四月が終わる前に、つい先日ひょんな偶然から出くわした貴重な歴史的録音について記しておこう。折角の聴取体験が雲散霧消してしまわぬうちに。
先週の土曜日の夜更け、たまたま訪れたツイッターで「庭夏」こと Sonnenfleck さんがこう呟いていた。
1949年、山田一雄/日響による《ピーターと狼》が らじるから流れてきている。輪郭がくっきりした明快な演奏。この音源、一度でも外に出たことはあるのだろうか? このころもちろんプロコフィエフは存命で、前年にはジダーノフ批判を食らい、ままならない身体を抱えて《石の花》を書いていたはず。
驚いたなあ、そんな古い録音が残っていたなんて全くの初耳だ。慌ててダイヤルをNHK・FMに合わせてみたものの、疾うに放送は終わっていた。口惜しいなあ、千載一遇の機会を聴き逃すなんて!
幸いなことに当該番組「音楽の迷宮」は月曜の朝にも再放送があるとわかり、今度こそはとPCの前に陣取り、注意深く耳を欹てた。
プロコフィエフ:
子供たちのための交響的物語「ペーターと狼」(28分30秒)
山田和男 指揮
日本交響楽団
日本語台本/山田和男
語り手/小沢 栄
■1949年4月6日、ラジオ第一「日響演奏会」で放送
いやはや驚いたのなんの、六十年以上も前の放送音源がよくぞ残っていたものだ。恐らく保存用のアセテート盤だろうが、廃棄されることなく放送局の片隅で半世紀以上も人知れず眠り続けていた。後述するように、この演奏は「ピーターと狼」の日本初演ではないが、間違いなく日本人の手になる初録音であり、それがプロコフィエフの生前になされていたという事実にただもう感動する。
作曲家・指揮者の山田一雄(和男、夏精とも)はプリングスハイム門下、すなわちマーラーの孫弟子にあたり、その第八交響曲の日本初演(1949年12月8、9日、日比谷公会堂「日響」定期)での獅子奮迅ぶりは夙に伝説的だが(そのゲネプロ映像は
→ここ 03:11以降)、山田の名を敢えてプロコフィエフと結びつける者は今となっては少なかろう。
だが彼はほぼ同時期、それに先立ってショスタコーヴィチの第五交響曲の日本初演(1949年2月14、15日、日比谷公会堂「日響」定期)も敢行しており、ソ連の「同時代音楽」にも並々ならぬ関心を寄せていたことは注目に値しよう。このたび発掘された「ピーターと狼」放送録音は、そのショスタコーヴィチ初演の僅か二か月後の収録なのである。因みに山田はそれから少しのちのSP末期(恐らく1953~54年か)に日本初の「ピーターと狼」レコード録音も残している(表記はここでも「
ペーターと狼」、キングレコード、GK 5001/03)。
1936年、プロコフィエフは十八年ぶりに祖国復帰を果たした。帰国第一作としてモスクワ中央児童劇場の主宰者ナターリヤ・サーツの依頼により短期間で台本・作曲を手掛けた「
ペーチャと狼 Петя и волк」は、同年5月2日に初演されたものの、翌年スターリン粛清によりサーツが逮捕・投獄された事情も手伝ってか、ソ連では戦後まで永くレコード録音される機会に恵まれなかった。
察するに、この「子供たちのための交響的物語」が今日みるような世界的な名声を博するには、アメリカにおける一連の先駆的な実演・録音・映像化が決定的な役割を果たしたようである。我々が同曲を「ペーチャと狼」ではなく「ピーターと狼」と呼び倣わすのも恐らくその故であろう。
英語ナレーションを伴う「ピーターと狼」は1938年3月25、26日のボストン交響楽団定期演奏会で国外初演された。指揮台に立ったのは作曲者自身。ソ連当局の許可を得た生涯最後の国外演奏旅行の途上だった。因みに同じ米国ツアーでハリウッドを訪れたプロコフィエフは2月28日ウォルト・ディズニーと面談し、ピアノでこの曲を弾いてきかせながら「貴方にアニメ化していただくことを念頭に作曲したんですよ」と語ったという。このあたりの事情は昨年ここで少し触れたのでご参照いただこうか(
→子供の日なので「ペーチャ」)。
改めて「ピーターと狼」初期録音史のあらましをざっとお浚いしておくと、
1)セルゲイ・クセヴィーツキー指揮 ボストン交響楽団 語り/リチャード・ヘイル
■1939年4月12日録音、米RCA
2)アレグザンダー・スモーレンズ指揮 デッカ交響楽団 語り/フランク・ルーサー
■1940年3月録音、米Decca
3)レオポルド・ストコフスキ指揮 全米管弦楽団 語り/バジル・ラスボーン
■1941年7月11日録音、米Columbia
4)ウォルト・ディズニーの短篇アニメ("Make Mine Music" 第七部)
語り/スターリング・ホロウェイ
■1946年8月15日米国封切
世界初録音は米国初演から一年後の1939年、
クセヴィーツキーの指揮のもと同じボストン交響楽団によってなされた(ナレーターも初演の際と同じ人物である)。その翌年に録音した
スモーレンズは後年「ポーギーとベス」世界巡業で歴史に名を残す指揮者だが、プロコフィエフとも昵懇の間柄で、オペラ「三つのオレンジへの恋」のシカゴでの世界初演の二日目を振った。三番手の指揮者
