あれは前囘の倫敦訪問時だから昨年の一月だつたか。月曜日の午前中は入館料が無料になると聞きテムズ河畔なるコートールド畫廊を訪ねようと思ひ立つた。朝食を手短に濟ませ、いつものやうに二階建の乘合バスで移動してゐると、ストランド街に差しかゝつた邊りで折り惡しく交通澁滞に巻き込まれた。
なあに急ぐ用事ではないからと鷹揚に構へてゐたが一向に動き出す氣配が無い。退屈凌ぎに車窓を眺めてゐたら道に面して建つ
キングズ・カレッジの校舎に目が留まつた。舗道に沿つた壁にはずらり何枚もの肖像が大きく掲げられてゐる(
→これ)。ナポレオンを破つた
ウェリントン公爵、浪漫派詩人
ジョン・キーツ、消毒術の發案者
リスター男爵、從軍看護婦
フローレンス・ナイティンゲール・・・何れも此處で學んだり教へたりした經歴を持つ錚々たる著名人である。成程なあ、此のカレッジには在籍者の顔触れだけで英國史が語れさうな位に誇らしい歴史があるのだな、と感心しつゝ見入つてゐたら、藪から棒に「彼女」と出喰はした。
窓からは斜め向きでちよつと距離もあるため細部は定かでないが、ふつくらした頬の輪郭には確かに見覺えがある。目を凝らすと上方に "Franklin" の文字も讀み取れるではないか。間違ひない、あれは彼女の顔冩眞だ(
→左から二人目)。遅れ馳せながらハタと膝を打つ。さうであつた、
ロザリンド・フランクリンが首尾良くDNAのX線囘析に成功し、二重螺旋構造の解明に途を拓いたのは他でもない、此處キングズ・カレッジに於いてだつたのだ。彼女の業績もまた當カレッジが世界に喧傳する輝かしき過去の一部なのである。
生前は報はれる機會が餘りにも尠く、とりわけキングズ・カレッジでは苦汁ばかり嘗めてゐた彼女が若しも此の光景を見たら一軆どんな感想を漏らすだらう。漸く正當な評價が下されたと微苦笑するであらうか。否、斷じてさうではあるまい、何しろロザリンドの肖像のすぐ隣りにはカレッジ在籍時の宿敵にして彼女の業績の「簒奪者」たる
モーリス・ウィルキンズの冩眞(!)が麗々しく掲げられてゐるからだ。將に呉越同舟さながらに。苦り切つた彼女は「またしても彼奴と一緒なの? もういい加減にして頂戴!」と聲高に訴へるのではあるまいか。そんな獨り勝手な空想を巡らせてゐたらバスは徐ろに動き出し、目指す停留所「サマセット・ハウス(コートールド畫廊)前」に緩々と滑り込んだ。