四月からこのかた、牛歩の遅さだが並行して何冊かを読んだ。期待して臨んだものの内容は玉石混淆、久々に知的興奮を味わった好著もあれば、箸にも棒にもかからぬ粗悪品もあった。それらのうち推奨できる書目と拙い感想文を少々。
Christina Hardyment:
The World of Arthur Ransome
Frances Lincoln Limited
2012
米amazonから届いた「お薦めの近刊」メールで刊行を知らされた。
クリスティナ・ハーディメントの名には見覚えがある。彼女の旧著『アーサー・ランサムとフリント船長のトランク Arthur Ransome & Captain Flint's Trunk』(1984)はランサムの少年少女冒険小説シリーズ、いわゆる「ランサム・サーガ」執筆の舞台裏、すなわちモデルになった実在の子供たちやヨットについて、未刊資料を駆使して紡いだ無類に面白い読み物だった。優秀な書き手だと記憶する。
そのハーディメントの新刊というので俄かに心が動いたのだ。しかも日本のアマゾンで容易に入手可能。しかも嘘みたいな安価で。平凡でありきたりな題名とカラー写真を満載した大判の体裁から、一見すると類書の多い「湖沼地帯ガイドブック」かと見紛うがさにあらず、これは波乱に富んだランサムの全生涯を手際よくヴィジュアルに通覧する最新のバイオグラフィなのだ。
湖沼地帯への愛を育んだ少年時代、世紀末倫敦にどっぷり浸ったボヘミアン青春期、失意と破綻に終わった最初の結婚生活、激動の露西亜革命をじかに見聞したジャーナリスト時代、そして再婚した露西亜妻とのバルト海ヨット旅行体験を経て、永く静謐な隠遁生活と、そこから生まれた「ランサム・サーガ」・・・。事の次第はヒュー・ブローガンの評伝であらかた承知してはいるものの、ふんだんに散りばめられた貴重な写真資料と共に物語られると面白さは一入、さながらランサムの生涯のドキュメンタリー映画を観る趣なのだ。しかもここには近年に明かされた「スパイ」としてのランサムの隠された一面も抜かりなく組み込まれ、多岐にわたるランサムの冒険人生の全体像をバランスよく活写する。
すべてのランサマイトに向け声を大にして推奨したい必携の一冊。
山口由美
ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日
小学館
2013
かつて
W・ユージン・スミスは日本人に最も近しいアメリカ人写真家だった。1971年から74年にかけ日本に住み、水俣公害問題を密着取材し、忘れ難い秀作群を残した。しかも取材中チッソ側の暴行を受け負傷までしている。この事件については新聞報道でリアルタイムに読んだ記憶が鮮明にある。ところが近年どうやら名声に翳りが生じ、今では彼とその仕事について信頼できる日本語の本が、写真集を含め殆ど手に入らない。とりわけ滞日時の事蹟に関しては、七年前の東京都写真美術館での展覧会カタログしかないという嘆かわしい現状だ。
本書はユージン・スミスの日本滞在のみを扱った初の著作である。まずその点に意義がある。しかも視点がちょっと変わっている。来日時に写真家の助手を務めた石川武志から得た情報を中心に、彼の目を通したスミス像に寄り添いつつ話が展開する。さながら主役が二人いるような按配なのだ。そこを面白いとみるか、焦点が暈けたとみるかで本書の評価は大きく分かれるだろう。
