わざわざ声を大にして云う事柄でもないのだが、拙宅には今もかなりの数のLPが架蔵されている。何年か前に相当数を処分したものの、愛着故にどうしても手放せなかったアルバムの数々である。
今や殆ど聴く機会を得ないから「宝の持ち腐れ」と揶揄されても反論できないのだが、その多くは初出以来すでに半世紀以上を経ながら一度も再発売されず、忘却の彼方に消え去った録音なのである。哀惜の念とともに、「こんな貴重な音源なのに」と義憤の思いに駆られることも屡々だ。
今日ここで紹介するのも、そうした不当にも顧みられることのない「忘れられた」名アルバムの一枚である。
"25 ans de Musique de Cinéma"
モーリス・ジョーベール:
《巴里祭》(ルネ・クレール監督、1933)より
《霧の波止場》(マルセル・カルネ監督、1938)より
《アタラント号》(ジャン・ヴィゴ監督、1934)より
ジョルジュ・オーリック:
《オルフェ》(ジャン・コクトー監督、1950)より
モーリス・ジャール:
《ユトリロの世界》(ジョルジュ・レニエ監督、1954)より
モーリス・ル・ルー:
《赤い風船》(アルベール・ラモリス監督、1956)より
ジョゼフ・コスマ:
《夜の門》(マルセル・カルネ監督、1946)より
アンリ・ソーゲ:
《ファルビーク》(ジョルジュ・ルーキエ監督、1946)より
ダリユス・ミヨー:
《ニュース映画 Actualités》(バーデン=バーデン音楽祭で上映、1928)
セルジュ・ボード指揮 管弦楽団
解説執筆/ジャン・ロワ
解説朗読/リュシアン・アデス
1956録音
Véga C 30 A 98 (1956)
標題にある「二十五年」とは大まかな目安であり、仏蘭西でトーキー映画が始まった1930年(ルネ・クレール監督作品《
巴里の屋根の下》の公開年)あたりを嚆矢として、四半世紀に及ぶ同国の映画音楽の歩みを一枚のLPで総括する──といったところが本アルバムの制作意図だろう。無論それ以前の無声映画期にも、サン=サーンスの《
ギーズ公の暗殺》(1907)、フローラン・シュミットの《
サランボー》(1925)、オネゲルの《
鉄路の白薔薇》(1922)や《
ナポレオン》(1927)など、刮目すべき成果がない訳ではないが、ここではあくまでトーキー映画登場を起点とした仏蘭西映画音楽アンソロジーを企てたのだろう。
それにしてもなんという見事なセレクションだろう!
戦前の映画音楽を夭折の天才モーリス・ジョーベール不滅の三作品で代表させ、(被占領時代のフィルムは括弧に入れスキップしたのち)、戦後の復興期からはオーリック、コスマ、ソーゲが手掛けた映画音楽を選りすぐり、同時代(1956年当時の)からは最新の話題作《
赤い風船》を担当したル・ルー、記録映画に附曲した新進のモーリス・ジャール(映画音楽作曲家としてはまだ駆け出しだった)まで収録する。最後を無声映画末期におけるミヨーの実験的作品(最新のニュース映像に新たな音楽を附ける試み)で締め括るのも心憎い。
それぞれほんの数分ずつの抜粋とはいえ、オリジナルの総譜を探し出し新規にわざわざスタジオ録音した心意気は大いに偉とするに足る。世界的にみても、この段階で映画音楽史を回顧したLPなど一枚も出ていなかった筈である。
巴里を拠点としたヴェガ(Véga)、およびその後継たるアデス(Adès)は、仏蘭西の1950~60年代を代表する良質なインディペンデント・レーベルである。
両レーベルの製作者(やがて主宰者)
