1999年の初夏、ルノワール展を成功裏に終えた褒美に一箇月の訪英休暇を自らに与えた。さしたる目的もないまま倫敦市街をひたすら歩き廻った。たまたま情報誌で
クリス・マルケル絡みの催しがあると知り、普段は足を踏み入れないヴォクソール界隈の「ビーコンズフィールド Beaconsfield」という小さなスペースを捜し訪ねた。自作上映会かと思いきやさにあらず、古い無声映画の断片に自ら撮ったショットを織り交ぜた映像を五台のTVモニターで映し続ける "Silent Movie" と題された一種のインスタレーション作品だった(
→こういう展示)。
マルケルの知られざる新境地を目の当たりにしたといえば正にそうだが、正直なんだか拍子抜けしたような思いで会場を後にし、近くに屹立する発電所の廃墟の四本煙突(ピンク・フロイドのLPジャケットで名高い)を写真に撮るとすごすご退散した。
とるに足らぬ記憶だが、クリス・マルケルというと思い出す。あれが彼の新作との最後の遭遇ということになる。もっとしっかり観ておけばよかったと今になって悔やむ。
手元には2008年の訪倫時BFIで買ったクリス・マルケルの小ぶりな研究書がある。
Catherine Lupton:
Chris Marker: Memories of the Future
Reaktion Books, London
2005
以前ざっと拾い読みしただけだが、豊富な写真と共にマルケル作品を年代順に追いながら、懇切な解説を加えた好著。と同時に、小生の知り得たフィルムは膨大な仕事のほんの一部に過ぎないのだと思い知らされる、という意味でも有益な書物だった。「未来の記憶」という副題が実に云い得て妙。
もう一冊、大切な書物を架蔵する。昔、青山にあった映画専門店で見つけた。これぞ「究極の」と形容したくなる必携のクリス・マルケル本。当時5,730円もしたが即座に衝動買いした。本当は誰にも教えず、そっと秘密にしておきたい素晴しさなのだ。
Chris Marker:
La Jetée, ciné-roman
Zone Books, NY
1992
これは凄い本だ。映画《
ラ・ジュテ》の全ショットのスチルを順序どおりに配列し、傍らにナレーション全文を忠実に採録した一冊...ということはつまり、映画そのものとそっくり同内容を丸ごと収録・再現した夢のような書物なのである!
あの「究極の映画」を軽々にDVDで再見しようとは思わない。奇蹟のようなフィルムには暗闇とスクリーンこそが相応しい居場所なのだ。だから細部を偲びたくなったら本書の頁を捲る。心のなかのスクリーンに映画が甦るだろう。称讃の言葉を引く。
"This book version of La Jetée is, to my mind, astonishingly
beautiful. It brings a total freshness to the work and a new way
to use photos to deal with dramatic events. Not a film’s book, but
a book in its own right — the real ciné-roman announced in the
film’s credits." — Chris Marker