ストコフスキについては贅言を要すまい。同時代音楽の旗手である。
ディズニーとプロコフィエフとの出逢いについては上述した。つまり、「ピーターと狼」の最初の四つの録音は、いずれも作曲家と係わりの深い人物によってなされたということができる。
米国での録音歴を時系列で辿ってみて、誰もがすぐ気づくこと──それは、まるで申し合わせたかのように語り手が男性であるという事実である。作曲者が指揮したボストンでの米国初演時の顰みに倣ってか、どうやらこの国では「ピーターと狼」のナレーションには男優を起用するのが慣わしとなっていたらしい。
実演ではどうだったか。試みに当時のNYフィルの演奏記録を探ってみると、
■1944年5月21日 アルトゥール・ロジンスキ指揮 語り/フランク・ルーサー
■1950年10月21日 Igor Buketoff指揮 語り/バート・アイヴズ
■1952年12月14日 アンドレ・コステラネッツ指揮 語り/レイ・ボルジャー
山田の放送録音と相前後して、NBC交響楽団の実況放送録音も残っており、
■1949年6月19日 フリッツ・ライナー指揮 語り/ラウリッツ・メルヒオール
いずれの場合でも「ピーターと狼」の語り手は専ら男性なのである。
愚考するに、この人選はいかにも理に適っている。なにしろ「ピーターと狼」の登場人物といえば、主人公ピーターとその祖父、狩人たちと、全員が男性で、あとは動物たちなのだから、男声のナレーションのほうが無理なく自然に語れるに違いない──そんな理屈から自ずと男優が起用される慣習が定着したのではないか。
因みに本家モスクワでは戦後の1947年になってやっと「ペーチャと狼」初録音が実現する。1936年の初演から実に十一年後のことだ。指揮はプロコフィエフとも親しかった巨匠
ニコライ・ゴロワーノフ。本来なら発注者ナターリヤ・サーツがナレーションを務めるべきところだが、彼女はまだモスクワ追放中の身(アルマ=アタに居住)だったから、代わりに映画女優
ヴェーラ・マレツカヤ Вера Петровна Марецкая が語りを担当した(女声ナレーターによる世界初録音)。ただし本盤は国交の途絶えていた日本には届きようもなく、当時その存在を知り得た者は誰一人いなかったろう(日本初紹介は2001年の平林直哉氏による覆刻CD)。
再び1949年春の東京に話を戻すと、成り行きは次のように推察される。
「ピーターと狼」放送録音を山田和男が思い立った時点で、彼が参照し得た海外の先例は、上述したとおり男声ナレーションによる米国渡来のレコード演奏ばかりだったのである。進駐軍占領下のNHKにどれほどの輸入盤が架蔵されていたかは詳らかでないが、恐らく山田は上に掲げた1)~3)のディスクのいずれかを試聴して、語り手にはやはり男性が相応しいと判断したのであろう。
起用されたのは劇団俳優座の主力格
小沢栄(栄太郎/この一時期「栄」を名乗った)。自伝『一音百態』に拠れば山田は戦前の「楽団創生」時代から劇伴奏の仕事を通して新劇人と交流があり、その流れから小沢栄に白羽の矢が立ったものと思われる。小沢は当時四十歳の働き盛り、山田より三歳年上だった。
実を云えばもうひとつ、山田が知っていた筈の先例がある。前年の1948年4月5日、近衛秀麿が東宝交響楽団(東京交響楽団の前身)を指揮した「ピーターと狼」日本初演である(日比谷公会堂、「東宝グランド・コンサート」)。このときの語り手は新劇女優の
山本安英が担当した。8月15日には、同じ顔ぶれによるラヂオ放送(「子供の音楽」)もなされているので(以上の典拠は
→「近衛秀麿演奏会記録 戦後編その1」)、どちらかの機会に山田が耳にした可能性は高い。そのうえで、やはり「ピーターと狼」の語り手は男性に限ると考えたのではないか。
ナレーターの人選について諄々と詮索したのには理由がある。
この録音における小沢栄太郎の語りが素晴らしいからだ。今や耳にすることのない、古き良き時代の美しい日本語がここには息づいている。戦前の左翼演劇時代から舞台で鍛えた口跡の良さは云うまでもないが、徒らに芝居がかることなく自然な表情のまま、子供向けだからといって妙な声色で媚びるでもなく、ひたすら平明に淡々と、格調の高さを保ちつつ語りを進めていく。自ら日本語台本を作成して録音に臨んだ山田も、このナレーションの巧さには脱帽したに違いない。
念のため手元にある同時代の米国録音「ピーターと狼」をいくつか聴き直してみたが、世界初録音(クセヴィーツキー指揮)の
リチャード・ヘイルは大仰でいかにも古めかしく、ストコフスキ盤の
バジル・ラスボーン(シャーロック・ホームズを当たり役とした名優)は雄弁だが芝居がかっていて些か鼻白む。山田/小沢録音と同年のライナー指揮実況盤での
ラウリッツ・メルヒオールに至っては大袈裟で聴くに堪えぬ代物(まあオペラ歌手だから致し方ないか)・・・という次第で、この「ペーターと狼」における小沢栄太郎のナレーションは、ナチュラルで冷静な語り口において、世界に誇るべき秀逸な出来映えと云っても過褒にならないと実感した。
それでは肝腎の山田和男の指揮はどうなのか?
