収めた。殆ど未紹介で知名度は零に等しい特殊な内容にもかかわらず、どの会場でも熱い眼差しと真摯な関心を集めたのは企画者として望外の倖せだった。可愛さを愛でるだけの対象ではない、絵本は時代をまざまざと映し出す鏡であり、才能ある大人たちが全身全霊を傾けた「命がけの」所産なのだ、というメッセージがここまで鑑賞者に伝わるとは予想だにしなかった。
最も思いがけなかったのは「芸術新潮」誌が七十頁にも及ぶ巻頭特集を組んだことだ。レオナルドやゴッホや北斎や若冲ではなく、ロシア絵本が大特集されるなんて誰が想像しただろう。ましてや小生の「語りおろし」が全面的にフィーチャーされるとは・・・。嬉しいことに反響は絶大で、雑誌は完売したと聞く。
渦中にいたときは無我夢中だったのだが、あの時期「幻のロシア絵本」展をやっておいて本当によかったのだと今にしてつくづく思う。何故ならば、頼もしい共同企画者たる芦屋のミュージアムはほどなく深刻な経営難に見舞われた挙句、理不尽な成り行きから学芸員全員が退職に追い込まれてしまったからである。吉原治良の遺族から寄託されていたロシア絵本ももはや収蔵していないと風の便りに聞く。だから展覧会をやれたのはまさしく僥倖だった。というか、あれこそ唯一度、二度はない展覧会、正真正銘のラスト・チャンスにほかならなかったのだ。
もうひとつ、これは十年経った今だから断言できるのだが、我々の展覧会は大きな世界的潮流の真只中にいたのである。当人たちにその自覚は全くないままに。
「幻のロシア絵本」展前後から今日に至るまで、ロシア絵本にまつわる展覧会と主要な出版物を、管見の限りで年代順に列挙してみる。
2002年◆ニューヨーク近代美術館で「ロシア・アヴァンギャルドの書籍 1910-1934」展を開催。「児童書 1917-1931」なるセクションでリシツキー、レーベジェフらの絵本を展示し、革命直後の「セヴォードニャ」グループの私家版絵本まで紹介。Margit Rowell and Deborah Wye
The Russian Avant-Garde Book 1910-1934
New York: The Museum of Modern Art, New York
2002 →表紙■ 上記MoMAでのロシア・アヴァンギャルド書籍展の大部なカタログ。アヴァンギャルド・グラフィック史にロシア絵本を正当に位置づけた意義深い展示だった。
2003年◆米国アマーストのエリック・カール絵本美術館で「銀の時代からスターリンへ: ロシア児童書のイラストレーション」展を開催。百冊以上の絵本が展示された。From the Silver Age to Stalin:
Russian Children's Book Illustration
Amherst, Mass.: The Eric Carle Museum of Picture Book Art
2003 →表紙■ このあと世界各国で相次ぐ一連のロシア絵本展の嚆矢となった展覧会のカタログ。瀟洒なデザインが美しい図録だが、絵本の図版掲載は二十冊ほどに留まる。
2004年◆2月、芦屋市立美術博物館で「幻のロシア絵本 1920-30年代」が開幕。吉原治良旧蔵の絵本八十七冊を核に、約二百五十点の絵本で構成。原弘の三十九冊、柳瀬正夢の十一冊(最終的に十九冊)が一堂に会することで、同時代の日本への伝播・受容を明らかにした。同展は翌年にかけ足利市立美術館、東京都庭園美術館、北海道立函館美術館、大分市美術館、下関市立美術館へも巡回。芦屋市立美術博物館、東京都庭園美術館(企画・監修)
幻のロシア絵本 1920-30年代
淡交社
2004 →表紙■ 上記の展覧会カタログ。書籍として市販された。平井章一と沼辺信一の論考は1930年代に大阪と東京とでなされたロシア絵本の受容をそれぞれ考察。ロシア・アヴァンギャルド美術との関係についてはアレクサンドラ・シャツキフ女史が、ロシア文化としての絵本の特質については鴻野わか菜が、鮮やかな論考を寄せる。
沼辺信一(監修)、鴻野わか菜、古賀義顕(訳)
「幻のロシア絵本」復刻シリーズ(全10巻)
@museum
2004 →外箱 →タトウと本体■ 上記の展覧会にあわせて刊行されたロシア絵本十冊の覆刻版セット。マルシャーク+レーベジェフ「サーカス」「荷物」、マルシャーク+コナシェーヴィチ「火事」、マルシャーク+ツェハノフスキー「郵便」、ユージン&エルモラーエワ「紙とハサミ」ほか。最新のデジタル撮影と微小な網点を採用した特殊印刷で往時の石版の風合いを忠実に再現した。各タトウ入り、解説と全テクストの日本語訳を同封。
