刊行が予告されてから一年、こんなに発売日が待ち遠しかった書物は久しぶりだ。米国内で店頭に並んだのが先週の火曜日(3月19日)、それがアマゾン経由で拙宅に届いたのが土曜日(23日)──彼此のタイムラグが僅か四日というのは一昔前だったら考えられない時間差である。なんとも便利な世の中になったものだ。もっとも友人は逸早くキンドル版で入手して発売当日にはもう読み始めたというから、時代は遙かその先を行っているのだが。
Simon Morrison:
Lina and Serge The Love & Wars of Lina Prokofiev
Houghton Mifflin Harcourt, Boston/NY
2013
前著 "
The People's Artist Prokofiev's Soviet Years"(2008)でソ連帰還後のセルゲイ・プロコフィエフの半生をつぶさに検証した
サイモン・モリソン教授は、今やプロコフィエフ研究の第一人者として世界が認める泰斗である。
その彼が再度プロコフィエフ評伝に挑んだ。ただし今回は作曲家の妻リーナの生涯に焦点を絞り、彼女の視点から「
リーナ&サージ」──すなわちプロコフィエフ夫妻の「二重肖像画」を描き出す。この作業を通して、天才とその妻が生きた激動の時代、彼らが身をもって体験した葛藤と蹉跌を鮮やかに浮き彫りにする。
カタルーニャ生まれの父とウクライナ出身の母との間にマドリードで生まれ、幼年期をコーカサスで、少女時代をスイスで過ごしたのち、ニューヨークで成長したというリーナの生い立ちは紛れもなく祖国喪失者のそれである。国際的な活躍を夢見たプロコフィエフは祖国の騒擾を嫌い、1918年に革命政府の許可を得て国外へ逃れ、日本を経てニューヨークに辿りついた。両者は翌19年この街で知り合っている。いずれ劣らぬ生粋のコズモポリタン同士の出逢いといえようか。
セルゲイ二十七歳。リーナ二十一歳。前衛的な音楽に理解の乏しい米国の聴衆と格闘しつつ新作オペラを構想する気鋭の作曲家=ピアニストに、声楽家志望のリーナは一目惚れに近い感情を抱いたようだ。若い二人の交際は紆余曲折を経て順調な軌道に乗る。作曲家はオペラ「三つのオレンジへの恋」の登場人物名をこっそり「リネッタ」と改名した。恋人への目配せである。
やがてディアギレフの招聘によりパリに拠点を移したセルゲイは、内戦下のロシアから辛うじて脱出してきた老母の世話を焼く必要もあり、ニューヨークのリーナを呼び寄せる。彼女としてもパリやミラノで声楽に更なる磨きをかけ、機会あらば歌劇場での華々しいデビューを目論む野心があった。やがてリーナの妊娠を機に二人は結婚する。1923年10月のことだ。
上昇機運にあった最尖端の作曲家と、流行のパリ・ファッションを巧みに着こなす美貌の妻。傍目には円満カップルに見えたろうが内情は必ずしもそうではなかったようだ。ストラヴィンスキーに次ぐ作曲家としての地歩を固め、忙しく大西洋を往還するプロコフィエフに対し、リーナの声楽家としてのキャリアは進捗せず、念願のオペラ初舞台も出来は散々だった。著名人の妻として社交界で持て囃される一方で、表現者としての鬱屈したフラストレーションは彼女の裡で澱のように溜まっていく。二人の息子の養育と義母の介護、更には彼女自身の心身の不調もあって、リーナにとっての夫婦生活は順風満帆とは言い難かった。
最大の問題は、互いに相似たコズモポリタンでありながら、故郷をもたずパリでの「今ここ」の生活を享受しようとする妻に対し、夫は生まれ育ったロシアへの郷愁やみ難く、故国を離れたデラシネ状態に満足できなかった点であろう。ソ連当局からの度重なる帰国要請に、プロコフィエフ一家は遂にモスクワ移住を決断する。
1936年、プロコフィエフはモスクワの寓居に妻子を呼び寄せ、実に十八年ぶりの故国帰還を果たす。「放蕩息子の帰宅」さながらに。
折からソ連音楽界ではショスタコーヴィチに対する苛烈な個人攻撃キャンペーン「音楽の代わりに荒唐無稽」が吹き荒れており、移住を目前にしてリーナは旅先の夫に不安と懸念を書き送っていたのだが、プロコフィエフは「自分に限っては大丈夫」と多寡を括っていた。なにしろ当局からは繰り返し、これまで同様に海外演奏旅行の自由、快適なアパルトマンでの裕福な生活、政府の庇護下での特権的な創作活動が保証されていたのだから。事実、この段階で彼に対しては、