これがまた実にいいのである。Sonnenfleckさんが指摘するように、「
輪郭がくっきりした明快な演奏」であり、同時期のフリッツ・ライナーに近似したストレートな解釈であることに驚く。前任者で指揮の恩師ヨーゼフ・ローゼンシュトックの薫陶の成果なのであろうか。屈託なく率直に、そして程よく描写的に、心地よいメリハリを伴って楽想を繰り出す好指揮ぶりなのだ。この見通しの良い巧みな音楽づくりが小沢栄の実直な語り口と実によく合致するのが愉しい。野暮ったく一向に垢抜けないクセヴィーツキー盤や、意欲が先だって表情過剰なストコフスキ盤に較べても、山田の解釈は遜色ないどころか、明らかにプロコフィエフの真髄を的確に捉えている。そこが何よりも素晴らしい。生前の作曲家に聴かせたかった。
当時の日響(N響の前身)の技量が想像以上に優秀なのにも心打たれる。制約ある当時の録音からも、各パートの練達ぶりは聴取できる。とりわけ、主人公の周囲を飛び回る小鳥を表すフルートの流暢な自在さには舌を巻く。これは(五年後の来日時カラヤンを感心させたという)首席奏者の吉田雅夫だろうか。
当時の録音技術上の常識からして、オーケストラと語りとは恐らく同時に収録されたに違いないが、余程リハーサルを周到にやったのであろう、両者の連携が緊密で些かの齟齬も生じないのが素晴らしい。小鳥と口論した家鴨は「
ドボーンと水のなかに飛び込んでしまいました」──ナレーターがそう語った瞬間、すかさずホルンの和音が水音を模倣するくだりの阿吽の呼吸といったら!
以上でこの録音がプロコフィエフ演奏史上に有する比類のない価値が明らかになったと思う。なにしろこれは管見の限りで世界に現存する六番目に古い「ピーターと狼」録音なのである。CD覆刻盤を世に送るのがNHKの責務であろう。
後日談を少しだけ附け加える。
折田義正氏の労作『山田一雄演奏記録』(私家版、2009刊)を繙くと、その後も山田はしばしば「ペーターと狼」を実演や放送で採り上げたことがわかる。
1950年4月29日 N響(放送) *日響は放送時「N響」と称し、翌年8月改称。
1950年5月26日 N響(日比谷公会堂/東京技術学会69周年記念演奏会)
1951年4月4日 N響(放送)
1951年9月2日 東京フィル
1951年12月14日 名古屋響(定期演奏会)
1952年5月4日 N響(放送)
1953年4月25日 N響(放送)
1953年8月6日 東京フィル(放送)
1953年10月8日 大阪放送響 *10月10日に放送
1955年7月2&3日 大阪放送響(大阪労音演奏会)
少なからぬ演奏頻度である。残念ながら同書にはナレーターの名までは記載されていないが、サイト「山田一雄の世界」の演奏記録(
→ここ)に拠れば、1950年5月26日の実演では
徳川夢声が語り手を務めた由。う~ん、こちらも聴いてみたかったなあ。さぞかし名調子だったことだろう。
加えて山田はこの時期プロコフィエフの「古典交響曲」、「三つのオレンジへの恋」行進曲、第三ピアノ協奏曲、カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」、第七交響曲を折に触れて指揮しており、50年代前半において上田仁と並ぶプロコフィエフ紹介のパイオニアだったことが了解されよう。