沼辺信一(解説)
ロシア絵本のすばらしき世界
「芸術新潮」2004年7月号
新潮社
2004 →表紙■ 上記の展覧会の東京開催にあわせ七十頁にわたってロシア絵本を巻頭特集。足利展会場で絵本の特撮を行い、企画者の沼辺が薀蓄を傾けてその魅力を語る。ロシア絵本「火事」を絶賛する寺田寅彦のエッセイ、同時代の日本への影響の詳細、収集にまつわる秘話など、本特集でしか読めない内容が盛り込まれる。
◆ネイメーヘン(オランダ)のファルクホーフ美術館(Museum Het Valkhof)で「ロシアのお伽噺: 20世紀初頭ロシアのブックアートとグラフィック」展を開催。ロシア挿絵本全般を扱うが、ビリービンや「セヴォードニャ」私家版絵本を含む。Albert Lemmens en Serge-Aljosja Stommels
Een Russisch Sprookje: Russische boekkunst en grafiek
uit het begin van de 20e eeuw
Nijmegen: LS
2004 →表紙■ 上記の「ロシアのお伽噺」展(2004年4~8月)のカタログ。CD-ROMつき。本文はオランダ語だが、附属ディスクでは英語版テクストが読める。500部限定。
◆ウィーンのMAK(応用美術・現代美術の展示施設)で「ジリ・ブィリ(むかしむかし)」展を開催(2004年10月~05年2月)。出品絵本は約八十冊とやや小規模。Peter Noever (ed)
Жили были/Schili-byli/Shili-byli:
Russische Kinderbücher/
Russian Children's Books 1920-1940
Wien: Schlebrügge. Editor
2004 →表紙■ 「幻のロシア絵本」展と同時期に開催されたウィーン展のカタログ。偶然だが表紙の雰囲気が似ている。イリヤ・カバコフのエッセイなど論考三篇を収めるが、どれも食い足りない内容。マンデリシュターム執筆の絵本の覆刻版が別冊で附く。
2005年◆パンタン Pantin(フランス)のエルサ・トリオレ図書館(La bibliothèque Elsa Triolet)でロシア絵本展「アイスクリームはいかが! Place à la glace!」開催(2005年4~5月)。残念ながらカタログは刊行されず、出品内容や展示は未詳。Voyages en Russie
"La Revue des livres pour enfants," no.221, fébrier 2005.
Paris: La Joie par les livres
2005 →表紙■ 上記パンタンでのロシア絵本展「アイスクリームはいかが!」開催に因んだフランスの児童書研究誌の特集号。百頁にわたって興味深い記事を満載。末尾の文献案内では、わが「幻のロシア絵本」展カタログまで逸早く写真入りで紹介されている。レーベジェフの稀少な初期絵本の覆刻版(テクストは仏語)が別冊附録。
Samuel Marchak et Vladimir Lebedev
traduit par Françoise Morvan
Quand la poésie jonglait avec l'image
Nantes: Edition Memo
2005 →表紙■ 上記パンタンでの展覧会ではカタログは未刊行に終わったが、代わりにマルシャーク&レーベジェフの傑作絵本「サーカス」「アイスクリーム」「昨日と今日」「鉋が鉋を作るには」の四冊を覆刻合本した本書が出た(テクストは仏語訳)。印刷は日本の覆刻版には及ばぬものの充分に満足のいく仕上がりである。いかにもフランスらしい垢抜けた装丁と響きのよいタイトル「
詩が絵と軽業するとき」が絶妙。
Валерий Блинов
Русская детская книжка-картинка 1900-1941
Москва: Искусство ХХI век
2005 →表紙■ 米国、日本、オーストリア、フランスでの展覧会に負けじと、満を持して登場したロシア人自身によるモノグラフ。「芸術世界」派から第二次大戦直前まで、ロシア絵本四十年の興亡を豊富なカラー図版とテクストで跡づけた研究者・愛好家必携の愛蔵版。装丁も美しい。この内容で展覧会が開かれたならば素晴らしかろう。