■ ボリショイ劇場の委嘱によるバレエ「ロミオとジュリエット」
■ 全ソ放送委員会の委嘱による革命二十周年記念カンタータ
■ プーシキン歿後百年祭のための劇音楽「エヴゲニー・オネーギン」
■ プーシキン歿後百年祭のための劇音楽「ボリス・ゴドゥノフ」
■ プーシキン歿後百年祭のための映画音楽「スペードの女王」
の作曲発注がすでになされていた。ソ連の作曲家としてこれに勝る栄誉はあるまいという破格の待遇である(同時進行で「オネーギン」「ボリス」「スペードの女王」を任されるとは!)。好敵手ショスタコーヴィチの深刻な「苦境」すら、彼の眼にははむしろ奇貨と観じられたに違いない。これら作品依頼がすべて彼を故国に誘き寄せるための「美味しい餌」だったとは、彼もリーナも想像だにしなかった。
ほどなく掌を返すような按配で容赦ないしっぺ返しがやってくる。
ボリショイ劇場は「音楽が理解できない」「踊るには難しすぎる」「原作を改変したハッピー・エンディングは古典への冒瀆だ」など様々な難癖を付けて作曲家に修正を迫る。初演は何度となく先延ばしされた。
マルクス、レーニン、スターリンの言葉をそのまま歌詞にしたことが災いして、革命二十周年記念カンタータは当局の逆鱗に触れ、演奏・出版が禁止された。
プーシキンに基づく三作は、歿後百年祭そのものが大幅に規模縮小されたため、どれも製作中止の憂き目を見た。プロコフィエフの音楽は抽斗にしまい込まれた。
プロコフィエフにとって思いも寄らぬ関係者たちの態度豹変には政治的な背景があった。じわじわと進む独裁者の政敵排除・言論統制・全権掌握──身の毛もよだつスターリンによる粛清がソ連社会のあらゆる領域を蝕みつつあったのである。ショスタコーヴィチへの弾圧はその不吉な序章に過ぎなかった。
それでもプロコフィエフ夫妻の海外渡航は許された。1936、37、38年と、表面上は以前と変わらず欧米での演奏旅行が可能だった。アメリカ製の自家用車を含む奢侈品の購入も大目に見られている。ただし、行く先々で諜報スタッフの監視が付き纏い、作曲家の行動は常にモニターされていた。モスクワに残された二人の息子たちは彼らの帰国を担保する「人質」以外の何物でもなかった。
プロコフィエフ一家はまんまと罠にはまった。生殺与奪の権を握られたのだ。
先の見えない閉塞状況に追い込まれるうち、プロコフィエフ夫妻の関係に罅が入り、亀裂はみるみるうちに広がっていった。
移住当初リーナはモスクワの放送局で唄う機会もあったが、それも程なく沙汰やみとなり、子供たちを守り育てることだけが彼女の生き甲斐となっていく。当局の愛顧を得ようと躍起になる夫からは省みられず、心通わす知友もいない異郷の地で、リーナは深い憂鬱と孤独に苛まれた。
家庭内では口論が繰り返された。アメリカ演奏旅行中、夫妻がしばしば別行動をとった事実も、諍いの深刻さを窺わせよう。当初の目論みとは裏腹に、モスクワ移住は夫婦生活に取り返しのつかぬ痛手を負わせたのである。
1941年3月15日、スーツケース一個だけを携えたプロコフィエフはアパルトマンを出たまま二度と帰宅しなかった。彼は三年前から密かに交際していた詩人志望の文学少女ミーラ・メンデリソンと合流し、その後は公私共に彼女をパートナーとして実生活を共にした。
取り残されたリーナと二人の息子たちの悲嘆は想像に余りある。プロコフィエフからは幾許かの生活費が送られてきたようだが、生活の基盤をもたない異邦人母子にとって、スターリン治下のモスクワでの生活は困難を極めていた。そして三か月後、ドイツ軍の電撃的なソ連侵攻が開始される。
国家の特別な庇護下にあって逸早く安全な疎開先に逃れたプロコフィエフ(とその同伴者ミーラ)とは対照的に、リーナと息子たちは空襲の恐怖に怯えながら四年の歳月をモスクワのアパルトマンで過ごすことを余儀なくされた。リーナは家計を支えるべく、ソヴインフォルムビュロ(ノーヴォスチ通信社の前身)で英語と仏語の翻訳に従事しつつ、外交官たちと接触して密かに国外脱出の可能性を探った。
そして終戦。リーナにとってそれは暗黒時代の幕開けだった。
