六十にもなると呆けてきたのか、読んだばかりの本の内容をたちまち忘れてしまう。これではならじと、四月に入ってから手にした新刊書について一言ずつ備忘録風に書き留めておこう。記載は概ね入手順。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著
笠羽映子訳
私の人生の年代記
ストラヴィンスキー自伝
未來社
2013
ストラヴィンスキーの著作と称するものには多かれ少なかれ他者(ゴーストライター)の手が入っており、どこまでが本人の執筆なのか疑わしい。『音楽の詩学』は殆ど友人スフチンスキーの代作ともいうべき代物だし、晩年の著述にはロバート・クラフトの介入が煩わしくて鼻白む思いがする。その点、この「自伝」は作曲家の肉声がはっきり聞き取れるという点で稀有な読み物なのだ。1930年代半ばの時点で、ストラヴィンスキーは自らの生涯を驚くほどの率直さで回想し明快に物語っている。とりわけディアギレフとそのバレエ団に関するエピソードの数々は、当事者ならではの証言として不滅の価値をもつ。
本著は過去に大田黒元雄(1936、仏語版から)、塚谷晃弘(1972、英語版から)と邦訳二種が出ており、どちらも愛読したものだが、今回の笠羽女史の訳文は格段に精度が高く入念緻密である。それだけに些か読みにくい箇所もないではないが、懇切な解説と相俟って、近来稀にみる良心的な訳業として推奨されよう。
和田博文
シベリア鉄道紀行史
アジアとヨーロッパを結ぶ旅
筑摩選書
2013
あれは1975年頃だったと記憶するが、大学の先輩がヨーロッパ初旅行でわざわざシベリア鉄道を利用すると聞いて魂消た。空路なら十数時間で着くのに、なんとまあ時代錯誤な企てであることよと驚き呆れたのだ。出発から十日以上かかって漸くポーランドまで辿り着き、ワルシャワからの絵葉書に「世界は広大無辺です」とあったのが今も強く印象に残っている。
本書はまず十九世紀後半に始まるシベリア鉄道敷設の経緯と、その軍事的・経済的・文化的な意義をざっと辿ったのち、日露戦争から第二次大戦期まで、さまざまな日本人の旅行記を博捜してシベリア鉄道での旅を時代順に紹介する。杉村楚人冠、二葉亭四迷、与謝野晶子、山田耕筰、布施勝治、秋田雨雀、尾瀬敬止、勝本清一郎、中條百合子、林芙美子など、実に多くの旅行者がそれぞれに興味深い証言を残しており、彼らの眼を通して旅の風景がまざまざと浮かび上がる。小生の全く知らなかった旅行記も多く紹介されており、裨益するところのきわめて大きい好著。よくぞここまで調べたものだ。
村上春樹
色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年
文藝春秋
2013
厳重な箝口令のもと鳴り物入りで発売日を迎えた村上春樹の新作。
たまたま当日の朝、近所のスーパー内の書店で目にしたので手に取り、夕方には読み終わったが、なんというか、論評する気持の萎えるような出来に失望した。プロットも登場人物も過去の村上作品の焼き直しのようで新味がないし、文章もいつになく平板単調で才気と彫琢を欠く。重要な脇役が途中からいなくなり、伏線として全く機能しないのも、終わり方がいかにもご都合主義的に唐突なのも、毎度のこととはいえ感心しない。いくらなんでも完成度が低すぎないか。まあ百万部のベストセラーに今更あれこれ文句をつけても始まらないのだが。
金井美恵子
ページをめくる指
絵本の世界の魅力
平凡社ライブラリー
2012
凄い名著。1996~98年に福音館の雑誌「母の友」に連載され、2000年に河出書房新社から単行本で出た。絵本を論じて縦横無尽、歯に衣着せず目から鱗の鋭い指摘を繰り出す。まともな知性と批評眼を備えた数少ない本格的な「大人の」絵本談義である。センダックの後期絵本の名状し難い不気味さを、石井桃子の訳文の馨しい魅惑を、ここまで委曲を尽くして語った者があったろうか。
本書は絵本・児童文学界からは体よく黙殺されたらしいが、小生は瀬田貞二の衣鉢を継ぐのはほかならぬ彼女ではないのかとすら感じ入ったものだ(拙レヴューは
→「絵本について彼女が知っている二、三の事柄」)。ラチョフの『てぶくろ』や『マーシャとくま』を語るのにアレクセイ・ゲルマンとセミョーン・アラノヴィチの映画が引き合いに出され、バルテュスの稀覯絵本『ミツ』を紹介しながらマキノ雅弘やアッバス・キアロスタミの名が召喚される。金井美恵子の面目躍如である。
この度の平凡社からの再刊は判型も小さく、元版にふんだんにあった挿図も殆ど割愛されたのが残念だが、改めて再読するに値する内容である。何故ならば巻末に補遺として単行本未収録の文章が百頁以上(!)も付加されているからだ。その白眉は1994年になされた石井桃子との五十頁近い対談(「文藝」初出)。知らなかったなあ、こんな夢のような会話がなされていたのだなあと感激。「熊プー」「ドリトル先生」だけでなく、『幻の朱い実』の蕗子の存在も話題に上る。これが読めるだけでも本書は値千金と云うべきだ。
獅子文六
コーヒーと恋愛
ちくま文庫
2013
村上春樹が期待外れだったから、という訳でもないが、獅子文六の小説ならばさぞかし面白かろうと睨んで手に取った。見慣れぬ題名に惑わされたが、これは元々『可否道(かひどう)』の題で1962年に読売新聞に連載され、翌年その題名で新潮社から単行本が出た由。なあんだ、それなら古本で手に入れて読んだ記憶があるぞ。「コーヒーと恋愛」というタイトルは作者の最晩年に角川文庫から出た際の改題だそうだが、判りやすい分ちょっと興醒めだ。
それはともかく、獅子文六の都会小説はいつもながら愉しい。主人公の男女はいずれも新劇関係者で、活躍の軸足を新興メディアたるTV界に移そうとしているという設定だ。コーヒー好きに端を発した恋の行方を縦糸に、往時の輝きを失いつつある演劇界と、活況を呈する隆盛期のTV業界との対比を横糸に、昭和三十年代の東京の空気を巧みに活写してみせる。息もつかせぬ面白さだ。
獅子文六=岩田豊雄にとって新劇は戦前からの本拠であり、放送局もまたドラマ原作者として身近な場所だったから、作者はどちらの裏事情にもよく通じていた筈。そのせいか筆は伸びやかで、人物の会話も潑剌と息づいている。とはいえ、「ガンゼ(頑是)ない」だの「貫目(かんめ)のある」だの「バクレン(莫連)女」だのと古めかしい表現がそこここに頻出し、流石に半世紀を経た時の経過は争えない。