200827 чудес. Коллекция репринтов детских книг
Москва: Издательская программа "Интерроса"
2008 →外箱 →箱を開けたところ■ ずしりと重たい青い箱に "27 чудес." と標題が水色で大書される。すなわち「二十七不思議」。箱のなかには稀少なロシア絵本の覆刻版が二十七冊。1899年刊のプーシキン詩・ワスネツォーフ絵の「キエフ大公オレグの歌」から1935年のマルシャーク詩・レーベジェフ絵の「しましまのおひげちゃん」(再版)まで(詳しくは
→ここを参照)。覆刻技術こそ劣るものの、どれも稀覯絵本ばかりで溜息が出る。戦前のロシア絵本が本国でも完全に復権したことを告げる目覚ましい精華。
Мария Чапкина
Московские художники детской книги 1900-1992
Москва: Контакт-Култура
2008 →表紙■ 題して「モスクワの児童書画家たち 1900-1992」。モスクワを拠点に活躍した絵本画家百十六人をアルファベット順に配列し、作例を挙げながら紹介した大判の画集。各人に略歴が附く。ここでしか検索できない画家も多いので重宝する。
2009年Владимир Семенихин
Детская иллюстрированная книга в истории России 1881–1939
Москва: Улей
2009 →外箱と本体■ 題して「ロシア史における絵本 1881-1939」。美麗な箱入り二巻本の大著。空前(にして絶後?)の破天荒な出版である。帝政末期からスターリン粛清期まで、半世紀のロシア絵本史を約五百冊の作例で跡づける壮大なアンソロジー画集。図版数千八百、収録画家は百九十人に及ぶ。本国ロシアで遂に決定版が出たという感慨に打たれる。今後のロシア絵本研究は本書抜きには不可能だろう。
2011年◆シカゴ大学図書館には1927~48年のロシア絵本が四百冊以上も収蔵される。それら豊富な蔵書で構成された「ソヴィエト想像力の冒険」展が開催された。Robert Bird (ed)
Adventures in the Soviet Imaginary
Chicago: The University of Chicago Library
2011 →表紙■ 上記の展覧会のカタログ。「未来のスタイル」「地図と模型」「見ることと行うこと」など六章立て。ソ連絵本に描かれたイメージをさまざまな視点から考察したもの。
2012年Marshak & Lebedev
translated by Jamey Gambrell
Baggage
New York: The Museum of Modern Art, New York
2012 →表紙■ マルシャーク&レーベジェフの傑作絵本「荷物 Багаж」(ラードゥガ刊、1926)の初版本を覆刻。ただし本文は英訳(巻末に露文収録)。内容的には2004年「幻のロシア絵本」復刻シリーズの一冊として出た覆刻版(1927年の第二版に拠る
→これ)とほぼ同一(刷色が僅かに異なる)、印刷の出来も甲乙つけ難い。2012年の展覧会「子供の世紀 Century of the Child」に関連してMoMAから出版。
2013Marshak & Lebedev
translated by Stephen Capus
The Circus and other stories:
Four Books by Samuil Marshak & Vladimir Lebedev
London: Tate Publishing
2013 →表紙■ マルシャーク&レーベジェフの傑作絵本「サーカス」「アイスクリーム」「昨日と今日」「鉋が鉋を作るには」の四冊を覆刻合本した、と云えば明らかなように、これは2005年フランスで出た覆刻版「詩が絵と軽業するとき」と同内容。同じ版に基づき、テクストのみ英文に差し替えたもの。仕上がりは仏版と同様に美しいが、「サーカス」で絵の順序が一部で乱れているのが惜しい。相次いでMoMAとTateとで覆刻版が刊行されたのは偶然とはいえ感慨深い。十年の歳月の意味を噛みしめる。この覆刻絵本集の表紙が「幻のロシア絵本」カタログ表紙(
→これ)と同じ象の絵(「サーカス」の一頁)であるところに不思議な暗合を感じずにいられない。