別居から六年半を経た1947年秋、プロコフィエフは遂にモスクワの地方裁判所にリーナとの離婚を申請した。数日後、裁判所は驚くべき裁決を下した。プロコフィエフとリーナとの結婚は無効だというのである! 国外で提出された婚姻届はソ連国内では効力を有しないというのがその理由である。すなわちプロコフィエフは法律上は過去も現在も独身者と看做され、そもそもリーナとの婚姻関係そのものが「無かったこと」とされたのだから、離婚申請は不要だったのだ。
リーナの同意が要らないとなったら話は早い。善は急げ(?)とばかりに翌1948年1月13日、プロコフィエフは正式にミーラと再婚する(というか、裁判所の判断によれば花婿は初婚なのである!)。リーナにはどうにも抗する術がなかった。
それから一か月と一週間ののち、運命の2月20日がやってくる。
その晩、小包配達の電話で一階まで受取に出たリーナはいきなり身柄を拘束された。彼女を乗せた車はそのままモスクワ中心街区ルビャンカの巨大な禍々しい建物に直行する。ここには悪名高いスターリンの秘密警察の本部がある。
リーナの容疑はずばりスパイ工作。西側の外交官と頻繁に接触し、重要な国家機密を漏らした疑いである。実は何年にもわたって彼女の行動はつぶさに内偵され、事細かにファイル化されていたのである。プロコフィエフとの婚姻関係の消滅は、当局が彼女を拘束する願ってもない好機だっただろう。作曲家の世界的名声という威光はもはや彼女の身には及ばないからだ。
アパルトマンは家宅捜索され、彼女の私物のほかプロコフィエフのピアノ、多くの書籍とSPレコード、壁にあったナターリヤ・ゴンチャローワの絵画も押収された。
あとに残された二人の息子たちは父親に急を知らせるべくモスクワ郊外の別荘まで雪道をひたすら歩いた。プロコフィエフは押し黙ったまま沈痛な面持ちで息子たちの話に耳を傾けた。そのあとで彼が漏らした言葉はなんとも哀しい。「いったい僕が何をやらかしたというのだ?」。
彼とミーラは大慌てで部屋中を点検し、少しでも国外との接触を疑わせるような品々を処分した。外国の雑誌や書籍、手紙類は台所のストーヴで燃やされた。早晩プロコフィエフ本人の身にも司直の手が及ぶと予期されたからだ。
プロコフィエフが前妻リーナの釈放のために何か行動した形跡はない。いかにも冷酷な態度にもみえるが、当時のソ連社会では突然の逮捕は誰の身にも起こり得る「日常茶飯事」であり、それに異を唱える者は巻き添えとして自らも破滅する結果となるのは自明だった。非道が公然と罷り通る恐怖の時代なのだ。
しかもリーナ逮捕の僅か十日前の2月10日、プロコフィエフ自身も当局から厳しい指弾を受けていた。悪名高いジダーノフ批判の対象として、ショスタコーヴィチ、ミャスコフスキー、ハチャトゥーリャンらとともに近作の「反ソ的」傾向を鋭く攻撃されたのである(当分の間プロコフィエフ作品の国内演奏は自粛された)。不幸な偶然は重なるもので、翌11日には最良の協力者として彼が全幅の信頼をおいていた映画監督エイゼンシュテインが心臓発作で急逝する。両者の最後の協働作品《イワン雷帝》第二部もまたスターリンの逆鱗に触れ、公開禁止の憂き目を見た。じわじわ迫りくる弾圧の予感に怯えながら、健康上の不安を抱えるプロコフィエフは無力だった。リーナを救おうとしなかったとて誰が彼を非難できようか。
リーナには有罪判決が下る。刑は矯正収容所での重労働二十年。裁判は至って事務的で、十五分間を要しなかったという。上告審は勿論ない。
それから彼女が獄中で嘗めることになる艱難辛苦については語るに忍びない。
ソ連の強制労働収容所(グーラグ gulag)の過酷な実態については、ソルジェニーツィンを嚆矢とする詳細な告発文献が枚挙に暇がない。リーナの体験もそれらで語られる幾多の証言となんら変わるところがない「ありふれた」ものだ。すなわち劣悪な環境下での重労働、この世の地獄である。
彼女が収監されたのはウラル山脈北西部、コミ自治ソヴィエト社会主義共和国のインタ Инта とアベジ Aбeзь の収容所。それぞれ北緯六十六度、六十五度に位置し、北極圏に接する極寒の地である。家族との面会は許可されず、モスクワで暮らす息子たちとの細々した文通が彼女と外界を繋ぐ僅かな絆だった。
(まだ書きかけ)