先日ここで長々と紹介したアレクサンドル・タローのディスク「屋根の上の牡牛──スウィンギング・パリ」は昨秋に出たばかりの最新盤だが、拙宅には世評の高い彼のバッハやスカルラッティ(勿論どちらもピアノ演奏)は架蔵しない。
だが待てよ、何かあった筈だぞとCDの山を掘り返したら、もう十数年前の旧作になるが、そのタロー君が係わった頗る魅力的なディスクが見つかったので簡単に紹介しておこう。いずれも20世紀前半、仏蘭西六人組の作曲家の楽曲だから、「屋根の上の牡牛」ともあながち無関係ではない。だから聴き返してみた次第。
"Poulenc: Complete Chamber Music Vol. 5"
プーランク:
「仔象ババールのお話」(仏語版)*
劇音楽『城への招待 L'Invitation au Château』(vn, cl, pf)**
劇音楽『レオカディア Léocadia』(vn, cl, fg, cb, pf, voice)***
「仔象ババールのお話」(英語版)****
朗読/フランソワ・ムーザヤ(十二歳)*、ナターシャ・エマソン(十三歳)****
歌唱/ダニエル・ダリュー***
ヴァイオリン/ティボー・ヴュー** ***
クラリネット/ロナルト・ファン・スパーンドンク** ***
ファゴット/ロラン・ルフェーヴル***
コントラバス/ステファーヌ・ロジュロ***
ピアノ/アレクサンドル・タロー
1995年10月~97年10月、
パリ、ボン・スクール寺院、クールブヴォワ、エスパース・カルポー
Naxos 8.553614 (2000)
全五集からなるプーランク室内楽全集の最終巻。室内楽とはいうものの、「
仔象ババールのお話」(1940/45)はピアノ独奏に童話の朗読が絡んだ「音楽物語」の範疇に入る異色の作品だし、『
レオカディア』(1940)と『
城への招待』(1947)とはいずれもジャン・アヌイの芝居のための付随音楽なので、室内楽といっても他の諸作とはおよそ成り立ちも様相も異なる。
「ババール」の仏語版・英語版の両方を収録した趣向もさることながら、戦中の芝居『レオカディア』の音楽が聴けるのが嬉しい。センティメンタルな佳曲「愛の小径 Les Chemins de l'Amour」を含むことで名のみ知られる劇音楽『レオカディア』全体の、本演奏はその世界初録音である由。これだからナクソスは油断がならない。これはプーランク愛好家の必携盤なのだ。しかもイヴォンヌ・プランタンが創唱した「愛の小径」の歌唱を(なんと!)
ダニエル・ダリューに委ねている。こういう贅沢な人選は、ひょっとしてアレクサンドル・タローの発案になるものだろうか。
さて初めて耳にする『レオカディア』の付随音楽はしみじみ心に滲み入る回顧的な旋律が綾なす。プーランクとしては気楽に興の赴く儘さらり書き流した趣だが、占領下の巴里市民にひとときの憩いと慰めを齎したことは間違いなかろう。
「愛の小径」は数多の歌手が愛唱してきたわりに、初演当時のプランタンの初録音を凌駕することが難しい。平易な旋律が却って災いしてか、プーランク歌曲中での躓きの石なのである。ここに聴くダニエル・ダリューの歌は普通の意味での上手な歌唱ではないが、淡々と過去を回想するような語り口が絶妙。八十媼とは思えぬコケティッシュな魅惑もそこはかと漂い、流石に大女優のことはある。そういえば《
ロシュフォールの恋人たち》でも、双子姉妹の母親役の彼女だけは吹替でなく自分の声で唄っていたっけ(
→これ)。因みに彼女は今も齢九十五でご存命。
本アルバムでタローの切れ味のよい瀟洒なピアノ演奏を満喫できるのは、やはり英仏両ヴァージョンで聴く「ババール」だろう(ピアノ部分は共に同一と思われる)。プーランクならではの優美な響きが絶妙なバランス感覚で紡がれる秀演だが、同曲にはこれまでも朗読・ピアノ共に掬すべき名演奏が少なくなく、
*ピエール・ベルナック+作曲者 (BBC/Testament)
*レイモン・ジェローム+ジャック・フェヴリエ (Adès)
*ユーグ・キュエノー+ビリー・エイディ (Lys-Dante) →拙レヴュー
*ジャンヌ・モロー+ジャン=マルク・リュイサダ (Deutsche Grammophon)
*ナタリー・ドセ+シャニ・ディルカ (Didier Jeunesse)
*忌野清志郎+高橋アキ (東芝EMI→ディスク クラシカ ジャパン)
*岸田今日子+舘野泉 (オクタヴィア・レコード)
など秀逸盤・注目盤・異色盤が目白押しなので、朗読にローティーンの子供を起用した意外性は買うが、本盤に「語り物」としての妙味が乏しいのは否めない。
さて続くタローの二枚目も同じくナクソスの廉価盤から。やはり「六人組」に出自をもつダリユス・ミヨーのピアノ組曲ばかり集めた珍しいアルバムだ。
"Milhaud: Piano Music"
ミヨー:
