『人間の声』の唯一人の登場人物は若くエレガントな女性によって演じられねばならない。愛人に捨てられるような年老いた女は問題外だ。──作曲家フランシス・プーランクが自作オペラ『
人間の声 La Voix humaine』(1958)の演奏者に向けて書き綴った四項の注意書きで筆頭に掲げられた一節である。彼ははっきり「
若くエレガントな女性」とヒロインの役柄を規定している。憐憫の情を催させるような年嵩の女性では駄目なのだ、と。
寝室でベッドに横たわる女性に電話がかかってくる。相手は離別したばかりの愛人とおぼしい。電話口で努めて平静を装い陽気に語ろうとする彼女。しかし時間が経つうちに本心が露わになり、悲痛な懇願のうちに断末魔のような叫びと共に暗転、一幕の愁嘆場は終わる。三十数分間、冒頭から幕切れまで主人公は休みなく電話口に向かって歌い続ける。実力の試される困難な挑戦であり、それだけに多くのソプラノ歌手を魅了してきた史上稀な独白オペラである。
プーランクは盟友ジャン・コクトーが戦前に書いた同名の一人芝居(1930)を殆どそのまま台本にして、この特異な作品を創り上げた。当初かのマリア・カラスが歌うことを念頭にスタートした企てというが、カラスが現代物を舞台で演じる筈もなく、結局その創唱はプーランク鍾愛のソプラノ歌手
ドニーズ・デュヴァルの手に委ねられた。作曲家は彼女の歌唱と演技に全幅の信頼を置いていた。
世界初演は1959年2月6日、巴里のオペラ=コミック座、ジョルジュ・プレートルの指揮(
→その舞台写真、
→同メンバーによる初出LP)。このときデュヴァルは芳紀三十七歳。実年齢より下に見える彼女は「若くエレガントな女性」のイメージを裏切ってはいない。少なくとも残された写真と録音からはそう察しられる。
わが国では殆ど話題にならなかったようだが、デュヴァルが全曲を演じたカラー映像(仏蘭西でたった一度TV放映されただけという)が残されていて、今では容易にDVDで視聴できる。これを眼福と呼ばずしてなんと称すべきか。
"Denise Duval -- La Voix humaine"
■ Cocteau/Poulenc: La Voix humaine
Un film couleur 35mm réalisé par Dominique Delouche en 1970
■ Denise Duval revisitée ou La "Voix" retrouvée
avec Denise Duval, Sophie Fournier et Alexandre Tharaud
Un vidéo par Dominique Delouche en 1998
Doriane Films/Les Films du Prieuré EDV 958 (DVD/2009)前半の映像はオペラ全曲を収録したもので、これは息を呑むほど素晴らしい見ものだ。創唱者デュヴァルがこの役をどのように演じたのかが手に取るようにわかる。ただし舞台そのままの記録ではなく、スタジオに新たにセットを組み、独自の演出のもと精密にカットを割って撮影された映像である点に留意しなければならない。実演をまざまざと彷彿させるものの、同一視は禁物である。
しかも映像収録にあたっては、事前に録音された音声に合わせて演技するリップ・シンクロナイゼーション(音声同期)、いわゆる「口パク」方式に拠っている。この手法は映像が撮られた1970年当時のオペラ映画・ミュージカル映画の常套手段だったから特筆に値すまいが、そこで用いられた音声が既存の音源──それも初演直後のLP録音(1959)そのものだという点が極めて異例であろう。演じる彼女と唄う彼女との間には十一年もの隔たりがあるのだ。
そこにはやむを得ない事情があった。デュヴァルは五年前に声帯を患い、オペラ界から引退を余儀なくされていた。歌いたくとも声が出ない状態だったのだ。監督
ドミニック・ドルーシュは粘り強くデュヴァルを説き伏せ、この困難な撮影に同意させた。音と映像をぴたり同期させるのは一苦労だったらしいが、得られた結果は上乗である。アール・デコ調に造り込まれた精巧なセットのなかで、趣味の良い部屋着をシックに着こなしたデュヴァルは完璧に「彼女」になりきり、絶望の淵で喘ぎ悶える心模様を鮮やかに映し出す。過去のオペラ歌手(音声)と現在の女優(映像)とがフィルム上で「共演」し、その鬼気迫る表現は「彼女」の剥き出しの真実を露わにする。四十九歳になったデュヴァルを「若くエレガントな女性」と呼ぶのは難しかろうが、瑞々しく自在な演技は恐らくプーランクをも納得させるに違いない。
後半の映像も劣らず驚くべき内容だ。『人間の声』初演から三十九年後の1998年、デュヴァルはその由緒ある場所、オペラ=コミック座で若手歌手にこのオペラの奥義を伝授する。一度きりのマスタークラスの一部始終を克明に記録したものだ。題して「