リュシアン・アデス Lucien Adès(1920~1992)は、美麗な絵本に仏語ナレーション入りディスクを組み合わせた新機軸のミクスト・メディア「読み物レコード(livre-disque)」を考案し、ディズニー社から仏蘭西でのレコード化権を委託されると、ピーター・パン、ピノキオ、シンデレラなど一連の朗読LP附き絵本 "Le Petit Ménestrel" を発売して大当たりをとった。
リュシアン・アデスが天晴れだったのは、子供向けディスクの商業的成功をいわば担保とする形で、営業上とても引き合わない無謀ともいうべき芸術的冒険の領域に足を踏み入れたところだろう。
彼はジャン=ルイ・バローの主宰する巴里「マリニー座」で「音楽的領域」と題して一連の現代音楽演奏会を敢行した若きピエール・ブーレーズの試みに逸早く着目し、その指揮により自作自演のほかシェーンベルク、ヴェーベルン、ヴァレーズ、べリオ、カーゲルらの前衛音楽を矢継ぎ早に収録し、シリーズ "Présence de la Musique Contemporaine" として送り出した。
同シリーズにはマニュエル・ロザンタル指揮によるドビュッシー(
→これ)とラヴェル(
→これ)の管弦楽全集、自作自演を含むプーランク(
→これ)、ミヨー(
→これ)、ジョリヴェの作品選集、メシアン「トゥランガリラ交響曲」の初録音など、今なお規範とされる演奏が少なくない。そうそう、プロコフィエフの問題作オペラ「炎の天使」の世界初録音(仏語版)もここから超豪華盤として世に出たものだ(
→これ)。
実のところ、最初に紹介したアルバム "
25 ans de Musique de Cinéma" も、同じこのシリーズ "Présence de la Musique Contemporaine" の一枚としてヴェガ・レーベルから発売されたものだ(
→これ)。ドビュッシーやラヴェルといった20世紀の古典、ブーレーズやメシアンらの尖鋭的な楽曲と並んで、映画音楽までも「同時代音楽」として位置づけ回顧し顕彰しようとしたところに、同レーベルならではの先見的なプロデューサーの慧眼が光っている。
リュシアン・アデスはこのアルバムのため気鋭の批評家ジャン・ロワ Jean Roy にライナーノーツ執筆を依頼したほか、それとは別に懇切なイントロダクションを曲毎に書きおろしてもらい、自らそれらを朗読までして啓蒙に努めている。アデス自身にとっても本アルバムは格別に意義深い企てだったのだろう。
ここで匿名オーケストラを指揮しているのが
セルジュ・ボード Serge Baudo だというのも興味深い。後年ドビュッシー、オネゲル、メシアンに忘れ難い名録音を残すボードもまだ三十そこそこの駆け出しだったが、肌理細やかで情感豊かな音楽づくりを披瀝しているのが実に印象的だ。
このLPをいつどこで手に入れたのか、どうしても思い出せない。いずれにせよ80年代のことだ。
フランソワ・トリュフォー監督が物狂おしい程の愛着をもって熱っぽく擁護称揚し、その音楽を四本もの自作フィルム(《
アデルの恋の物語》《
トリュフォーの思春期(お小遣い)》《
恋愛日記》《
緑色の部屋》)に導入した作曲家
モーリス・ジョーベール Maurice Jaubert(1900~1940)の楽曲が聴ける、殆ど唯一のアルバムだったから愛聴した(他には上述の四作のサントラ盤があった位)。
発売から半世紀以上を経て今や滅多に目にする機会のない稀覯盤をわざわざ話題にしたのには理由がある。
この貴重な先駆的録音が実に五十四年ぶりにCD化されたのだ。迂闊にも最近まで気づかなかったが、カナダの映画音楽専門レーベルDisques CinéMusique から、2010年に丸ごと完全覆刻されていたのである。勿論アデス自身による、ちょっと芝居がかった曲目紹介のナレーション付きで。ブックレットにはジャン・ロワのライナーノーツまで再録(しかも英訳付)されていて至れり尽くせりなのだ。