「ブラジルの郷愁(舞踊組曲)」
「家事のミューズ」(M.M.M.M.に捧ぐ)*
「ボヴァリー夫人のアルバム」*
ピアノ/アレクサンドル・タロー
朗読/マドレーヌ・ミヨー*
1995年1月9~14日、パリ、サン=マルセル寺院
Naxos 8.553443 (1995)
厖大な作品数(作品番号は443に達した)に比して、これぞ代表作という決定打に乏しいミヨーは小生には縁遠い存在のままだ。ピアノ曲だって少なからず存在するのだが、二台ピアノのための「スカラムーシュ」以外はとんと馴染薄だし、二曲あるというピアノ・ソナタなど一度も聴いた憶えがない。架蔵するディスクも、ここに採り上げるタロー盤のほかは、ミヨー門下の作曲家ウィリアム・ボルコムが弾いたLP(同じく「ブラジルの印象」と組曲「春」などを収録)位だろうか。
だから小生には本盤の演奏を云々する資格はないのだが、ともすればどんより淀んで混濁しがちなミヨーの複調的音楽がすっきり整理され、玲瓏明晰に響いたのには感心。小気味よいリズムが好もしい。流石タロー君は只者ぢゃない。
とはいえこのディスクの本当のお楽しみはこれからだ。
二曲目の「
家事のミューズ La Muse Ménagère/The Household Muse」は滅多に聴く機会のない楽曲。作曲家が愛妻マドレーヌの内助の功に報いるべく、感謝の意を込め捧げたピアノ曲集なのだとか。一分ほどの可憐な小品がずらり連なる。夫人の証言を引こう。出典はロジャー・ニコルズによるインタヴュー。
主人は私に内緒でこっそり曲を書いてくれたこともありました。私が帰宅する物音を聞きつけると、サッとどこかに隠したりしてね。それは十五の小品からなるピアノ曲集で、The Household Muse と題されています。「M.M.M.M.に捧ぐ」とあるのは、"Madeleine Milhaud Muse Ménagère" という意味なの。
──Roger Nichols.
Conversations with Madeleine Milhaud (1996)
タロー録音が貴重なのは齢九十二のマドレーヌ未亡人が収録に立ち会ったばかりか、矍鑠たる声で各曲の始まりに曲名を告げているところだ。この肉声には聞き憶えがある。彼女はシャルル・デュランの許で研鑽を積んだ女優であり、結婚して舞台から退いた後もラジオやレコードなどで朗読役を務める機会があった。小生がマドレーヌの堂々たる仏蘭西語を初めて耳にしたのは、ストコフスキー指揮によるストラヴィンスキー「
兵士の物語」のLPだった(
→日本盤 *米盤は仏語・英語の両ヴァージョンあった)。ほかにアブラヴァネル指揮のオネゲル「
ダヴィデ王」「
ユーディット」のLP、ストラヴィンスキー自作自演による「
ペルセフォネ」実況録音でも朗読役で参加した。本録音は久々に旧知の声を聴くような懐かしさだ。
三曲目は更に珍しい。十七の小品からなる「「
ボヴァリー夫人のアルバム」といって、元々ジャン・ルノワール監督作品《
ボヴァリー夫人》(1933)のため作曲された映画音楽だ。傑作の誉れ高い《
素晴らしき放浪者(=水から救われたブーデュ)》(1932)と《
トニ》(1935)の間に位置するルノワール作品、と聞くと期待が高まるが、完成後に制作会社の手でばっさり短縮され、三時間以上あった大作が百分程度に短縮された版しか現存せず、フィルムセンターで一度だけ観た記憶では失望するほかない作品である(ミヨーの付随音楽も殆ど印象に残らなかった)。
ところがどうだ、ここでピアノ曲集として聴き直した「ボヴァリー夫人」は密やかな佇まいを湛えた佳曲揃いなのである! ミヨーらしい生気や華やぎには欠けるものの、しみじみ心に染み入る魅惑の小品ばかりだ。加えてここでも各曲の冒頭には原作「ボヴァリー夫人」の粗筋を辿ったマドレーヌ夫人の英語朗読が挿入され、いやが上にも床しい雰囲気を醸し出す。この趣向は彼女自身の創意になるものといい、こうした形で同曲が録音されるのは初めてなのだそうだ。これが聴けるだけでも本盤の価値は疑いない。勿論ここでもタローのピアノは繊細を極める。
小児麻痺やリューマチで苦しみ続けたミヨーとは対照的に、心身共に健やかだったマドレーヌ夫人はこの録音の数年前(1991年)、研究者ロジャー・ニコルズの要請に応え、アルマ・マーラーからルチャーノ・べリオまでが登場する出色の回想インタヴューを残している(Faber & Faber, 1996刊)。1920年代の巴里を回顧した部分には酒場「屋根の上の牡牛」誕生に到る裏話も語られていて、面白くて資料性にも富んだ第一級の読み物である。
マドレーヌ・ミヨーはその後も巴里のクリシー街で矍鑠たる老後を過ごし(百二歳で鮮明に回想する驚異的な映像がある
→ここ)、2008年に百五歳の長寿を全うした由。なんとも羨ましくも天晴れな人生であることよ。