ドニーズ・デュヴァルふたたび──
『声』再発見」。監督は前作と同じくドルーシュである。
歌劇場の広い舞台にはピアノが一台。その前に生徒役のソフィ・フルニエが立ち、オペラの全曲を歌ってみせる。すっかり媼になったデュヴァルが傍らの椅子に坐って指示を出す。伴奏ピアニストはなんと
アレクサンドル・タローだ。
伝説の大先輩、しかも初演者その人を前にして新進ソプラノは緊張気味。声質も表情も硬く、音楽の流れは淀みがちだ。すかさずデュヴァルから容赦ない叱声が飛ぶ。このとき七十六、七歳の筈だが、鋭い指摘はあらゆる細部に及び、しかも驚くほど明晰。「
プーランクが私に語ったところでは Poulenc m'a dit que...」という助言には有無を云わせぬ説得力がある。デュヴァルは述懐する、この作品を歌うのは本当に至難の業、これに較べたら「蝶々夫人」も「トスカ」も楽なものよ、と。デュヴァルから直される度毎に、フルニエ嬢の歌唱がみるみる生彩を帯びていくのが傍目にもわかる。これは創造の機微に触れたスリリングな映像記録だ。
と、まあ、ここまでは前振りで、次に紹介する新譜が今日の本題である。
ドニーズ・デュヴァルのLPと初めて出逢ってから、もう三十年位になるだろうか。その間にディスクと実演で少なからぬ『人間の声』と遭遇してきた(
→「人間の声」CDディスコグラフィ、
→コクトー=プーランクの「声」は日本語で)。オペラの原作であるコクトーの芝居の上演も観た。出来不出来はさまざまだが、その殆どが「若くエレガントな女性」(もしくはそれに準じた存在)によって演じられたことに変わりはない。小生がこれまで実演で接した最高齢の「彼女」はといえば、2004年5月に東京で観た
ジェシー・ノーマンの一人舞台だったと思う。失礼ながら彼女はそのとき五十八歳だった筈。「若くエレガントな女性」どころか、年齢も性別も超越した壮絶な歌唱だったけれども、プーランクからもコクトーからも遠く隔たっていた気がする。ともかく小生が聴き知った最年長の「彼女」だ。
ところが上には上がある。つい最近こんなDVDが出たことに気づいたのだ。
"La Voix humaine -- Felicity Lott, Graham Johnson"
Poulenc: La Voix humaine
Felicity Lott
Graham Johnson
World premiere recording with piano
Filmed on 7 - 9 December 2011
at the Music Room, Champs Hill, East Sussex
Champs Hill CHRBR 045 (DVD & Blu-ray/2013)デイム・
フェリシティ・ロットが『人間の声』を自家薬籠中の演目としていることは夙に知られている。2001年にはジュネーヴでその「続篇」とも云える『モンテカルロの女』と共に正規レコーディングを残している(アルマン・ジョルダン指揮/上の「CDディスコグラフィ」の十二番目)。なかなかの秀演だったし、少しあとに倫敦「プロムズ」で演奏会形式ながら実演も披露した(アンドルー・デイヴィス指揮)。幸運にもたまたま居合わせて見聞する機会を得たが、舞台上のオーケストラのすぐ手前、下手寄りに簡便な装置を組んだだけの「セミ・ステージ」上演なので演技に制約があり、些か優等生的なきらいもあるものの、これまた破綻のない正確な歌唱だったと記憶する。今からきっかり十年前のことだ(2003年8月10日/その折の実況録音が聴ける。
→ここ)。
次に彼女の生の歌声に触れたのは、忘れもしない、大震災から僅か一箇月後の東京においてである(2011年4月15日)。動転し打ちのめされ、頻発する余震と迫りくる放射能の恐怖に慄くさなかの来演だったので有難さで涙が出た(
→当夜の拙レヴュー)。この宵のリサイタル演目にもプーランクが含まれていたのも記憶に新しい(歌曲集「こんな昼、こんな夜」)。デイムは若き日に親しくピエール・ベルナックの教えを受けたことがあり(ジェシー・ノーマンも同門だ)、プーランクを得意中の得意にしているのは周知のとおりだが、近年もSignumレーベルの新しい歌曲全集に参加して、いくつもの新録音に関わっている。流石に昔のような艶と華やぎは失せたが、表現に一層の深みと洞察が加わったことは偉とするに足る。
そんな境地に至ったデイムが再度『人間の声』に挑む。しかも今度は舞台装置・衣裳・演技を伴う映像である。しかも学生時代からの演奏上のパートナーである盟友