小生は知らなかったが、この時期スミスは公私両面でいくつも問題を抱えており、訪日と水俣取材は彼にとって乾坤一擲、起死回生の賭けだったらしい。満身創痍の病身でこれが最後のプロジェクトだと思い詰めていた。日系女性アイリーンとの電撃結婚も、帰国後の呆気ない別離すら、プロジェクト完遂に不可欠だった、というと如何にも非情で身勝手な行動にみえるが、仕事のためなら見境なくすべてを犠牲にするのがスミスの流儀だった。石川も東京の街角で偶然スミスと出会い、強引に誘われて助手として行動を共にする。火の玉のように猪突猛進する写真家と、その傍らで当惑や葛藤を抱きつつも献身的に随伴するアイリーンと石川。そして請われて被写体となった水俣の人々。緊張に満ちたスリリングな共同作業こそが本書の主題であり、醍醐味なのである。
余程の事情があったのだろう、この本にはユージン・スミス撮影の写真が一枚も出てこない(同行した石川が撮ったスミスの日常風景を代わりに収載)。写真家についての著作では異例な事態だが、それが致命的な瑕瑾にならないのが本書の強みだろう。ただし、元妻アイリーンから協力を拒まれ、証言を収録できなかったのは小さくないダメージだ。むしろ本書は彼女も加えて「主役が三人いる」構成になったほうが遙かに奥行きと重層感を増した筈だから。その点が悔やまれる。
Dominic McHugh:
Loverly
The Life and Times of My Fair Lady
Oxford University Press
2012
オックスフォード大学出版局のサイトでたまたま本書の刊行を知り、米amazonの読者評(日本と異なり信頼に足る)で大絶賛されていたので、時をおかず註文した。副題にもあるように、これはミュージカル史に輝く傑作『
マイ・フェア・レディ』がどのような経過を経て誕生したのかを追跡調査した研究書である。否、むしろ「マイ・フェア・レディ」を主人公とする浩瀚な評伝と云ってもよさそうだ。
著者
ドミニック・マクヒューの探索はまず用意周到に、原作であるバーナード・ショーの芝居『ピグメイリオン Pygmalion』に遡り、ショーがそのミュージカル化に強く反対した経緯を記す(かつて自作『武器と人』のオペレッタ化を許可したところ、そのオペレッタ『チョコレートの兵隊』が大ヒットし、元の芝居は上演されなくなった由)。ところがショーを巧みに説き伏せ『ピグメイリオン』映画化(1938)を企てて成功したプロデューサー、ガブリエル・パスカルは、1950年ショーが歿したのを機に勇躍そのミュージカル化に乗り出す。すべてはここから始まったのだ。
原作と同じ「ピグメイリオン」の仮題でスタートした企画が『マイ・フェア・レディ』(1956初演)に辿り着くまでの道程は、しかし決して平坦ではなかった。それどころか、袋小路や泥濘の待ち受ける厄介な隘路だったらしい。一度は作詞・作曲を引き受けた
アラン・ジェイ・ラーナーと
フレデリック・ロウは題材の難しさに尻込みし、代わりにリチャード・ロジャーズ&オスカー・ハマースタインJrの黄金コンビが名乗りを上げた。並行してプロデューサーは水面下で様々な作曲家に意向を打診した。そこにはアーサー・シュウォーツ、ハロルド・ローム、アンドレ・プレヴィン、ハロルド・アーレン、更にはレナード・バーンスタインの名もあったというから驚きである。ブロードウェイの名だたる作曲家に誰彼なく声をかけたのだ。
主役を誰に演じさせるかも難題だった。花売り娘イライザにはブロードウェイ随一のミュージカル女優メアリー・マーティンの名が取沙汰されたが、倫敦の下町言葉コクニーと上流階級のキングズ・イングリッシュを流暢に使いこなす英国女優が望ましいという意見から、ガートルード・ローレンスを推す声もあり、ペトゥラ・クラークらのオーディションも行われた。ヒギンズ教授役にはノエル・カワード、マイケル・レッドグレイヴらの起用が検討された由。主役が最終的に
ジュリー・アンドルーズと
レックス・ハリソンに落ち着くまでには複雑な紆余曲折があったらしい。
