仏蘭西の指揮者
ジャン=フランソワ・パイヤールが15日に亡くなっていたことを今日になって気づく(
→Le Monde紙の訃報)。
享年八十五というから天寿を全うした部類に入るだろうが、かつて1960~70年代にバロック復興の旗手として一世を風靡した人にしては寂しい晩年だったことは否めない。後続の古楽器世代に押されて現代楽器によるバロック演奏が急速に廃れたのが原因であることははっきりしている。これはカール・ミュンヒンガー、レナート・ファザーノ、レイモンド・レパード、あるいはネヴィル・マリナー卿にも当て嵌まる不幸である。彼らがいかに果敢な先駆者であったか、どれほど音楽性に溢れていたかは等閑に附されたまま、単に時代様式に合わぬ「古臭い」音楽家の烙印を捺されてしまったのだから不憫な巡り合わせというほかない。
小生もかつてパイヤールに導かれた世代に属する。仏蘭西バロックは勿論だが、ヴィヴァルディにもパッヘルベルにも親しんだ。バッハのチェンバロ協奏曲全集がことのほか端正な美演で、上野の文化会館の資料室で溜息をつきつつ繰り返し試聴した懐かしい記憶もある。
滅多に思い出されることもあるまいが、パイヤールにはほんの僅かだが20世紀仏蘭西音楽の録音もあり、これが実に情理を尽くした秀逸な演奏だったのだ。こう書くと「ああ、小組曲、二つの舞曲、古代碑銘を収めたドビュッシー・アルバムね」と頷かれる同世代の御仁もあろうが、その盤は以前ここでも手短に紹介したから(
→「六つの古代エピグラフ」)、それとは別の、極め付きの「忘れられた名盤」を棚から引っ張り出した。今夜は追悼の意味から心して聴こう。
これは小生にとって忘れ難いアルバムだ。なにしろ高校生の時分、なけなしの小遣いを叩いて入手したわが生涯で二枚目のLPなのである。1969年夏のことだ。
《現代フランス音楽選》
オネゲル: 交響曲 第二番*
ルーセル: シンフォニエッタ
フローラン・シュミット: 交響曲「ジャニアナ」
トランペット/マルセル・ラゴルス*
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール管弦楽団
日本コロムビア エラート OS-2095-RE (1968)
FMラジオで一聴たちまち惹き込まれたオネゲルの第二交響曲だが、上野の資料室で試聴したアンセルメ盤もセルジュ・ボード盤もすでに品切とかで入手不能、出たばかりのミュンシュ&パリ管弦楽団の遺作アルバムは何故か店頭で見つけられず、それでもどうしてもこの曲が聴きたくて次善の策としてやむなく手にしたのがこのパイヤール盤だったのだと思う。エラート原盤のアルバムとは思えぬ斬新なジャケット・デザイン(
→これ)に目を奪われ、「これは期待できるかも知れない」と心ときめかせたのを今でもよく憶えている。
レコードに針を下ろして、徐にアリー・アルブレーシュ Harry Halbreich 執筆のライナーノーツを熟読する。それは学究的・分析的でありながら、同時にオネゲルの交響曲への激烈で熱っぽいオマージュだった。三楽章のくだりを引く。
突然、日がのぼる。というよりむしろ、なまなましくふるえ動く夜明けがあらわれる。最後の《ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ》が、まったく新しい音響的雰囲気のなかで飛び立つのだ(8分の6拍子の生き生きしたテンポ、高音域をかなでる弦、それまでわれわれがきびしく奪い去られていたいっさいのものがある)。その見事な短かさも、より以上の力を与えているのである。多調的であると当時にポリリズム的なヴァイオリンの執拗なリズムのもとで、低弦が冒頭主題を呈示し、これは、一眼巨人のような力強さを表わす途方もない飛躍を続けるのだ。補足的な二つの要素から成る経過部のあとで(この二つの要素のうち第2のものは、重々しく節奏される附点リズムをそなえていて、やがてきわめて重要な姿をしめすこととなる!)第2主題があらわれる。これは、二つのリズミックな《オスティナート》を重ねあわせたものであって、そのひとつは8分音符10個、他方は8分音符5個から成っているが、全体としては、冒頭の8分の6拍子という枠を出ることはない。このポリリズムの上方では、ヴァイオリンが、豊かな復活の讃歌をうたう。きわめて動きのはげしい展開部に、再現部が続くのだが、これはオネゲルがいつもやるように逆の順序でなされている。次いで、さわがしいクレッシェンド=アッチェルランドが、冒頭主題を、もっとはげしいテンポ(プレスト)で反復する。抵抗しがたい上昇力をそなえた巨大な音の高まりのはてに、ついにトランペットが誇らかに登場する。このトランペットは、ヴァイオリンと重奏しながら、長くのばされた、このうえなく明確で輝かしいニ長調のコラールを、他の弦楽器の波打つような錯雑したポリフォニーと重ねあわせている。このコラールのあとで、弦楽器は、自分たちの昂揚に心奪われでもしたかのように、なお数小節のあいだその歩みを続けるのだが、次いで、突如として終止和音のうえに落ちこむのである。
原文の仏蘭西語の難解さと、日本語訳(=粟津則雄)の生硬さとが相俟って、なんともはや意味の辿りにくい文章である。今こうして書き写していてもそう思うのだが、田舎者の高校生にはさっぱり理解できなかった。でも、理解できないなりに無暗矢鱈と感動したものだ。とりわけ冒頭の「
突然、日がのぼる。というよりむしろ、なまなましくふるえ動く夜明けがあらわれる」というところに。
いつもの室内管弦楽団よりは増員しているのだろうが、それでもパイヤールのオネゲルは他の演奏に比べて響きが薄く、そのぶん錯綜する声部の絡み合いが際立ち、ザッハリヒで鋭いのが特色だ。今の耳にはアンサンブルの精度がかなり低いが、それでも掬すべき名演であると思う。ルーセルのシンフォニエッタでは瀟洒に弾む弦楽合奏がいかにもフランス的。最後のフローラン・シュミット作品は小生が初めてこの作曲家の存在に触れた、個人的には思い出深い曲である。
パイヤールはこの「ジャニアナ」の楽譜を、創演者にして被献呈者の女性指揮者
ジャヌ・エヴラール Jane Evrard からじきじきに手渡された由。誰も知らない秘曲を彼がここで敢えて録音したのには相応の背景と並々ならぬ愛着があったのだ。因みにルーセルのシンフォニエッタも初演は同じくエヴラールによる。
遙か後年、パイヤールは何度か単身来日し、水戸室内管弦楽団に客演する機会があった。なんとも嬉しいことに、2001年にはオネゲルの第二交響曲を、2007年には「ジャニアナ」を、それぞれ披露してくれた。流石に往年のキレや鋭さは影を潜めていたけれど、これらが彼にとって永く鍾愛のレペルトワールであり続けた事実を知って、客席から声にならない快哉を叫んだものである。