"25 ans de Musique de Cinéma Française"
モーリス・ジョーベール:
《巴里祭》(ルネ・クレール監督、1933)より
《霧の波止場》(マルセル・カルネ監督、1938)より
《アタラント号》(ジャン・ヴィゴ監督、1934)より
ジョルジュ・オーリック:
《オルフェ》(ジャン・コクトー監督、1950)より
モーリス・ジャール:
《ユトリロの世界》(ジョルジュ・レニエ監督、1954)より
モーリス・ル・ルー:
《赤い風船》(アルベール・ラモリス監督、1956)より
ジョゼフ・コスマ:
《夜の門》(マルセル・カルネ監督、1946)より
アンリ・ソーゲ:
《ファルビーク》(ジョルジュ・ルーキエ監督、1946)より
ダリユス・ミヨー:
《ニュース映画 Actualités》(バーデン=バーデン音楽祭で上映、1928)
セルジュ・ボード指揮 管弦楽団
解説執筆/ジャン・ロワ
解説朗読/リュシアン・アデス
■ボーナス・トラック
モーリス・ル・ルー:
《赤い風船》組曲(オリジナル・サウンドトラック)
モーリス・ジョーベール:
《巴里祭》より
三つの舞曲 ピアノ/サワイ・ヨウコ
「巴里恋しや À Paris dans chaque faubourg」 歌唱/リス・ゴーティ
ジョゼフ・コスマ:
《夜の門》より
「枯葉 Les feuilles mortes」 歌唱/イーヴ・モンタン
「愛し合う子供たち Les enfants qui s'aiment」 歌唱/イーヴ・モンタン
モーリス・ジョーベール:
《テッサ》(ジャン・ジロドゥー作)より 「テッサの唄」 歌唱/イレーヌ・ジョアシャン
Disques CinéMusique DCM 122 (2010)
カナダの Disques CinéMusique レーベルはこれまでも「
ジョーベール管弦楽曲集」(《アデルの恋の物語》に用いられた「フランス組曲」、《恋愛日記》で聴かれた「間奏曲集」ほか。カヴァー写真が極美!
→これ)やら、ジョルジュ・ドルリュー指揮による「
ジョーベール映画音楽集」(マドリードでの演奏会実況
→これ)やら、モーリス・ジョーベール絡みの貴重な音源をCD化しており、今回の覆刻もそうした確たる方向性に沿って企図されたものとわかる。
世にモーリス・ジョーベール愛好家なるものが果たしてどれ位いるのか想像もつかないが、小生もまたその末席に連なる者として左欄の「自己紹介」に「好きな作曲家」としてジョーベールの名を掲げている。確実に云えそうなのは、そうした愛好家の多くがフランソワ・トリュフォーの映画を通して、彼の音楽と出逢ったことだ。トリュフォーのジョーベール熱はそれ程に凄まじく、しかも強い伝染性を帯びていたのである。このあたりの経緯は以前ここで書いたことがあった。
→モーリス・ジョーベールを甦らせる
→ジョーベール歿後七十年
→ありったけのジョーベール
モーリス・ジョーベールが20世紀を代表する大作曲家だと言い募るつもりは毛頭ないのだが、その飾り気のない音楽がひとたび映像と出逢うと、なんとも説明できぬ不思議な化学反応が生じ、人の心を酔わせ、かき乱す。
嘘だと思うなら、ジャン・ヴィゴ監督の《
アタラント号 L'Atalante》、その劈頭の八分半──花嫁花婿を先頭に教会を出た婚礼の行列が粛々と村道を抜けて河岸に到着、新婚の二人を乗せた平底船アタラント号は静かに運河を進み、不安と困惑を隠せない花嫁はひとり甲板を所在無げに歩く──をご覧になるといい。夢の中の光景さながら美しくも胸に迫るヴィゴの天才的な映像に、ジョーベールの純朴無垢な音楽が魔法のように重なり合い、溶け込むさまを。奇蹟というほかない。