グレアム・ジョンソンのピアノ伴奏でのオペラ映像というのが極めて珍しい(ただし画面にグレアムは登場しない)。ここに永年にわたる彼女のプーランク探究の総決算としての意味合いが籠められているのは容易に想像がつく。上述の日本訪問から半年ほどのち、このところ彼女の新譜CDを立て続けにリリースしているChamps Hill Records(
→HP)のスタジオでの収録である。
現場に組まれたセットは実にシンプル、寝椅子など最低限の装置だけで1930年前後の「彼女」の寝室をさりげなく再現する。くどくど言葉で説明するよりは、予告篇の映像を少しご覧いただこうか(
→ここ)。
一見してまず何よりも吃驚したのは「彼女」の手にする電話機が旧式のスタイル、すなわち受話器と送話器とが分離したタイプ(
→その実例)のものであることだ。管見の限りでこの型式の電話機を小道具として登場させた上演は過去になかったと思う。ウィキペディアに拠ると1930年代まではこのタイプが一般的だったというから恐らく時代考証的には正しいのだろう。ただしコクトーの芝居の巴里初演時(1930年、コメディ・フランセーズ/主演
ベルト・ボヴィ)では改良型の送受信兼用のもの(所謂「受話器」)が使用されている(
→写真1、
→写真2)から、どちらが正統的だとも俄かに決め難い。どうでもいい些末な細部のようだが、さにあらず。今回のような旧式電話機だと通話中に両手が塞がってしまうので、演技に少なからぬ制約が生じると推察されるからだ。
それでも彼女がこの機種に拘ったのは、近年の上演では時代物の電話機どころか、当世風に携帯電話を片手に役を演じる不心得者が頻出しているからではないか(
→例その1、
→その2、
→その3)。デイムは自らきちんと規範を示そうとしたのだと想像する。「本当の電話はこれなのよ」「『人間の声』はこうでなくちゃ」と。
云う迄もなく歌唱も演技も、かつて見聞したことのない細やかさを醸す。控え目な舞台装置に相応しく、あちこち動き回ったり、大仰な仕草で感情を吐露するような行動は努めて回避される。だからオペラというよりむしろ長大な歌曲を味わう趣である。見せかけの笑顔を浮かべ、嘘に嘘を重ねる虚勢の哀しさ、隠しきれない未練とこみ上げる慟哭。コクトーとプーランクがこの一人芝居に忍び込ませたあらゆる感情の襞、あらゆる秘密の細部が、周到な配慮によって手に取るような鮮やかさで浮かび上がる。かくも入念に委曲を尽くした『人間の声』はちょっと前例がない気がする。ドニーズ・デュヴァルですら、ここまで深くは掘り下げなかった。ドイツ歌曲を歌うシュヴァルツコップのような精密さだ。
無論ここでは以前のような艶やかで流麗な歌唱は影を潜めている。2001年の正規録音や2003年の実況録音と比較しても、声そのもののヴォリュームや持久力の衰えは明らかだ。そうした限界を誰よりもよく認識しているのは芳紀六十四を迎えたデイム自身であり、だからこそ彼女はピアノ伴奏で歌い演ずることを選択したのであろう。賢明な判断というほかない。何しろ史上最年長の『声』なのだから。
ところで先の予告篇でデイム自ら語っているように、ピアノ伴奏による『人間の声』はこれまでプーランク・エステイト(遺産管理団体)が録音の市販を固く禁じてきたのだという。作曲者自身は生前デュヴァルとの共演リサイタルでオペラの聞かせどころを抜粋しピアノ伴奏していたのに、自分以外には認めなかったらしい。そのためフェリシティとグレアムは粘り強く交渉し、このたび正規に許可を得て収録に臨んだそうである。だから本DVDの外箱には麗々しく「
ピアノ版による世界初録音」と明記してある。しかし、これはちょっと事実に反する。LP時代末期の1983年、アンヌ・ベランジェの歌唱、セトラックのピアノ伴奏による『声』全曲が登場した(
→アルバム・カヴァー)し、わが国にも1999年に太田朋子・歌唱、藤原直子・伴奏の私家盤CDがある。より正確にはピアノ伴奏による初映像と称すべきだろう。
悲痛な心情を声高に絶叫するのではなしに、電話口で囁くように呟くように胸中を吐露する。ピアノ伴奏だからこそ可能になった繊細な表現であり、それこそが真の『人間の声』なのだ、とこのDVDは如実に示してみせた。グレアム・ジョンソンは発売に際して「確かに原作を書いたコクトーは若かったが、オペラを作曲した時点でプーランクは六十歳になろうとしていた。しかも彼自身ちょうど辛い離別を味わった直後だったから、ここには作曲家の苦い感慨が投影されている」と考察したうえで、キャリアを重ねたヴェテランだからこそ醸し出せる深い味わいがあるのだ、と力説している。成程そのとおりかもしれない。「時分の花」より「真実の花」──「
老木になるまで、花は散らで残りしなり」と風姿花伝にもあるではないか。「
愛人に捨てられるような年老いた女は問題外だ」と喝破した作曲者も、今回の歌唱に立ち会ったなら見解を変えざるを得ないだろう。