ラーナー&ロウ、アンドルーズ&ハリソンの起用が決まり、実際に製作が開始されてからの経過についてはラーナー自身の名高い自伝『我住む街角』に生き生きと語られているが、細部の記述には思い違いや事実誤認が少なくないのだという。アンドルーズ、ハリソンの回想も同様に誤りが多く、しかも互いに記述が矛盾をきたしている。そこで著者は米国各地のアーカイヴを徹底的に精査し、さまざまな段階の台本・歌詞・楽譜、関係者の手紙、電報、会議メモ類を発掘し、互いに照合することで、実際の製作過程──それぞれの部分がいかなる経緯を経て、誰の手でどのような形で仕上げられたかを、恐るべき執念をもって検証する。
ミュージカル誕生の「産みの苦しみ」、気の遠くなるほど輻輳した試行錯誤をめぐって、本書の探索はまさに詳細を極め、記述は微に入り細を穿つ。ひとつの作品が世に出るのにいかに膨大な時間と才能と労力が費やされたか、その解明こそが本書の目的なのだ。まして結実したのはミュージカル史上最大の傑作なのだから、どんな些細な事実も見逃せない──そう著者は確信しているのである。
Oh, wouldn't it be loverly!──これは同じ手法を駆使したホリス・アルパートの名著 "The Life and Times of
Porgy and Bess"(1990)に比肩すべき輝かしい成果であろう。あらゆる細部を揺るがせにしない著者の誠実な姿勢に畏敬の念を抱くとともに、このような探索を可能にした米国の知的遺産アーカイヴの圧倒的な充実ぶりにも目が眩む。翻ってわがニッポンの研究者の姿勢と彼らを取り巻く環境はと云えば・・・絶望的なまでに未成熟なのだ。
武田清
新劇とロシア演劇 築地小劇場の異文化接触
明治大学人文科学研究所叢書
而立書房
2012
研究書『ラヴァリー』読破の余勢を駆って、その「マイ・フェア・レディ」を日本に齎した功績者たる菊田一夫について知りたいと思いたち、『評伝 菊田一夫』(小幡欣治/岩波書店、2008)と『菊田一夫の仕事 浅草・日比谷・宝塚』(井上理恵/社会評論社、2011)の二冊を読んでみたら、その無残な出来に呆れ果て、暗澹たる気分になった。前者は生涯の上っ面をなぞるばかりで底が浅く、しかも視線は低俗そのもの、後者は菊田の台本を紹介する趣旨はともかく、文章が推敲されておらず考察は幼稚、読み続けるのが苦痛だった。昭和期最大の演劇人に関する著作がこの体たらくなのだから開いた口が塞がらない。まさに「金を返せ」と叫びたい思いだ。尤も前者はアマゾンの古本で190円、後者は図書館で借りたので損失はごく僅か。「買ってはいけない」愚書の見本として名指ししておく。
閑話旧題、話を本筋に戻すと、そうした安易な紛い物とは一線を劃し、地道に日本演劇史研究の王道を究めようとするのがこの武田清の論文集である。標題にあるように日本近代演劇がロシア演劇から何をどのように摂取したかを、具体的な事例に沿いながら探究した本格的な労作だ。「新劇」と「ロシア演劇」というと、明治末の小山内薫と自由劇場によるゴーリキーの『夜の宿(どん底)』初演や、連綿と現代まで続くチェーホフ劇の上演がまず連想されるが、本書の焦点はより時代的に絞り込まれ、大正末から昭和初年にかけて築地小劇場が取り組んだ一連のソ連の同時代演劇の研究・上演が中心的主題とされる。それと並行して若き佐野碩が手掛けたプロレタリア演劇の先駆的試みも対象となる。
予想されたとおり、当時の新劇人が最も強い関心を払い、熱い注目の的だったロシア演劇人はほかならぬ
メイエルホリドだった。築地小劇場の関係者はその舞台の有様や演出法、俳優訓練法の委細を知ろうとした。ただし、実際の舞台を観た者は僅かしかおらず、参照できる文献も限られており、彼らが最も頼りにしていた情報源はアメリカの評論家オリヴァー・セイラーとハントリー・カーターのロシア演劇見聞記だったという(確かに今でも東京の古書店では両者の著作をしばしば見かける)。ソ連からじかに齎される演劇情報は極めて乏しかったのである。
佐野碩らがどうにかビオメハニカ風の身体表現を探り当てたのもカーターの記述からという。著者は築地小劇場が刊行した同名の定期刊行物を繙いて、劇団の研究員たちが涙ぐましい努力の末にメイエルホリドの方法に関してかなり的確な知見を得ていたことを実証する。とりわけ後年シナリオ作家として名を成す
八住利雄の論考は相当な水準に達していた由。1928年に訪ソした小山内薫が持ち帰った諸文献も大いに活用されたらしいが、肝腎の小山内自身はモスクワで実見したメイエルホリド劇場の舞台にどうも納得できなかったという。そのあたりの微妙複雑な状況を、筆者は実に丁寧に解き明かしていく。
メイエルホリドと日本の関係といえば、日本脱出後の佐野碩と土方与志が彼の劇団に関わった事実が特筆されようが、本書はこの問題には深入りせず、その後メイエルホリドに憧れて樺太国境から入ソした杉本良吉と岡田嘉子を見舞った過酷な運命に多くの紙数を割いている。その時点でメイエルホリドは既に札付きの反国家的人物と指弾されており、日本人ふたりは自ら好んで火中に身を投じたも同然だった。彼らが拷問の末スパイ行為を認めた自白調書がメイエルホリド逮捕・銃殺の恰好の口実となったのは皮肉な経緯というほかない(ただしメイエルホリド粛清は既定の方針だったから、自白の有無に係わらず結果はどのみち同じだと筆者は念を押す)。岡田は辛くも釈放され戦後を生き延びるのだが、晩年の自伝でなお彼女は逮捕・釈放後の経緯について虚偽を語っている。ソ連を第二の母国と仰ぐ岡田は真実を公言できぬまま死んだのだ。
本書の前半でメイエルホルドにほぼ特化して論じた筆者は、後半では一転して戯曲家=演出家ニコライ・
エヴレイノフに目を転じる。今日では専門家以外は目もくれぬ存在だが、築地小劇場ではスタニスラフスキーやメイエルホリドを凌ぐポピュラーな名前だったという。革命前夜から内戦期にかけて尖端的なキャバレー芝居で人気を集め、革命を賛美するスペクタクル劇『冬宮奪取』演出を手掛けたのち巴里に亡命という数奇な履歴を閲するエヴレイノフ。その彼の演劇論が1920年代後半の東京で(誤解されつつも)熱心に学ばれたというのも、知られざる新劇史の一断面だろう。最後のセクションでは、これまた当時の日本でも頻りに噂されたニキータ・
バリーエフ Никита Фёдорович Балиев が主宰する劇団「
蝙蝠座 Летучая мышь/Le Théâtre de la Chauve-Souris」(日本では小山内が興味を抱き、岩田豊雄が絶賛した)についての懇切な紹介が面白い。従来は亡命後の仏蘭西での活躍ばかり喧伝されていたバリーエフと蝙蝠座の出自が手際よく語られて裨益するところ大。加えてネップ期のソ連における諷刺喜劇(ロマショフ『空気饅頭』、エルドマン『委任状』など)とその時代的背景も論じられる。
・・・という具合に話題は多岐にわたり、そのため一冊を束ねる首尾一貫性に欠ける憾みはあるのだが、これだけ手塩にかけた研究は他に類がなく、小生のように興味はあれど知識に乏しい者には旱天の慈雨さながら、一読措く能わざるスリリングな体験だった。四千二百円という価格も豊富な内容を考えれば妥当だろう。
Jean-Michel Nectoux:
Harmonie en bleu et or Debussy, la musique et les arts
Fayard
2005
岩田宏
渡り歩き
草思社
2001
(まだ書きかけ)